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ものづくりの復権 02-パーソナルな工作意欲

個人でも使いこなせるデジタル工作機の出現は、ものづくりのあり方を変えていく可能性があります。利用者がメーカーになるということよりも、個人の考えやイメージを製作工程から直接反映していけることが重要なポイントでしょう。

家庭パソコン
〔特集「家庭のパソコンが面白い」:日経パソコン1990年1月8日号より〕

■20年前のfab事例?
上の写真は、パソコンがまだMS-DOSの時代だった1990年にパソコン誌に掲載された「家庭のパソコンが面白い」という特集記事の一部です(※注1)。まだ家庭でのPC利用率は高くなく、インターネットはもちろんつながらない時代。個人・家庭向けとして、やっと普及しつつあったパソコン通信サービス、デジタル(MIDI)対応の楽器、パイパーテキストという概念が初めて持ち込まれたソフトウェアHyperCard(マック用)といった道具を上手く使いこなしている事例や、業界での動き、将来ビジョンなどがまとめられています。

例えば写真左下に(小さくて見えにくいと思いますが)星座や宇宙船を模した絵があります。元絵はパソコンで描かれ、プリントゴッコ(理想科学工業)で印刷されたポストカードです。それも、三角関数など数学的な計算を組み合わせて銀河などの幾何学的模様を描き、それを基に2色刷りをしたもの。これを製作したのは、なんと50代後半の主婦でした(1989年当時)。

■デジタルデータとのつながり
プリントゴッコについては、ご存知の方も多いと思います。家庭向け孔版印刷機で、いわゆる“ガリ版”を非常にスマートに商品化したものとして、長い間市場に受け入れられてきました。手書きでも何でも紙に描いた原稿があれば、それを基に「版(マスター)」を作成し、さらにその版に自分で専用インキを乗せてぺったんぺったんとハガキや名刺などを刷ることができます。1977年の発売後ロングセラーとなり、年賀状印刷など主にパーソナルな用途に広く使われてきました。

完全アナログではなく、プリントゴッコとデジタルとの連携が実現したのもこの時期でした。一般的な手順としては、たとえパソコンやワープロで原稿が完成しても、
→いったんプリンターで紙に印刷し、
→紙に描かれた原稿から版を作成し(この時、カメラのフラッシュのような光で感光させる作業を行う)、
→その版を改めてセットして印刷を行う
というステップが必要でした。その中間ステップを省いてダイレクト刷版ができる「CDマスター」が発売されたことが、この特集記事で触れられています(※2)。

また、プリントゴッコからは、「コットンメイトPG」という布印刷用の特別な版を利用することで、紙だけでなく衣類に印刷することもできました。下写真がその紹介事例(同特集ではなく別の号の記事)。コットンメイトが発売されたのもこの時期でした。

Tシャツ印刷
〔プリントゴッコを使ったTシャツへの印刷:日経パソコン1990年1月29日号より〕

■プリントゴッコは先進的なfabかも
こう見ると、プリントゴッコは今考えてもかなり先進的なデジタル工作ツールだったと言えそうです。

しかし、1990年代にインクジェット式の安価な家庭用カラープリンターが広まり、パソコンから大変綺麗なカラー印刷ができるようになりました。印刷の精密度や手軽さでプリントゴッコに優るため家庭内印刷などの主役が「パソコン+カラープリンター」に移り、理想科学はプリントゴッコの製造販売から撤退を決めます。2008年に本体の販売が終了。そしてつい先日の2012年12月末、消耗品を含めて事業が完全に終了しました。
現在は、プリントゴッコの進化系とも言える機能・性能の高い商品が、「ゴッコプロ」という名称で販売されています。ただし業務用なので、価格は100万円以上します。個人がほんの1万円前後で買えたプリントゴッコのことを考えると、(サービスを利用するという場面を除けば)ちょっと遠い存在になってしまいました。

歴史に“もし”があり、仮にプリントゴッコが当時は存在せず、今2013年になって新たに商品として生まれてきたものだとしたらどうだったでしょうか。もしかしたら「プリントゴッコは先進的なfabツール」とか言われて、3Dプリンターと並んでもてはやされていたかもしれません…(なんて想像してしまうのは行き過ぎですかな?)。

■20年前からあった小規模なものづくり術
前回のエントリーで「今デジタルFabricationが注目されている状況が、かつてDTP(デスクトップ・パブリッシング)が注目された頃の状況と似ている」と書きました。当時は、デザインなど2次元の表現や音楽といったものが主で、今のような3次元ものづくりまではできませんでしたが、3次元の匂いをさせる技術→今のfab lifeの先駆けとなっていたような技術はありました。前出のTシャツ印刷がその一つ。ほかにも、パソコンでデザインした図案を編み機に出力するシルバーリード・デザインシステム(シルバー精工 ※注3)が実用化したのもこの時期です。

大げさな製造システムや業者を使わなくても、個人レベルで一種のものづくりをしようという意欲、エネルギーがあり、その術も当時からあれこれあったことがわかります。今のMakerムーブメントは、決して一時のブームではなく、むしろ脈々と流れている自然な流れと言えます。そしてその技術、ノウハウが本格的に花開こうとしているのが今なのかもしれません。

※注1:本稿の筆者(松山)が同特集記事企画・執筆者の一人です。また、2枚目の写真に挙げた記事(プリントゴッコからTシャツの印刷)の執筆者も松山です。手前味噌な紹介の仕方ですみません。
※注2:ただし、直接に版を作ることができるのは「熱転写型」プリンターだけでした。
※注3:シルバー精工は2010年民事再生法を適用申請。事業継続は適わず2012年に破産。

「上蛇窪ムラばなし百話 米屋トモヱ・聴き書き」

現在の(東京都品川区)東急下神明駅~戸越公園駅~JR西大井駅あたりは、昔「蛇窪」という地名でした。そこに住む90歳になった方の証言集。牧歌的な昭和初期の話から、戦争前後の過酷な描写…。地元に関わりのある方なら強い興味を持つかもしれません。

上蛇窪ムラばなし百話
〔米屋陽一(編著)、2011年〕

■鉄ちゃんなら知っている?「蛇窪」の地名
相当にローカルな話題をお許し下さい。本書は一般に流通している本ではないようですが、品川区の図書館に行けば読めます。「蛇窪」とは今の東京都品川区豊町、二葉、戸越あたりの古い地名で、長くお住まいの地元の方の聴き書きを、ご子息である民俗学者の方がまとめられた本です。出版はつい昨年(2011年)とのこと。

かつて町名として「上蛇窪」「下蛇窪」と2つありましたが、「蛇」という名が一般に好かれるものでないことから、昭和初期に町名を変更することになりました。それぞれの地域に「神明」神社があったことから、「上神明」「下神明」という名に落ち着いたようです。東急大井町線が開業した昭和2年当時は、今の戸越公園駅が「蛇窪駅」、下神明駅が「戸越駅」という駅名でした。

現在でも「蛇窪」という名はわずかに残っていて、JR横須賀線(品鶴線)と湘南新宿ライン(山手貨物線)が平面で合流・分岐するところ(下神明駅近く)を「蛇窪信号所」と呼びます。そのため、鉄道マニアの間では少しだけ知られた地名のようです。

■フクロウも河童もヒトダマも出る田舎
聴き書きの内容は、関東大震災の頃から戦後の混乱期あたりまで。語り部は、蛇窪駅が開業した昭和2年に小学1年生で、前年にできたばかりの地元の小学校に入学されたそうです。その頃の牧歌的な風景が記されています。

・蛇窪駅ができてから拓けてきたけど、周囲は竹やぶと畑ばかり。その中を小学校まで通って行った
・この辺には田んぼはなく畑。ほうれん草とか小松菜が多く、出荷は大八車でやっちゃ場(今の京急線・青物横丁)まで引いていった
・夏は子どもたちだけで大森海水浴場(今の京急線・大森海岸駅近く)まで歩いて海水浴に行った。大森海岸に「海の家」があった
・夜になるとフクロウが鳴いていた。日が暮れるまで遊んでは「フクロウが鳴くから帰ろう」と言っていた
・今の西大井駅のところは崖で、下は小川(立会川)が流れていた
・大雨が降ると立会川があふれて、三間道路までびしゃびしゃになる。見に行こうとすると、「河童が出るから川を見に行っちゃいけない」と叱られた。実際、水に落ちて死んだ人が何人もいる
・中延の八幡さま(荏原町の旗岡八幡神社)あたりには墓が多く、雨が降るとリンが燃える(ヒトダマが出る)ので面白がって見に行った

こうして箇条書きにしてしまっては面白くもないかもしれません。「今」どころか、昭和40年代ごろにはすでに完全に都市化した地域でしたが、そのほんの少し前はほとんど田舎の風景だったことに驚かされます。こんな地域、蛇窪に限らず、都内でもあちこちにあったことでしょう。

■昭和20年5月24日の荏原大空襲
一方、戦中と戦後すぐあたりは、やはり過酷な描写がたくさんあります。終戦の約3カ月前に荏原地区に空襲があり、このあたりも相当焼けたこと、語り部本人が焼夷弾の火から命からがら逃げ惑ったことなどが、繰り返し語られています。

・5月24日の空襲では、あたり一面焼け野原。防空壕へ避難した人たちが蒸し焼きになって死んだ
・全滅した防空壕の中から荷物を盗んだり、死者の着物まで持っていった人がいた
・翌日になってもまだ燃えていて、土が火でポカポカしていた。そして竜巻がきた。焼けトタンが巻き上げられていた
・亡くなった人を桐ケ谷火葬場までリヤカーで運んでいった。でも、白米のおにぎりを持って行かないと焼いてくれなかった
・武蔵小山商店街の人は、そこに留まっても商売にならないので、満州開拓に行ったひとがたくさんいた
・荏原区役所が火事で焼けて、戸籍が丸焼け。その後あらためて戸籍を作ったけれど、その時点で死んでしまった子の戸籍は抜かされてしまった人がいる

昭和20年戸越公園駅
〔昭和20年の戸越公園(旧「蛇窪」)駅〕

上は本書にも掲載されている写真。焼け野原の中の戸越公園駅の様子が写しだされています。同駅をご存知の方は、今の駅イメージと位置関係を想像してみることができるかもしれません。

※この写真は、web上しながわWEB写真館からも見ることができます

実はこの評を書いている私(松山)がまさにこの地区出身で、語り部の話は私の子ども時代の活動範囲とかなり重なるところがあります。個人的にはかなり身近な内容もあって、つい感想を書き残したくなりました。個人的な興味が先行した話で失礼しました。

銅板建築 1-“昭和元年”が消えていく

「銅板建築」というものをご存知でしょうか。古い店舗の建築様式ですが、今となっては希少価値もあり、ユニークな店作りに活かせるのではないかと予想します。

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■味のある深緑色の店舗兼住居
モルタルなどで作られた2階建てくらいの商店の外壁に銅板を貼ってある古いタイプの建物のことを「銅板建築」と呼びます。そのほとんどは店舗兼住宅で、主に東京周辺の古くからある商店街にみられます。銅板だから茶色か金色か、いわゆる真新しい銅の色をしているのかというと、さにあらず。長い間風雨にさらされて、写真のように深めの緑色をしているのが普通です。「ああ、そういえばそんな店が昔よくあったな」と記憶の中で思い至る方もいるのではないでしょうか。

銅板建築の店が建てられたのは例外なく昭和初期、それも昭和3年前後と決まっています。大正12年9月の関東大震災で東京の街が焼け、その後都市計画が整って盛んに新しい様式の商店が建てられた時期というわけです。

昭和初期に流行だったとはいえ、今となっては「古くさい建物」なのは否定しようもありません。戦争で焼け残り、高度成長時代にもとくに変化なく、バブルの荒波からも生き残ったとはいえ、いわば時代の流れから置いていかれた建築物です。今残っている銅板建築の店はおよそ“80歳”。老朽化により年々その数は減っているはずです。

しかし逆に今となってはその緑色と文様に風情があり“昭和レトロ”を感じませんか?

レトロ調の店舗設計が注目されつつある今、銅板建築の店がなくなっていくのはとてももったいない。希少価値を逆手にとって、ユニークな店作りに再活用したらよいではないかと切に思うのですが、いかがなものでしょう。

■また1軒、歴史になってしまうのか
冒頭の写真は都内南部、鉄道の駅の出入口真正面にある銅板建築の商店(タバコ店)ですが、見ての通り、店は完全に閉じられています。棟つながりの隣の店のシャッターに「永らくご愛顧いただきましたが、この度解体することになり…」といった意味の貼り紙がありました。この銅板建築も跡形がなくなってしまうのでしょうか。

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近づいてみると、文様の入った壁、コーナーの独特な模様、年季の入った黒ずんだ銅板、小さな天守閣のようにも見える3段目(木造住宅は原則2階建てで、3階とも見える部分は建前上“屋根裏部屋”のような位置づけが多かったそうです)。元の建物がそのまま残せないものならば、せめて表面と特徴のある部分だけ剥がして残しておき、新しい商店つくりに活かせばよいではないか~。

実際、古い建物を解体するときに建具や壁を保存しておき、新しい店作りで再活用するという手法は珍しくありません。資金力の乏しい中小商店を再生する一手法として、日本全国で(少しずつかもしれませんが)実現されているようです。それを専門に請け負っている建築家もいるみたいですね。

であれば、銅板のような年季の入った希少価値のあるパーツをみすみす捨ててしまってよいのか! 耐震設備も整ったしっかりした建物を建てて、その表面に古い銅板を貼るだけで、実に個性的な、いかにも伝統を引き継いだ雰囲気のある、でも庶民的な、経済的な、そんなレトロ調店舗が出来上がるではないですか。建築にド素人の私のような人間には、そんな気がしてなりません。

■見直されつつある看板建築
銅板建築に絞って話をしていますが、もう少し広い意味を持つ「看板建築」という用語があります。大正から昭和初期を中心に建てられた店舗兼住宅で、前面に屋号や看板を彫刻などで表現した店作りのことです。銅板のほか、レンガ、タイル、モルタルなどさまざまな素材で装飾がほどこされています。このテーマについては、次の書が有名です。

「看板建築」(藤森照信著、三省堂)

街並みウォッチャーや建築関係者にはそれなりに注目されていて、やはりそのユニークさや現存する建物の希少性から、価値が見直されているようです。

■銅板建築は何軒残っているか
看板建築のうち、とくに銅板建築に限ると、現存する建築物の数はどのくらいあるのでしょうか。一説によると80軒~100軒だとか、ある報道では50軒程度しかないとかされていました。でもちょっとわかる範囲で数えてみると、もう少し数は多いようです。

ここ1カ月くらい、都心(神田周辺)と都内南部(品川旧東海道地域など)で目に入る銅板建築の店を実見して数えてみた(写真を撮ってみた)のですが、すでに40軒ほど発見できています。文献や私の過去の記憶から(まだ実際に現場で改めて確認したわけではない)銅板建築の店を加えると70軒以上にはなるでしょうか。銅板建築は一般に集中して存在しており、目立つ1軒の近辺には文献などに載っていない銅板建築が結構存在しています。

まだ調査していない地域のことを勘案すると、都内だけでおそらく150軒~200軒はあるのではないかと推測しています。これまで撮影した銅板建築の写真の一部を一覧にして掲載しました。

銅板建築の写真一覧 (当website内)

まだ限定的に列挙しただけですが、いずれ少し説明も加えていく予定です。機会を見付けて銅板建築の写真を撮り、掲載数も増やすつもりです。

■希少価値に気付いて残してほしい
年々減りつつある銅板建築を保存して残せるのは、おそらく今が最後のチャンスでしょう。店舗作りのアイデアを探している専門家、再生を目指す中小商店の経営者、そしてなによりも今現在銅板建築に住んでいる方や家主。そうした関係者の方々には、その価値にぜひ気付いてほしいものです。

交通博物館閉館

東京神田の旧万世橋駅にある交通博物館が明後日閉館されます。

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■万世橋駅のプラットフォーム
新聞などでもさかんに報道されていますが、閉館前で大変な混雑のようです。かくいう私も、4月某日に30年くらいぶりに行ってきました。普通は見ることができなかった旧万世橋駅の遺構見学ツアーにも参加しました。

万世橋駅は1912年にターミナル駅として開業しましたが、東京駅ができ、戦時中の1943年にはすでに使われなくなりました。今でも中央線に乗るとこの駅跡を通過することを多くの方がご存知だと思います。

これをプラットフォーム側から見たわけですが、次のような風景になっていました。1枚目(冒頭写真)は御茶ノ水側、次の2枚目は、ちょうど中央線が走ってきた場面は神田側に向けて撮った写真です。

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雨のために少し見にくいかと思いますが、この視点で中央線が通るのを見たのは、なかなか良い経験でしたね。

■駅舎内部
プラットフォームにつながる階段の様子が3枚目の写真。その下4枚目の写真は見学ツアーではなく交通博物館の館内から覗くことができるようになっていた別の階段です。もちろん私はこの駅に入ったことがあるわけではないのですが、子供の頃歩いたどこかの駅の記憶が呼び戻ってくるかのようでした。

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■屋上から
5枚目の写真は交通博物館の屋上から見た写真です。画面の右側に見える窓のようなところが、見学ツアーで入り込んだ(1、2枚目の写真をとった)場所です。写真の左奥が秋葉原です。

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さてこの駅の跡(というか博物館の跡)には、どんな商業施設ができるのでしょう。秋葉原のすぐ脇でもあり、圧倒的なスケールでの昭和テイストも持ち合わせ、かなり魅力的な場所だと思われます。