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豊洲卸売市場と財政問題

施設を充実させれば費用がかかります。取扱高が右上がりで拡大する時代ではない今、どうしても利用料金に影響を与えざるを得ません。


豊洲中央卸売市場の第5街区予定地
(ここは青果卸が中心で、ほぼ2階建て。ゆりかもめから見て卸売市場の手前側に“千客万来施設”が入る)

■市場内の温度管理に万全を期す
前の記事「ららぽーと豊洲と新中央卸売市場の計画」では、卸売市場そのものではなく一般向け商業施設についての話ばかりしていました。でももちろんこの移転計画は、付帯される商業施設よりも卸売市場本体をいかに整備するかということが主眼です。

築地の中央卸売市場が豊洲に移転する理由は、大雑把にいえば次の3点といってよいでしょうか。
・施設老朽化への対応
・手狭感(敷地拡大の必要性)
・衛生面や運用面(保管、物流など)改善の必要性

もともと江戸時代から大正時代まで、主要な魚市場は日本橋にありました。関東大震災で日本橋の河岸が被害を受け昭和初期に築地に市場が移転したときも、その移転の理由は上の3点とほぼ同じだったと思います。一定の時代ごとに都が“遷都”されていくようなものかもしれません。

現時点では特に「温度管理のできる施設」を求める声が強く、そのため新市場では大がかりな空調設備が導入されることになるでしょう。衛生管理のために高床式も採り入れられるようです。その分、設備投資も膨むことは避けられません。

■東京オリンピックとも関係ある? 市場財政の行方
以下東京都に限った話ですが、昭和46年度以降、卸売市場の経常収支はほとんどずっと赤字続きでした。1990年代半ばからの赤字幅は大きく、2005年の段階で累積欠損金が約200億円まで膨んでしまいました。

ただしこの間、旧江東市場および旧神田市場の閉鎖に伴い土地などを民間に放出した後にだけ、一時的に黒字化しています。そのあたりの事情は東京都の次の資料で説明されています(読んだだけではどうも釈然としないところもありますが…)。

「市場財政白書(2002年)」http://www.shijou.metro.tokyo.jp/gyoei/02/02.html

旧神田市場といえば、「昭和レトロ(1) ― 昭和風の外食店増える」で触れた「秋葉原UDX」ビルなどが今あるところです。この飲食街の名「アキバ ICHI(市)」は、かつてあった神田「市」場から名付けられています。

結局、土地という自らの身体(財産)を切り売りすることで一時的にしのいできた市場財政ともいえます。今回も、がめつい言い方をすれば、できるだけ築地の土地を高値で売り抜けて、豊洲の土地・設備の整備もできるだけ民間にゆだね(投資支出を最小限にして)、あわよくば市場財政を立て直すきっかけにしたいという考え方も成り立ちそうです。

そんな背景を考えると、東京オリンピックで築地をプレスセンターにするという計画も、その後どこぞの放送局に入ってもらいたいとかいう都知事の希望的観測も、たんなる思い付きではない、東京都の中長期的な経営建て直しの一環だということに行き着きます(もちろん単純に市場財政のためだけではなく、いろいろな側面があるのでしょうが、ここでは触れません)。

■豊洲市場の使用料は高くなるらしい
累積欠損金という負のストックにどうケリをつけていくのか、資産切り売りだけで解決するとは思えませんが、同時にフロー(経常赤字)についても手を打たなければ結局また将来の市場財政はにっちもさっちもいかなくなります。そこで出てきたのが「市場使用料の値上げ」です。

いままで中央卸売市場の使用料は、全市場同額が基本でした。簡単にいえば、黒字市場(築地や大田)が赤字市場分を補ってきたということになります。そこで最近になって、たとえば赤字の市場では使用料を値上げできるよう法律改正が行われ、市場別に料金設定ができる制度へと変更されました。

ところが都内“値上げ第1号”が、どうも豊洲新市場になってしまいそうだと報道されています。「温度管理ができる近代設備を用意したのだから、つまり付加価値をつけた市場なのだから、そのコストも利用者が負担してください」、という理屈になるのでしょう。それはそれでもっともなことでしょう。

しかしその結果、築地から豊洲に移る中卸業者などは数が減ることになるでしょう。もっとも、赤字で今後経営的についていけない業者を振り落とす狙いがあるとも噂されていますので、市場を経営する側からするとそれも狙い通りかもしれません。

そこまでして新しい中央卸売市場が必要なのか、という素朴な疑問もあります。でも、官営の卸売市場がどんな厳しい立場にあるかなどは、もちろん関係者はよくわかっているはずです。市場整備計画に伴う資料を読むと、今後の生鮮品流通の仕組みがどうなっていくのかも、さかんに議論されているようです。専門家の方々の英知がぜひプラスの方向で現実になっていくことを期待したいところです。

江戸東京たてもの園

東京小金井市にある「江戸東京たてもの園」には、銅板建築のほか古い建築物がいくつか保存されています。

丸ニ 武居
(左)丸二商店・銅板建築/(右)武居三省堂店内・桐箱の引出し

■銅板建築をゆっくり観察できる
銅板建築 1―“昭和元年”が消えていく」ほかで、昭和のはじめに建築された銅板建築について触れました。街中に現存しているというわけではありませんが、江戸東京博物館の分館ともいえる「江戸東京たてもの園」に数棟、移築されて残されています。街に現存している銅板建築の建物だと、住人もいますし、なかなかゆっくり観察できるとは限りません。でもここなら細部まで観察できます。

Watch our steps! – webpage 「銅板建築の写真一覧」で街中の銅板建築の写真をリスト化していますが、たてもの園の写真についても番外「銅板建築-江戸たてもの園」として掲載しました。

こうして建造物を移築するのに、どのくらい費用や手間がかかっているのでしょうか。銅板建築を新しい店舗に再利用するためのヒントがもっとあればと思ったのですが、園内の図書館でもさすがに実務的なデータを見つけることはできませんでした。

■歴史的建築物を復元
上の写真右側は神田須田町にあった文具店の店内です。おびただしい数の桐箱が壁に積まれているほか、毛筆とか墨汁とか、古いダンボールとか、本当に建物が“生きたまま”再現されているのに驚かされます。

もちろんこのたてもの園には、昭和初期の商業建築物だけでなく、江戸時代の民家、明治の土蔵、明治・大正・昭和の住宅などが立ち並んでいます。”懐古趣味”といわれてしまえばそれまでですが、東京の街には残り少ないだけに興味深いです。

下の写真は昭和4年建設の銭湯子宝湯。湯船からみた光景。建物の外まで見えます。
子宝湯

▽関連情報:
銅板建築リスト番外編) 江戸東京たてもの園

ららぽーと豊洲と新中央卸売市場の計画

ららぽーと豊洲の開業と新築高層マンションの増加がきっかけで、豊洲が注目されています。一方中央卸売市場の豊洲移転も2012年開業を目指し具体的になってきました。

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まだほとんど空き地状態の豊洲新中央卸売市場予定地[撮影:2006年8月]

■新市場の基本設計決定
「基本設計が決定された」との報道がありました。とは言ってもこれまでに公表されていたプランの認証のようなものかもしれませんが、行政の情報として2006/10/13付けで第12回新市場建設協議会資料が掲載されています(中身は配置図などが中心で、特に一般向けに目を引くドキュメントではありません)。

このプロジェクトの中心はあくまでも卸売市場の機能整備ですが、例の「先客万来ゾーン」(一般消費者も訪れる賑わいゾーン)について先に考えてみます。近くにららぽーと豊洲という強力な賑わいゾーンが現実化したわけですが、それが豊洲新市場の賑わいゾーンをイメージしやすくしているような気がします。

参考:豊洲市場はパラドックスを解けるか?

数年前から行われている議論の中では、
・消費者と市場業者が交流するための施設が必要
という声とともに
・「千客万来」とは市場本来の生鮮食品の流通業務が評価された結果であって、市場本来の機能とは別に消費者のための施設を設けることが必要なのか疑問
という否定的な意見も確かにあったようです。

しかし結局、「買出人にとって魅力のある市場を作りたい」という狙いから、賑わいゾーンを設ける方向で議論は進んできました。「日々新しいものが発見できるとか、買出人に来てもらうような仕掛けが必要ではありませんか ~(中略)~ だったらこれを千客万来ゾーンの中に入れて、一緒にやった方がよりメリットが出ると思っています」(資料2003年「第9回新市場建設基本問題検討会議事録要旨」

また、市場部分の目隠し、つまり物流活動に伴う騒音や匂いなどを「表玄関」から遮断するための緩衝帯が欲しいといった理由があったようです。どうしても雑然としてしまいがちな卸売市場の見栄えの悪さを目隠ししておくに越したことはないということになります。見ようによっては、銀座、築地、晴海、東雲、有明、台場といったベイサイドの商業地・住宅地に囲まれた中心地域とも言える場所ですから、大田市場のような卸機能onlyという選択は、やはりとれないのかもしれません。

■矛盾をはらむイメージ作り
議事録など関係者の発言を見てみると、「マスコミは千客万来ゾーンばかりを強調してしまう」という傾向を危惧し、原則的には市場関係者が商売しやすい環境作りに重きを置きたい様子が窺われます。市場内の事業者からすると、本来の商売と競合するような店が千客万来ゾーンに入ってしまっては困ることにもなります。

一方、施設配置は(いくつかあった案のうち)「千客万来施設などの賑わいゾーン機能を流通機能と重層化して配置する案」(B案)が採用されました。「『食』をコア・コンセプトとした、オープンスペースを兼ね備える、複合的な賑わい施設」という千客万来ゾーンの基本コンセプトを素直に受け取る限り、一般向けに広く開放した商業施設がイメージされます。実際、過去の資料のパース図を見ると“ららぽーと豊洲をまねたか”と思うようなイラストが描かれています(時期的にはららぽーとよりこっちが先だと思いますが…)。

卸売市場という専門的な機能を前面に出すと、賑わいを創り出す力は弱くなりかねない。しかし賑わいを創り出そうとするPR努力は、卸売市場の業者の利害と反するところがある…。PR戦略一つをとっても、やはりどこか矛盾する方向性を内包している議論のように思えます。

“自由経済圏”築地(場外商店街など自然発生的に生まれた賑わいゾーンがあるという意味)でさえ、卸の専門機能と一般小売機能の共存に常に頭を悩ましています。
“計画経済圏”豊洲(なんて言ってしまうと怒られそうですね!)では、どのような展開を見せるのでしょうか。

なんとかして民間の力 ― PFI(Private Finance Initiative:民間の資金・経営ノウハウを活用して公共施設などの建設・運営などを行う事業手法) ― を取り入れ、賑わいを作り出そうとしています。PFIについても実現できるかどうか悲観的な見方があったようですが、やはりこのあたりが成否の鍵となっていくのかもしれません。

■ららぽーととの比較
豊洲市場の千客万来ゾーンの計画書に、ゾーンが持つべき機能や役割が具体的に挙げられています。

(a) 産地・出荷者の消費者情報に対するニーズに応える
(b) 小売・買出人の産地情報等に対するニーズに応える
(c) 上記2点を自らの営業に活かす→アンテナショップの設置、イベントの開催
(d) 消費者との直接的接点を得る→児童向けの料理実習、課外教室などの実施
(e) 全国、海外の市場情報・食材情報、食材サンプル等が入手できる機会を提供する
(f) 流通業者を中心に、業界内異業種間の情報交換の場を提供する→情報交流センターの提供
(g) 消費者の嗜好に応えることのできる多様なリテール支援をソフト・ハードの両面から行う
(h) キャッシュレスシステムの導入
(i) 小口買出人利便性を向上する→ワンストップショッピング売場の設置
(j) 現物や対面の取引をより重要視する
(k) 商社等の市場外の食関連事業者にオフィス、会議室、ランチミーティング等のスペースの提供

またしても“無理やり”の比較になりますが、まさに実現されたばかりのららぽーと豊洲を思い浮かべ、これらの内容について両者の力関係を想像してみました。

○千客万来ゾーンの方が優れた(もしくはこちらにしかない)機能
→ (a) (b) (f)
○千客万来とららぽーとの両者にあり、共存できそうな機能
→ (c) (e) (i) (k)
○ららぽーとの方が間違いなく優れている機能
→ (d) (g)
○一般的な機能であり、比較する意味があまりなさそうな機能
→ (h) (j)

ららぽーとで話題の「キッザニア」なんて、まさに(d)を完全にカバーしてしまっているのではないでしょうか。(g)については勝負になりません。少なくとも、ららぽーとで長時間費やす一般消費者が、豊洲の千客万来ゾーンにわざわざ立ち寄るシチュエーションは限られるかと想像します。

なんてこと勝手に言っていますが、これらは単なる思考実験ですので、悪しからず(笑)。

銅板建築 2-古い店舗を活用し地元活性化

銅板建築を活かして店を開いた例が品川にあります。古い老舗店が廃業した跡を、地元関係者がうまい形で活用しました。

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■地元の事業者たちがNPO法人を設立
場所は北品川。旧品川宿、旧東海道に程近い場所にある居酒屋「居残り連」がそれです。地元の商売人たちが作ったNPO法人「東海道品川宿」が事業主体となっています。写真左のように、正面の銅板はかなり明るい緑色で、そこそこ繁盛している様子です。この店のほかにも北品川にあと2店ほど、同法人が運営(プロデュース?)している店舗があります(ここ以外は銅板建築の店ではない)。

NPO法人東海道品川宿 http://www.ren-shinagawa.com/ren-top/ren-top.html

「居残り」というネーミングでピンときた人の多くは、きっと落語ファンでしょう。幕末の品川宿を舞台にした「居残り佐平次」という面白い落語があります。その落語の中で料理屋の名前が出てくるのですが、ほかでもない、それがこの店の前身である鰻屋「荒井屋」です。つまり、江戸時代から続く老舗の鰻屋がつい最近までここで営業していました。2004年に惜しまれながら閉店したのですが、その銅板建築の店舗を「居残り連」として再生したというわけです。

筆者は落語にも映画にも疎いのですが、落語「居残り佐平次」を下書きにして作られたモノクロ映画「幕末太陽傳」(1957年日活、川島雄三監督、フランキー堺主演)を面白く見たことがあり、そこから「居残り佐平次」に親近感があります。居酒屋としては、客のそんなさまざまな話題、薀蓄の一つひとつがきっと酒の肴になっているのでしょう。

■銅板建築に新しいイメージを
背景には、他に比べれば活気ある商店街とはいえ、やはり近年空き店舗が目立つようになったという事情があります。この店は商店街からは外れたところにあるのですが、旧東海道沿いの商店街で年々古い店の廃業が続くのは他の商店街と同様です。放っておけば廃れていくかもしれない商店街をいかに活性化するか。地元の人たちだけでなく、商業関係者にさまざまな商売のアイデアが求められています。

そんな意味で、「連」のような再生モデルは参考になるのではないでしょうか。“昭和レトロ”の主張、地元の話題の提供、手作り商品(料理)のイメージなどを切り口に、銅板建築を一つのシンボルにしてしまうなんてこともありえませんかね。古い形そのままを残すのも手ですが、少し見方を変えて銅板建築に新しいイメージを吹き込んでみたい気もします。

前の記事「銅板建築 1-“昭和元年”が次々消えていく」でも触れましたが、せっかくの銅板建築の店がこれからも消えていくことが予想されます。現に、いまにも解体されておかしくない閉じた店舗があちこちにあります。

当ブログと並行して制作しているwebsiteに、銅板建築の写真を掲載しています(今後もupdateする予定)。

銅板建築の写真一覧

写真一覧を見てもわかるように、商店街の角や大通りに面した場所などかなり価値のある場所にも、ひっそりと銅板建築がたたずんでいます。

▽関連情報
マチヅクリ http://blog.kansai.com/toshikeikaku/118
スージグヮー http://blog.so-net.ne.jp/suzygwa/2005-12-17
Kai-Wai 散策 http://mods.mods.jp/blog/archives/000117.html

機関庫裏のフォトブック http://numajiri.cocolog-nifty.com/sinagawa/cat3208964/index.html
建築探訪・縦横無尽 http://blogs.yahoo.co.jp/chipimaro22/folder/1453178.html
関心空間 http://www.kanshin.com/keyword/209227

鉄道模型にも、こんなミニチュアの看板建築があるようです。
KATO http://www.katomodels.com/product/nmi/kanban_bldg.shtml

銅板建築 1-“昭和元年”が消えていく

「銅板建築」というものをご存知でしょうか。古い店舗の建築様式ですが、今となっては希少価値もあり、ユニークな店作りに活かせるのではないかと予想します。

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■味のある深緑色の店舗兼住居
モルタルなどで作られた2階建てくらいの商店の外壁に銅板を貼ってある古いタイプの建物のことを「銅板建築」と呼びます。そのほとんどは店舗兼住宅で、主に東京周辺の古くからある商店街にみられます。銅板だから茶色か金色か、いわゆる真新しい銅の色をしているのかというと、さにあらず。長い間風雨にさらされて、写真のように深めの緑色をしているのが普通です。「ああ、そういえばそんな店が昔よくあったな」と記憶の中で思い至る方もいるのではないでしょうか。

銅板建築の店が建てられたのは例外なく昭和初期、それも昭和3年前後と決まっています。大正12年9月の関東大震災で東京の街が焼け、その後都市計画が整って盛んに新しい様式の商店が建てられた時期というわけです。

昭和初期に流行だったとはいえ、今となっては「古くさい建物」なのは否定しようもありません。戦争で焼け残り、高度成長時代にもとくに変化なく、バブルの荒波からも生き残ったとはいえ、いわば時代の流れから置いていかれた建築物です。今残っている銅板建築の店はおよそ“80歳”。老朽化により年々その数は減っているはずです。

しかし逆に今となってはその緑色と文様に風情があり“昭和レトロ”を感じませんか?

レトロ調の店舗設計が注目されつつある今、銅板建築の店がなくなっていくのはとてももったいない。希少価値を逆手にとって、ユニークな店作りに再活用したらよいではないかと切に思うのですが、いかがなものでしょう。

■また1軒、歴史になってしまうのか
冒頭の写真は都内南部、鉄道の駅の出入口真正面にある銅板建築の商店(タバコ店)ですが、見ての通り、店は完全に閉じられています。棟つながりの隣の店のシャッターに「永らくご愛顧いただきましたが、この度解体することになり…」といった意味の貼り紙がありました。この銅板建築も跡形がなくなってしまうのでしょうか。

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近づいてみると、文様の入った壁、コーナーの独特な模様、年季の入った黒ずんだ銅板、小さな天守閣のようにも見える3段目(木造住宅は原則2階建てで、3階とも見える部分は建前上“屋根裏部屋”のような位置づけが多かったそうです)。元の建物がそのまま残せないものならば、せめて表面と特徴のある部分だけ剥がして残しておき、新しい商店つくりに活かせばよいではないか~。

実際、古い建物を解体するときに建具や壁を保存しておき、新しい店作りで再活用するという手法は珍しくありません。資金力の乏しい中小商店を再生する一手法として、日本全国で(少しずつかもしれませんが)実現されているようです。それを専門に請け負っている建築家もいるみたいですね。

であれば、銅板のような年季の入った希少価値のあるパーツをみすみす捨ててしまってよいのか! 耐震設備も整ったしっかりした建物を建てて、その表面に古い銅板を貼るだけで、実に個性的な、いかにも伝統を引き継いだ雰囲気のある、でも庶民的な、経済的な、そんなレトロ調店舗が出来上がるではないですか。建築にド素人の私のような人間には、そんな気がしてなりません。

■見直されつつある看板建築
銅板建築に絞って話をしていますが、もう少し広い意味を持つ「看板建築」という用語があります。大正から昭和初期を中心に建てられた店舗兼住宅で、前面に屋号や看板を彫刻などで表現した店作りのことです。銅板のほか、レンガ、タイル、モルタルなどさまざまな素材で装飾がほどこされています。このテーマについては、次の書が有名です。

「看板建築」(藤森照信著、三省堂)

街並みウォッチャーや建築関係者にはそれなりに注目されていて、やはりそのユニークさや現存する建物の希少性から、価値が見直されているようです。

■銅板建築は何軒残っているか
看板建築のうち、とくに銅板建築に限ると、現存する建築物の数はどのくらいあるのでしょうか。一説によると80軒~100軒だとか、ある報道では50軒程度しかないとかされていました。でもちょっとわかる範囲で数えてみると、もう少し数は多いようです。

ここ1カ月くらい、都心(神田周辺)と都内南部(品川旧東海道地域など)で目に入る銅板建築の店を実見して数えてみた(写真を撮ってみた)のですが、すでに40軒ほど発見できています。文献や私の過去の記憶から(まだ実際に現場で改めて確認したわけではない)銅板建築の店を加えると70軒以上にはなるでしょうか。銅板建築は一般に集中して存在しており、目立つ1軒の近辺には文献などに載っていない銅板建築が結構存在しています。

まだ調査していない地域のことを勘案すると、都内だけでおそらく150軒~200軒はあるのではないかと推測しています。これまで撮影した銅板建築の写真の一部を一覧にして掲載しました。

銅板建築の写真一覧 (当website内)

まだ限定的に列挙しただけですが、いずれ少し説明も加えていく予定です。機会を見付けて銅板建築の写真を撮り、掲載数も増やすつもりです。

■希少価値に気付いて残してほしい
年々減りつつある銅板建築を保存して残せるのは、おそらく今が最後のチャンスでしょう。店舗作りのアイデアを探している専門家、再生を目指す中小商店の経営者、そしてなによりも今現在銅板建築に住んでいる方や家主。そうした関係者の方々には、その価値にぜひ気付いてほしいものです。