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和紙の草履キット

初めて草履を作りました。和紙でできています。そんなに難しい作業ではなかったのですが、やはり慣れないと綺麗にはできません。見本に比べ、やたら細長いものに仕上がってしまいました。こうした和紙の新たな商品企画が国内であちこちに見られます。

和紙の草履
〔キットから作った和紙の草履〕

■繊維が強い和紙
和紙の糸で編んで作る草履のキットです。和紙を縒った糸なので、藁と違いケバケバがありません。表面はさらっとしていて、すべすべのフローリングなどでは少し滑ることもあるかもしれませんが、カーペットだとちょうど良い具合です。暖かい季節、スリッパ代わりの室内履きとして快適かもしれません。

和紙は繊維が強いのが特徴です。繊維にそって縦に削ぐことは比較的簡単なのですが、横にはそう簡単に切れることはありません。和紙糸は長くて強力な紙縒り(コヨリ)と思えばイメージがわかりやすいと思います。大昔は大福帳にも小判の包み紙にも使われていたそうです。

和紙は産地によりさまざまなものがありますが、この製品は愛媛「和紙のイシカワ」のもの。同社は和紙糸(ペーパーヤーン)のほか、プリンターで精細に印刷するのに向いた和紙などを取り扱っているようです。関連する特許も取得しているとか。インクジェット印刷に適したコーティングなども、見えないところで工夫されているようです。

和紙のイシカワ

撚ってできている和紙糸は、ほぐすとこんなふうになっていました。
和紙糸の構造

■手足の指を使って編み上げる
この商品は、ネットで手に入れることができます。日本紙パルプ商事の子会社JPシステムソリューションという会社が運営するネットショップです。もちろん、主たる製品は草履でなく、和紙のイシカワだけの製品でもなく、プリンター用紙からインク、文具など、紙に関連する製品を扱っているようです。

ネットショップ Paper&Goods

届いた製品の様子
製作前

これを、指示に従ってパーツに切り分けます。
切り分け

編みあげるための説明書が用意されていて、
説明書

こんな感じで、手の指、足の指を使って編み始めます。
編み始め

■合理的な編み方に感心
編み方はさほど難しくありません。ギュッギュッと締める具合も、すぐにわかってきます。でも初めはやはり要領がつかめず、見本のような楕円形にはなりませんでした。

編み途中

やはり一番難しいのは鼻緒のところでしょうか。ここでは、和紙糸を2本分さらに撚って編みます。
鼻緒作り

鼻緒部分を編み込んだところ。
鼻緒を編みこみ

こうしてできたのが冒頭の写真です。指示通りの本数を編み込んだつもりでしたが、出来上がってみると左右の長さが3センチ近くも違う(汗)。先に作った方はかなり細長くなったのと、後に作った方は固く締めることができたからかと思いましたが、それにしても長さが違いすぎる。たぶん編み込んだ和紙糸の本数そのものを間違っていたのでしょう。でも、履いてみると、特に気になるほどではありません。まあ、いいことにしました。

実際に編みこんでみて、接着剤は一切使わず、結び目も鼻緒以外はほとんどないのに、10本以上ものパーツが固く結びついていることに気が付きます。実に合理的。昔の人は当たり前のようにこうして(藁で)草履を作っていたのだなと、本当に感心します。“ものづくり”というより、日常の知恵そのものですね。

■苦戦する和紙の世界
我々が子供の頃はどの家にも障子があり、年に1~2回の障子紙の張り替えが行事になっていました。ところが障子紙が使われなくなって後、和紙の市場は極端に縮小し、この業界は四苦八苦しているようです。

日本橋には、創業350年の老舗で映画「新参者」にも登場した小津産業(小津和紙)があります。同社は江戸時代初期に和紙問屋として創業され、小津和紙博物館・資料館などを構えていますが、今や和紙の売上比率はグループ全体でわずか0.2%(8400万円)しかありません。その他は、日用紙製品(トイレットペーパー、ティッシュペーパー)、洋紙、不織布で占められているとのこと。

小津産業

また、手漉き和紙自体が手工業品的な特殊な位置づけになり、職人も減ってしまいました。自分の身近に和紙を扱うデザイナーがいるのですが、年々、素材となる和紙の種類が減ってきて、困っているようです。

今回試してみた草履のほか、赤ちゃんの靴に和紙を使った商品なども注目されています。

「神の国から」紙のくつ

こうした日用品、アイデア商品、プリンター用紙など、和紙の特徴を生かした商品展開にどれだけの市場があるかわかりません。でもせっかくの国内の技術、さまざまなアイデアを生かして、うまい方向に成長してほしいものです。

あ、決してステルス・マーケティングではありません。念のため(笑)

非関税障壁か、守るべき制度か(「築地」その3)

日本の流通システムは、かねてから閉鎖的と外部から指摘されてきました。しかし少なくとも生鮮品の流通に関しては、ローカルな制度が将来的にも高い価値を持ち続けるであろうことを、この本が示唆しているように思えます。

築地の挿絵
「築地」(挿絵)

テオドル・ベスター氏の著書についての話、「築地」「築地」その2の続きです。

■意図しない“非関税障壁”
またしても築地市場とは少し離れた話ですが、一昔前(1995年くらいまで)の日本のパソコン市場は、今と違って世界標準規格から逸脱した構造の商品が市場のほとんどを占めていました。なかでもNEC「PC-9800シリーズ」がその最大手で、国内でパソコンをまともな業務に使うには「98」以外の選択肢はなかったようなものでした。一方、日本を除くほぼすべての国では基本的に「IBM互換」タイプのパソコンが使われていました(さらに余談ですが、現在は携帯電話がこの状態―いわゆる「ガラパゴス化」―にあるようですね)。

その時代、海外(欧米やアジア)のパソコン業界関係者と話をしたときにときどき出てきた質問がありました。

「なぜ日本は世界標準に従わない? わざわざ独自の仕様を守り外国企業を締め出している。非関税障壁ではないか」

質問というより糾弾に近いニュアンスを含んでいたことを覚えています。そしてこの言葉の裏には、パソコンだけでなく、日本市場全般の閉鎖性に対する不信感があったととらえています。

日本のパソコン利用者という立場からすると、「わざと独自仕様を守る」意識など誰にもなく、ましてや国全体が一つの意思を持って外資の侵入を防いでいたというものでは決してありません。要因を列挙すれば、次のようになるでしょうか。

(1) IBM互換機の規格だけでは日本語処理機能(2バイト文字の扱いなど)が十分でなく、どうしても小手先の対応ではない、高いレベルでローカライズをする必要性があった
(2) メーカーも流通業者も、日本市場の特殊性やローカル色のある取引形態に対応することが商売上なにより有利だった
(3) 日本の主な電機メーカーは、(あえて海外の規格を持ってこなくても)独自規格と独自の商品を作り出すだけの実力があった
(4) ある時点で「98」がソフト資産を十分に蓄えてしまい、乗換えが難しくなった

その後パソコンの性能向上その他さまざまな条件が変化し、今は状況が完全に転換しました。「98」は姿を消しました。「IBM互換」という言葉さえ消滅したように、現在日本を含めた世界全域で使われているパソコンは、ほぼ共通したデファクト・スタンダードに沿った構造になっています(Macintoshは違うけど)。

そのほかさまざまな業種で、過去にあった非関税障壁はとりはらわれるか、少なくとも低いものとなってきました。金融、会計、その他の分野にまたがり閉鎖性が薄まってきたのが、1990年代後半から2000年代前半だったと認識しています。

■腐った魚は買い叩く!
この観点だけから見れば、築地のような生鮮品の流通機構は、外部からなかなか食い込めない閉鎖性を今でも持っていて、いずれなくなるべき対象といえなくありません。もし将来、卸売市場の制度が大きく変わり、強い外資ファンドが「築地」を乗っ取ろうとでもしたら、いったいどんな影響があるでしょう。

「未だに日本の流通システムは“変革すべき対象”なのだ」
「官営で市場を守るなど時代遅れだ」
「中にいる卸売業者も中卸業者も、自ら変わろうとする意思が弱い」
「旧来のやり方にこだわり、市場移転を何が何でも反対する勢力がいる」
「そんな腐った流通システムを買い叩く! 買い叩く! 買い叩く! 」(ドラマ「ハゲタカ」風……)

買い叩くのは「腐った魚」だけにしてください、とか言いたくなるかもしれません(笑)。

本書の著者も、築地を研究対象とした背景に次のような問題意識があったようです(少し意訳して表現)。
→政府の規制と政治的圧力が日本の独特な流通システムの原因と見る一派は、日本は故意に閉鎖経済を行っていると見ている
→日本経済は、その社会的・文化的生活の特性をなお保持しており、これは一夜にして消えるとは思われないと(その一派は)見ている
→本当なのか、その解を探りたい

■外部の変化が築地を消し去ることはない
日本の卸売市場システムの閉鎖性についても、かつてのパソコン市場と同様、「独自仕様を守る」という意識が先に立って出来上がったわけではないはずです。著者の問題意識から、本書のあちこちにその答が書かれていることを実感します(以下、パソコンの話の(1)~(4)と対応させて表現)。

(1′) 魚の食べ方や嗜好性には日本文化独自のこだわりがあるので、どうしても小手先の対応ではない、高いレベルで日本の食生活に対応した加工処理をする必要がある
…本書第4章「生ものと火を通したものと」などから納得できる。
(2′) 生産者も卸売業者も中卸業者も小売業者も、相互の特殊な取引ニーズに対応できることが商売上なによりも有利である
…縦横に編み上げられた「関係性」が強力すぎるということか
(3′) 築地の卸売人たちは、(あえて海外の取引システムを持ってこなくても)きめ細かい取引システムを自ら生み出せる資質があった
…著者は「築地は高度に秩序のとれた場所」と評している
(4′) ある時点で卸売市場のシステムが確立してしまい、乗換えが難しくなった
…これについては、市場法など中央集権的な政策が一役買っている

結論的に、築地魚河岸は一見伏魔殿のようでいても、
・開発途上国のバザールのようなものと異なるシステム性がある
・マグドナルドのようなシステムとも全く異質のシステムである
・決して非合理的というわけではなく、むしろ高度なものである
・だから、外部の変化が築地の社会的構造をきれいさっぱり消し去ることはないだろう
と著者は表現しています。

■築地移転問題にも一矢
他のブログや雑誌にある本書の書評に「それみろ、外国人だって築地の優秀さに言及している。だから築地の豊洲移転に絶対反対すべきなのだ」といった方向で感想が書かれているものをいくつか目にしました。本書に書かれている築地文化の“価値”が、移転反対派を勇気付けていると推測されます。

しかし、本書が築地移転反対論者の“バイブル”になるとも思えません。その理由は次のような点にあります。

・本書には“築地”の「功」は見事に描かれていても「罪」についてはわずかしか触れていない。「功」の部分だけを過大評価できない(前回記事の末尾参照)
・“築地”を成立させている文化的背景が堅固なものならば、それは豊洲に移転しても確実に受け継がれるはず(外部の変化が築地を消し去ることはない)
・素晴らしい仕組みがあったとしても、時には時代の変化に沿うように積極的に壊さなければ次に進めなくなるものもある(パソコン「98」のように…)

市場が移転しても移転しなくても、長期的に見るとどちらでもたいした違いではない気もします。

とりあえず、テオドル・ベスター著「築地」の書評(+α)はこれでおしまい。

日本的企業関係の生きた見本(「築地」その2)

築地の取引ネットワークは、上下左右に結ばれる市場のさまざまな関係性に支えられています。かつての縦の“ケイレツ”と横の同業者組合が織り成す日本産業界の特徴的サンプルが生きたまま現存しているかのようです。


〔水産物と自動車、それぞれ縦横の関係〕

テオドル・ベスター著「築地」(前記事参照)には、市場の関係性が具体的な事象から詳しく書かれています。たとえば卸→仲卸→買出人という縦の取引が日々繰り返されること。ここには有形無形の企業系列関係があること。加えて、たとえば多数の仲卸の間での競争と役割分担、さらには資本関係、姻戚関係作りといった横の交流が繰り返されること。そこに強い共同体意識が生まれたり消えたりすることなどが描かれています。

■各自動車会社が一工場の復活で助け合い?
突然話が変わるようですが、2007年7月に発生した中越沖地震で、新潟県柏崎にある自動車部品メーカー「リケン」の工場が被害を受けたことが大きなニュースになりました。リケンの部品を使っている自動車会社が揃って一時的な生産停止を強いられるなど、自動車産業全体に影響を与えました。

この件で、日本の自動車メーカー各社がリケンに人員を派遣し復旧に努めているという話を、関係者の方から聞きました。工場の復興支援に集まった人員は総勢数100人(?)だとか。リケンに自社の社員まで派遣する義務は本来ないし、あらかじめ支援策が準備できていたわけなどありません。なのに、工場の生産設備を1日も早く稼動させるためにこんな“共同プロジェクト”が突如できあがっていくとは、本当に驚きです。

もちろん、各自動車メーカーからすると、リケンという部品メーカーに有形無形の支援をすることで(主要な部品を優先してまわしてもらえるなど)結局は自社の利益を得られることを確信しているわけです。ライバルである他の自動車メーカーとは、なかには直接的な利害の衝突もあるのでしょうが、どちらかというと業界全体に関わる運命共同体的な関係が優先されていきます。

一方、自動車に限らず、かつて日本の産業を支えたといわれる企業系列が、一部新しい形で復活してきているといわれています。古い日本経済のケイレツ関係は「閉鎖的」「自己完結的」で、誤解を恐れずに言えば「醜い」ものだったと認識しています。でもバブル崩壊後、ケイレツは徐々に衰退しもっとグローバルで開放的な取引関係に変化していきました。だからといって企業系列的関係がなくなったわけではもちろんありませんし、技術やシステムを媒介とした新たな形のケイレツが現れているのは自然なことでしょう。

■「彼らのビジネスは頭の中と接触先に存在する」
結局は、冒頭の図に示したように、築地の水産物流通も、日本の自動車生産・流通も、複雑な縦横のネットワークが、“日本的文化の素地の元に”同じように縫い上げられていると感じます。本書に「ある日築地で火事が発生し、一部の仲卸店舗が焼けた。しかし縦横の関係者がいろいろな形で被災者を支援し、そのおかげで非常に短期間(例えば翌日)にも営業を再開し、その後まるで火事などなかったかのように日常業務が復活していた」といった事例が書かれています。リケン柏崎工場の被災復旧とイメージが重なります。

「取引関係の精巧な社会構造によって(火事などがあっても)立ち直ることができる。彼らのビジネスは頭の中と接触先に存在する」。そんな商人が“本当に”守りたいもの、絶対に失いたくないものとは、店舗という場所や物理的な資産ではなく、「特定の社会的コンテクストにおける自分の居場所なのである」と著者が表現していることに、なるほどと思います。これから連想すれば、リケンの工場復旧に他社がこぞって人を投入することができる背景にも合点がいくような気がします。

■一見非合理な流通システムも
概して日本の流通システムは、中間に入る卸業者が多く複雑で、そのために経済的な無駄があると信じられてきました。卸売市場の形態は、一見まさにその代表例です。生鮮食品の流通をぼんやりとしか認識していないと、卸売市場の非合理性は「悪の巣窟」のように映るかもしれません。

おそらく江戸時代から明治期までの卸売市場は、垂直統合の色合いも濃く、株仲間に代表される同業者組合としての掟ももっと厳しかったことでしょう。市場という限られた空間と権利を関係者が“ギルド”的に分け合い、その利権を上流(生産者)から下流(小売店)まで垂直につなぎ合わせる“ケイレツ”があったのでしょう。

しかしそれはにわかに捨ててよいものではなく、中長期的に見た合理性も内部に隠されていたわけです。さまざまな市場関係者が苦心して積み上げたり、壊したりしてきたことでしょう。その歴史の上に成り立っている現代築地の魅力的な姿を、当事者ではない我々読者が本書を通じて少しでも垣間見ることができることに、幸運を感じずにはいられません。

あえてそんな本書に少しだけ注文をつけるなら、築地システムの「功」と「罪」のうち、「罪」についてはほんの少ししか触れていない点でしょうか。背景にある文化や歴史や特性のプラスの部分は全編にわたって書かれていますが、本当に非合理なところとか、醜い悪習とかマイナス面についての記述はわずかです。このあたりもう少し分析してくれないかな、などと思うのは贅沢な注文でしょうか。

長期雇用と成果主義のゆくえ(JILPT調査より)

いろいろ批判のある「成果主義」ですが、俯瞰してみると日本企業に対してプラスに働いているようです。一方「長期雇用の放棄」は単純に成否を判断できないという報告があります。


【「日本の企業と雇用 ─ 長期雇用と成果主義のゆくえ」(労働政策研究・研修機構、2007年)第2部分析結果をもとに編集】
今回は、成果主義に関する話題提供、サイト紹介、書評を兼ねたような記事です。

■充実した労働経済関連の資料
厚生労働省所轄の独立行政法人労働政策研究・研修機構(JILPT) は、労働関連のデータや報告書を積極的にネット上で公開しています。人事系の調査研究では誰もが一度はここのデータもしくは分析結果を参考にしたことがあるでしょう。俯瞰的(学術的、統計的)なスタンスからテーマを掘り下げた研究結果の場合は経営の実際の(ミクロな)場面にすぐに役立つとは限りませんが、人事・労働に関連する客観的な現状を掴むのに役立ちます。

この6月にも「プロジェクト研究」の成果として、全8冊分の報告書がネット上に公開されました(第I期中期計画プロジェクト研究シリーズ)。うち、「No.5『日本の企業と雇用 ─ 長期雇用と成果主義のゆくえ』」に、成果主義などの現状をアンケートから定量的に分析した分析結果があります。表題のとおり、従来の日本型企業の特色が変化した結果として今どのような状態にあるのかが“数字をもって”示されています。

対象企業は大企業中心、回答者は人事担当者。いわば組織だった会社の「公式見解」のようなものなので、実態と比べて何らかのバイアスがかかっているかもしれません。それでもなかなか興味深い内容なので、少し紹介させてください。

■人材マネジメントの4類型
本調査では、まず
(a) 日本企業がこれまでの年功序列一辺倒の賃金制度(評価制度)を脱し、成果主義を導入したのかどうか
および
(b) 終身雇用に代表される長期雇用の制度を変え、流動化した雇用体制に移行したのかどうか
それぞれに該当する企業の割合を推量しています。

上の説明図は、(a)を横軸、(b)を縦軸にとって、企業を4種類に分類したものです。左上の「J型」は従来の日本企業の典型で、成果主義は未導入(≒年功序列を維持している?)かつ長期雇用を維持している企業で、全体の約30%がここに属するとのこと。右上「NJ型」は成果主義は導入済みだが長期雇用は維持している企業で、約40%と4類型の中で今は最も該当企業数が多いということになっています。左下「DJ型」は成果主義は未導入だが長期雇用はすでに維持していないとされるグループで約10%。右下「A型」は成果主義も導入し長期雇用を前提とした体制からも脱却したグループで、全体の約20%があてはまるとされています。

“4 対 3 対 2 対 1”の割合。なにか日本人の血液型の割合と似たような各類型の比率になっています。数字からは、成果主義導入が意外に進んでいるのに対し、予想外に多くの企業が長期雇用を維持していると説明されています。「この数字、ホントか~?」という声も「まぁ、そんなもんかな~」という声も聞こえてきそうですが、それは置いて…。

■成果主義と雇用流動化が企業に与えた影響とは
ステレオタイプな見方をすれば、かつてはほとんどがJ型だった日本の大企業がNJ型、DJ型、A型へと変化し、枝分かれしたと見ることができます。

ただしDJ型については、企業が好んでこの類型を選んだというより、業績悪化によって人員のリストラをせざるを得なかった(長期雇用を仕方なく捨てた)衰退型だとみなされます。いわば後ろ向きの変化で、実際この類型に入る企業は、「業績は悪化している」ほか「若手育成に手が回らず、職場で協働する雰囲気もない」「社内のモラールは下がり、仕事に対する意欲が低い」という分析結果が数字としてでています。

一方NJ型とA型は、従来の日本型組織体制から変革した状態と位置づけられます。長期雇用を維持しているか放棄しているかの違いで分岐していますが、いずれもJ型(およびDJ型)と比較して業績が良い企業が揃っていると分析されています。どちらかというと大規模な企業がNJ型、小規模な企業がA型になる比率が高いとのことです。

またNJ型とA型では職場の状況にけっこう差があることも明らかになっています。NJ型は、「社内のモラールが上がり、仕事に対する意欲が高い」という良い職場環境が醸成されている一方、少しですが「若手育成に手が回らず、職場で協働する雰囲気もない」という悪い状況も発生しています。A型は、「若手育成に手が回らず、職場で協働する雰囲気もない」とともに「ストレスを訴える社員や自己都合で離職する社員が増加している」という悪い環境が生まれています。

従来の日本型であるJ型の場合は、「若手育成の体制があり、職場で協働する雰囲気もある」とともに、少しだけ「ストレスを訴える社員や自己都合で離職する社員が増加していない」という良い職場環境があるとされています。

■職場環境の代償として業績アップを得たのか?
この調査・分析からあえて直接的な結論を導こうとすれば、次のようになるのでしょう。

・業績を維持しつつ、それなりに良い職場状態(高いモラール)を保ちたいのなら、長期雇用を維持した上で成果主義を導入するのがよい
・「人材育成や社員の相互関係には深く関心を払わない。ストレスもあるし、その仕事がいやなら辞めていい。また別の人を雇うから」というマネジメント方針が掲げられる企業の場合は、その引き換えのように業績アップが見込める
・社内の雰囲気を良い状態を維持しようとする半面、組織体制を積極的に変革する勇気がない企業の場合、高い業績アップは(一般的には)望みにくい。

業績、正規社員の比率、社内で協力し合う雰囲気、ストレスの多寡、モラールの高さといったすべて要素を好ましい状態のまま保つことなど、普通の組織では望むべくもないことです。結局何かを犠牲にして、その代償として経営上重視すべき要素(多くの場合は業績アップ)を選び取る…。それが経営判断というものなのでしょう。

さらにこうした企業の意思決定が、経済・経営環境一般にとってどのような意味があるのか、影響があるのかなどにも言及しています。たとえば、A型のような長期雇用を前提としない人材マネジメント企業が成立するためには、「(企業横断的な)技能形成のシステムが不可欠」であること。しかしその点、現在の日本は「過去からの(人的な)遺産」を利用しているようなもので、そうしたシステムが今は必ずしも成立していない(早晩行き詰る)といった意味の指摘がされています。いろいろ頷かされる指摘ではないでしょうか。

…以上、内容のごく一部をわかりやすく“丸めて”表現したものです。数字は概数で、用語も当方で意識的に置き換えているところがあります。正確な分析内容をじっくり理解したい方は本体を読まれることをお勧めします。もちろんこれ以外にもまだまだ本報告書およびJILPTの各報告書に興味深い調査があります。

官営化する卸売市場(「神田市場史」より)

江戸時代の昔から、お上は卸売市場の管理に腐心していました。商人は渋々と管理を受けながらも、お墨付きを得るがゆえのメリットを享受していたようです。

神田市場発祥の碑 「神田市場史」(上・下)
[「神田青果市場発祥の地 記念碑」があった場所]

…神田多町市場があった場所にその後「記念碑」が立てられました。昨年(2006年)、その記念碑は取り外されています。左の赤破線枠は記念碑があった位置。今はその写真説明が脇に貼られています(緑破線枠)。

■卸売市場法の功罪
「神田市場史」(上・下)に書かれている議論を読むと、実に複雑な利害関係があったことがわかります。神田多町の青果市場が秋葉原に移るまで長い時間がかかった(記事「かつての市場移転」)わけですが、市場が移転しようがしまいが、卸売市場が本質的に持っている問題点はあまり変わっていないようです。だからこそ、昔も今も同じ議論が繰り返されているのかもしれません。

本書ではいろいろなテーマが採り上げられていますが、非常に単純化してしまえば、次のようなせめぎあいが議論の本質部分にあると考えられます。

・政府(または業界リーダー)は、
天候などで供給量が左右されやすい生鮮食料品の流通システムを公的な責任感から確実に管理したいと考える。管理することにより価格統制、流通量統制などを行いやすくしたい

・商人は、
商売に制限を受けるのは窮屈だが、緩めの管理下に入る代わりに、過当競争の排除、ある範囲での商売の独占権が期待できればよしと考える。システムに組み込まれることで安定した経営環境と地歩を得たい

これらから、例えば次のような策がたびたび講じられようとします。
・取引手数料の一律設定、または料率の制限
・卸売業者の“1品1社”独占、または少数限定(単複問題)
・市場の周辺などで本体と競合する「類似市場」の排除
・相対取引の制限(せり取引原則の強化)

政府と商人(市場関係者)とで利害が共通する要素も多々あり、徐々に市場ルールとして制度化されていった様子が窺われます。方向としては概ね「過当競争を防ぐ」向きにあったといえるでしょう。それが法律として結実したのが「中央卸売市場法」(1923年)です。

■統制経済は今も続いている?
中央卸売市場法は、もともと街中にあった(神田多町や日本橋の)市場をクローズドな区域の中に押し込める法的根拠となりました。「それまで私営だった市場を官営に衣替えした」とともに「区域内での取引独占」をさせることに成功したことになります。

大正から昭和初期は戦争(第一次、第二次世界大戦)の影響が強かった時代で、それが中央卸売市場法のような統制経済的システムと関係しているのは間違いないでしょう。しかしながら、中央卸売市場法は戦後も継続され、1949年など何度かの改訂を経ながら長い期間生き残っていきました。しかも改訂内容といえば、「類似市場の制限」「卸売人の員数制限」「市場開設者の権限強化」「仲買人条項の規定」「過当競争の制限」など。方向性はまったく変わっていないばかりか、部分的には戦前よりかえって統制色が強くなっているような気もします。

実現はしませんでしたが「市場法を、特定の該当する卸売業を管理する“特別法”の位置づけにとどめず、原則としてすべての地域・商売を対象とした“一般法”へと拡大させよう」という考え方もあったようです。案まで出され真剣に検討されたことが本書で克明に説明されています。

本書が編纂された後、1971年(昭和46年)になってやっと大改訂があり、新しい「卸売市場法」ができました。でもこのときもまた、それまで私営だった市場を「地方卸売市場」へと組み込んでいるなど、官営化を進めた側面があります。日本型官営卸売市場のシステムは、戦前から(明治時代から? 江戸時代から?)脈々と引き継がれて今に至っていることがわかります。

■移転は小さな問題かも
神田多町の青果市場が秋葉原に移転するのに約60年かかったことは、前回の記事でまとめました。しかし移った先の神田市場はそのまた約60年後に廃止され、機能は大田市場に移転しました。同じく日本橋の魚市場60年以上かけて築地市場に移転しましたが、ご存知のように豊洲移転が一応決定しています。仮に計画通り豊洲に移転するとしたら、築地市場は約85年の歴史だったということになります。

神田にしても築地にしても「国家100年の大計」とかいって計画されていながら、結局はさほど長期間はもたなかったことになります。移転より前に、例えば築地市場にあった鉄道の引込み線などはとうの昔に撤去されていました。神田市場を引き継いだ大田市場についても、開場後まだ20年も経っていないのに、設備(コールド・チェーン)の不十分さなどが話題に上ったりしています。

と考えると、新しく豊洲中央卸売市場ができたとしても、そもそも100年以上機能し続けると期待するべきものではないのかもしれません。どんなに綿密に計画を練ってもきっと10~20年も経てば設備や機能に足りないところがどんどん出てくるのでしょう。そしてきっと100年持たずにまたしても移転または廃止に…(以下略)。

悲観的な予測をしているというのではなく、経済活動というのはそういうものなのでしょう。とすれば、築地市場が豊洲に移っても移らなくても、長い目で見ればどうでもよい話かもしれません(なんて言うと、関係者には怒られてしまいそうですが)。

■独特な流通システムが変わるとき
日本の「卸売市場法」システムは世界でも独特な制度のようです。以前大田市場の関係者から聞いた話ですが、市場を見学(勉強)しにきた中国の方から「商品をさばくのにどうしてそんな細かいルールや統制が必要なのだ」と言われたことがあるそうです。どちらが社会主義経済の国でどちらが自由主義経済の国なのかわからなくなるような話です。

今後も官営の卸売市場は必要なのでしょうか。生鮮食料品の売買を多かれ少なかれ管理する必要性はあると思いますが、20世紀初頭の仕組みを前提としたまま新しい卸売市場の姿を想像するのは、やはり不自然な感があります。

卸売市場が官営のままで存続しうるのか。「卸売市場法」を今後も継続させるのか。市場移転の話は、問題をもっと掘り下げて考えてみなければわからないのかもしれません。

p.s.
冒頭の写真。神田市場の記念碑があった場所には、
・記念碑は現在千代田区が保管している
・今後、道路整備に合わせて路上での保存方法などを検討していく
と説明(平成18年8月付)がありました。