「銅板建築」カテゴリーアーカイブ

銅板建築ライオン像が品川宿に移る

今日12月2日の日経新聞地方版(東京)に、「大井町駅近くでライオンのレリーフが見つかった」という記事がありました。まるで掘り出されたかのような書き方でしたが、この店舗、商店街近くにある銅板建築の店舗で普通に誰でも目にしていたものでした。私が作っている「銅板建築リスト」↓参照。写真撮影は2007年1月です。
銅板建築「素晴らしい装飾の平屋」

大井町ライオンレリーフ

なんだこれ。「見つかった」とかいう表現は… (というのが私の感想です)。

まあ、銅板建築の商店というとほとんどすべて2階建ての古ぼけた家なので、このような平屋でかつ新しい銅板を葺いている物件は珍しく、その由来はずっと疑問だったのは確かです。その由来が少し明らかになり、品川宿に移転され、多くの人の目に入るようになるというのは嬉しい限りです。また、住友不動産のニュースリリース↓によると、「開発が進む事業区域内にある看板建築を保存したい」との意向が前面に出ているとのこと。銅板建築の再活用も期待したいです。

住友不動産ニュースリリース「看板建築の一部である“ライオンのレリーフ”を旧東海道品川宿にある外国人向け宿泊施設へ移築保存した」

銅板建築 5-サンプルデータ数が200枚に

撮影を続けた銅板建築の写真が200枚を数えました。都内で最も集中して銅板建築があるのは台東区のようです。思ったよりも銅板建築の数はありますが、今にも取り壊されそうな家屋も少なくありません。

都内の銅板建築の例
〔都内の銅板建築の例〕

■銅板建築の“魚拓”が200枚
本サイトでは2006年から銅板建築の写真をデータベース化し掲載してきました。08年6月初め時点で掲載している写真の枚数がちょうど200枚。つまり都内だけでも約200軒の銅板建築の実在証明ができたことになります。これを機に銅板建築DB(データベース)のページを全面改訂しました。

Watch our steps! – 銅板建築

ただし200枚の写真サンプルがあるから銅板建築が200軒、というわけでは必ずしもありません。撮影した後、今はすでに取り壊されている建物が数軒あります。

それ以上に、銅板建築かどうかの判断が相当に適当です。たとえば、次のような建築物も概ね銅板建築1軒として数えています。

・戸袋などごく一部しか銅板はなくても商家という雰囲気があるもの
・本当は銅板なのかどうかよくわからないが、少し銅板建築のように見えるもの

これらは普通、いわゆる「看板建築」のジャンルの一つである「銅板建築」として分けられるものではないかもしれません。たんに見間違っているものも確実にあると思われます。どちらかというと「疑わしきは含めて」数えています。

一方、長屋の場合、2軒ないし4軒くらい連なっていても「1軒」(写真1枚)で数えた場合が少なくありません(1軒ごとに数えたものもあります)。さらには、写真を撮ろうかどうかと迷っている時に近所の犬に吠えられて、写真撮影を止めてしまったなどという情けない場面さえありました(笑)。

ようするに、銅板建築の正確な定義などないと思いますから、当方の独断で取捨選択した結果にすぎません。重複して数えていることはないと思いますが、数年の間に取った銅板建築の“魚拓”の枚数だとお考えください。

■台東区に密集地帯
今年になって台東区周辺を意識的に調べたところ、実に多数の銅板建築が現存していることを実感しました。台東区内だけで80軒以上。とりわけ東上野3丁目と鳥越1丁目は銅板建築の密集地です。戦争で焼けた地域が多いと思いきや、このあたりはむしろしっかり焼け残っているブロックがずいぶんあるものなのですね。1つ丁目が違う隣町にはまったく昭和初期の建物が存在していなかったりもします。

なお都内でも西や北方面はほとんどサンプル取得が進んでいません。西でいえば青梅街道沿いとか、北は十条周辺とかにそれぞれ銅板建築が残っていることがweb上の情報からわかります。これらをしらみつぶしにサンプルに加えていけば、少なくとも250軒くらいまでデータが増えるのではないかと予測されます。

やはり気になるのは、かなり老朽化していると思われる建物や、もう活発に営業していると思われない個人商店が、多数あることでしょうか。

地域は都内に限るつもりはないのですが、なにぶん自ら撮影に出向ける場所は限られます。引き続き、気長に、それぞれの地域に出向く機会をうまく見付けて撮影を続けていくつもりです。良い情報がありましたら、ぜひともお知らせください。

銅板建築 4-洋品店からギャラリーへ変身

銅板建築の代表例として知られている築地の洋品店「若松屋」がギャラリーに変身しました。時代に応じて商売の形を変えることはビジネスの大原則の一つ。歴史のある銅板建築が、商売の変遷とともに活き活きと生き残ってほしいものです。

ぎゃらりー若松屋概観
〔生まれ変わった若松屋〕

■時代に応じた商売替え
東京築地にある銅板建築の店「若松屋」が、昨年12月に洋品店からギャラリーに衣替えしました。店名は「つきじTASSギャラリー若松屋」。店が生まれ変わってもう半年になります。先日訪れたときには銅板建築の建物の絵画などが展示されていて、店主の佐藤昌弘氏が暖かく話をしてくれました。

佐藤さんの説明およびいただいた説明書きによると、この店は江戸時代にできてから、
藍染屋→手甲脚絆屋→足袋屋→駄菓子屋→足袋屋→荒物屋→洋品店→ギャラリー
と展開していったそうです。銅板建築になったのはもちろん昭和のはじめですが、戦時中焼夷弾の被災を受けたとき、近所の人とパケツリレーをして被害を防いだとか。

この店に限らず、きちんと残っている銅板建築の家はどれも「歴史的建造物」です。そして、単なる見世物として残るのではなく、実用的な店舗(または住宅)として残ることに大きな意味があることでしょう。

※つきじTASSギャラリー若松屋:〒104-0045 中央区築地6-12-3
(同店のwebサイトはありませんが、web上には多数の記事があがっているようです)

■「所有権と使用権の分離」の仕組みを
銅板建築に限らず住宅兼店舗の場合、そこに居住している家族が商売(店舗)と一体になっているところが多いだけに、店を継ぐ方がいなくなると「商売替え」が難しくなります。閉店したままひっそりとしてしまったり、家ごと取り壊されたりします。商店街の衰退の一因も、こうしたところにあります。

しかし、時代に応じた商売は常に必要とされています。また、古い歴史を持ったヨーロッパの街によくみられるように、建物は何百年も利用され続けることでその街が豊かに感じられます。商売の中身は変わっても生き続ける“芯”のようなものが価値を高めているのでしょう。

そのためにも、店(建造物)とそれを運営する商売人が、ある意味「分離」される仕組みが必要かと思われます。つまり、「住んでいる人がそこで商売をする」ばかりでなく、「住んでいる人(または所有している人)が、商売人に店舗を貸す」という仕組みがもっと働けば、建築物や歴史が継承されながら商売も時代に応じて続いていく。そして街全体の価値が高まっていく…。

実際に「所有権と使用権の分離」を仕組みとして推進していることで有名なのが香川県の丸亀商店街です。空き店舗が増えることを防ぐため、商店街振興組合が地権者から預かった土地を管理し、街全体の再開発コンセプトのもとで新たなテナントの誘致に成功しています。

参考:
にぎわい商店街 丸亀町商店街(中小企業ビジネス支援サイト)
高松丸亀町商店街 再開発について:事業スキームの特徴

■銅板建築でメイド喫茶を!
東京の場合は、地震という名の破壊神ゴジラが時々現れるだけに、「歴史的」と呼ばれるまで生き残る市井の建造物は少ないのかもしれません。でもそれだけに、生き残った粋な建造物には長生きしてもらいたいものです。

たとえば銅板建築の店でメイド喫茶を開くとかいうのも、なかなかオツなものではないですか(笑)。

▽関連記事:
銅板建築 1-“昭和元年”が消えていく
銅板建築 2-古い店舗を活用し地元活性化
銅板建築 3-また1軒消えた!

銅板建築 3-また1軒消えた!

最近まであった銅板建築の家が、また1軒解体されてなくなってしまいました。貼ってあった立派な銅板はその後どうなったのか、気になります。

消えた銅板建築
〔ある銅板建築物、解体前後の写真〕

■100軒を超えた銅板建築リスト
記事「銅板建築 1-“昭和元年”が次々消えていく」を書いて以来、機会があるごとに銅板建築の写真を撮影し、銅板建築一覧に追加掲載してきました。半年あまりで掲載写真は100枚を超えました。都内だけで100軒を軽く超える数の銅板建築が現存していると証明されたことになります。

これまで移動の合間などに銅板建築を見つけて写真を撮るだけで、銅板建築がある場所にそのためだけに出向いて写真を撮ることはまれでした。あるとわかっていてもリストアップしていない銅板建築はまだ多数存在しています。それらを網羅するためには、意識的にそういった地区に出向かなければならないかもしれません。「ここに銅板建築があるよ」という情報がありましたら、ぜひお知らせください。大歓迎です。

もう一つ気がかりなのは、撮影した銅板建築がいつの間にかなくなっている可能性があることです。冒頭の写真は品川区某所にあった銅板建築の住宅で、昨年暮(06年12月末)には前と変わらず建っていたはずの家が、あっという間に取り壊されて駐車場と化してしまいました。また1軒、昭和の風景がなくなってしまったことになります。これ以外にも1~2軒、すでに消滅している銅板建築があるかもしれません。

■貴重な銅資源
ここ数年、鉄、アルミ、銅など金属の需要が世界的に膨らみ、価格は高騰したようです(今現在は少し落ち着いているようですが)。日本国内でも銅線が大量に盗まれるといった犯罪が起きているそうですね。今や銅というだけでも立派な資源。解体後の銅板にはさらに付加価値も緑青も(笑)付いているわけですが、その後どう処理されていったのでしょうか。

建築廃棄物の処理は相当厳密に規定されています。排出事業者がその後の処理の行方について基本的な責任を持っているとともに、処理経過は「マニフェスト」と呼ばれる管理票で記録されます。記録として必ず残っているはずなので、解体された銅板がその後どうなっていくのかも調べればわかるのかもしれません。基本的な金属資源がリサイクルされる割合は相当に高く、銅はほぼ100%リサイクルされるとも聞いています。

写真の建物はすでに老朽化していたようでしたので、遅かれ早かれ取り壊さざるを得なかったでしょう。何でもかんでも古い状態で残ればよいとはもちろん思っていません。でも、以前の記事でも触れたように、この家に貼ってあった年季の入った銅板を、金属資源としてのリサイクルでなく、歴史的建材のリサイクルとしてそのまま“昭和レトロ”風の店に転用できたら、きっと味のあるものになるのではないかと思うわけです。

ただし銅板は内装ではなく外装なので、居酒屋や定食店の店内とかに持ち込むものではないでしょうし、中途半端に外装に銅板を貼っても汚くみられるだけかもしれません。なかなか難しいのか…。

江戸東京たてもの園

東京小金井市にある「江戸東京たてもの園」には、銅板建築のほか古い建築物がいくつか保存されています。

丸ニ 武居
(左)丸二商店・銅板建築/(右)武居三省堂店内・桐箱の引出し

■銅板建築をゆっくり観察できる
銅板建築 1―“昭和元年”が消えていく」ほかで、昭和のはじめに建築された銅板建築について触れました。街中に現存しているというわけではありませんが、江戸東京博物館の分館ともいえる「江戸東京たてもの園」に数棟、移築されて残されています。街に現存している銅板建築の建物だと、住人もいますし、なかなかゆっくり観察できるとは限りません。でもここなら細部まで観察できます。

Watch our steps! – webpage 「銅板建築の写真一覧」で街中の銅板建築の写真をリスト化していますが、たてもの園の写真についても番外「銅板建築-江戸たてもの園」として掲載しました。

こうして建造物を移築するのに、どのくらい費用や手間がかかっているのでしょうか。銅板建築を新しい店舗に再利用するためのヒントがもっとあればと思ったのですが、園内の図書館でもさすがに実務的なデータを見つけることはできませんでした。

■歴史的建築物を復元
上の写真右側は神田須田町にあった文具店の店内です。おびただしい数の桐箱が壁に積まれているほか、毛筆とか墨汁とか、古いダンボールとか、本当に建物が“生きたまま”再現されているのに驚かされます。

もちろんこのたてもの園には、昭和初期の商業建築物だけでなく、江戸時代の民家、明治の土蔵、明治・大正・昭和の住宅などが立ち並んでいます。”懐古趣味”といわれてしまえばそれまでですが、東京の街には残り少ないだけに興味深いです。

下の写真は昭和4年建設の銭湯子宝湯。湯船からみた光景。建物の外まで見えます。
子宝湯

▽関連情報:
銅板建築リスト番外編) 江戸東京たてもの園