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かつての市場移転~失敗編

移転問題がくすぶる築地中央卸売市場ですが、築地移転は昭和30年代からすでに画策されていました。移転を阻止した立役者は、東京湾に棲みついた“野鳥たち”です。不思議なめぐり合わせがあったようです。

大田市場地図a
〔大田市場が計画された当初の予定地の簡略図。広い大井埠頭埋立地の最南端部分のみの地図(※1)〕

(※1 予定地北側の「国鉄用地」は、後の鉄道貨物ターミナルおよび新幹線車庫。運河をはさんで南側の「京浜島」や東側の「城南島」という名前は後に付けられたもので、当時は「○号埋立地」と呼ばれていたはず)

■移転予定だった築地市場
卸売市場の形成と移転について、「神田市場史」という資料をもとに2本の記事を書きました(「かつての市場移転」「官営化する卸売市場」)。この中で、神田青果市場および日本橋魚市場が市中から“隔離された官営市場用地”へ移転するのに60年近い長い年月がかかったことを説明しました。そしてせっかく移転した先の神田市場はそのまた60年後に大田市場に移転となり、神田市場は廃止されたことにも触れました。

大田市場(※2)には、神田市場だけでなく築地市場を含めた都内の主要な市場の多くを移転させることが想定されていました。整備計画は昭和30年代にすでに立案が開始されていたようで、昭和36年(1961年)の卸売市場10カ年計画に「10カ年計画中に造成埋立地に60万m2の用地買収を予定。可能な限り集中させる」といった内容の記述があります。昭和41年(1966年)に、大井埠頭の市場予定地の位置と面積がほぼ決定。昭和46年(1971年)に埋め立てが完了します。冒頭の地図(a)が、その概略地図です。

時間軸に沿って大まかに整理してみると、次のようになります。

・青果市場
明治初期:多町からの移転計画
→約60年後:神田市場へ移転(「市場法」統治下に入る)
→約30年後:埋立地への新たな移転計画
→約30年後:大田市場への移転

・魚市場
明治初期:日本橋からの移転計画
→約60年後:築地市場へ移転(「市場法」統治下に入る)
→約30年後:埋立地への新たな移転計画 …移転失敗★
→約30年後:またしても新たな移転計画
→約20年後:豊洲市場への移転?

(※2 当時は「大井市場(仮)」と呼ばれていた。埋立地が「大井埠頭」と呼ばれていたため。該当する埋立地が当時はまだ品川区と大田区のどちらが所有する土地か定まっていなかった。後に大田区の所有地と決まり、品川区の地名である「大井」より「大田」が適当ということになった)

■野鳥が住み着いた埋立地
築地市場の広さは20万m2強。移転前の神田市場の広さはわずか6万m2しかありませんでした。その他、江東、荏原、大森といった都内の市場(分場)を1個所に集中させることで、きっと便利になるだろう…。そのためには50~60万m2の土地が必要だ…。なんとしても大井埠頭埋立地に土地を確保すべし…。

流通の合理化が必要なことはよくわかりますが、卸売市場法という官営化意識の強い法律の影響下で、移転計画が半ば強行されようとした様子が窺われます。神田や築地の市場関係者の多くは、やはり移転に否定的だったようです。ほんの30年ばかり前に大騒ぎして移転した市場からまた動けというのも、考えてみると理不尽な感があります。

またしても移転派、非移転派の鍔競り合いが繰り返される間、埋立地は放置されていました。放置が長引いたのは1967年から12年続いた美濃部革新都政の影響もあるのでしょう。美濃部知事がこの市場移転や大規模土地開発に消極的だったかどうかはっきり把握していませんが、一説によると美濃部知事は卸売市場そのものにあまり関心がなかったともいわれます。

その“空白期”に人知れず埋立地に住み着いたのが野鳥たちです。放置されていた埋立地はきれいに整地されるでもなく、土砂が積まれかなり高低差のある状態のままになっていました。不思議なものでそこに雨水がたまって自然の淡水池ができ、野草が繁茂します。鳥たちにとってすごしやすい場所になっていました。

「せっかく住み着いた野鳥の生息地を、人間の都合でまたぶちこわすのか!」

自然保護を訴える地元住民などが長期間熱心に働きかけをした結果、北西の一角、わずかに3万m2くらいの土地が「野鳥公園」として開園したのは昭和53年(1978年)のことでした…地図(b)。

大田市場地図b
〔昭和50年代の市場予定地の様子。市場予定地には池や沼、ちょっとした山があり、さまざまな野鳥が飛来していた(※3)〕

(※3 北側から用地内に伸びている灰色の線は現在のJR貨物線で、北は田町・浜松町、南は鶴見方面へとつながっている。当時、地下化や高架化する計画からすべて地上を平面に走り用地を真っ二つに分断する計画まであって、市場計画に影響を及ぼした。結果的に市場予定地途中から地下化(点線部分)された。地下化直前で線路は単線になってしまう)

■「決して予定地を手放さない」
この時の小さな野鳥公園は、後にはっきりと野鳥公園が成立する第一歩となったことは間違いないのですが、この時点で当局(東京都)は野鳥のために土地を手放す気はまったくなかったようです。この頃になっても築地市場全面移転構想を崩さず、「最低で50万m2なければ話にならない」などといった発言を繰り返します。時には妥協点を探る人たちを裏切るような強行発言が市場関係者幹部の口から飛び出すなど、野鳥の棲み処を守ろうとする人たちを落胆させたとされています(※4)。

一方、築地市場移転を絶対反対とする勢力も強く、いつまで経っても確たる市場計画が整備できません。そうこうするうちに鉄道線の中央部縦断による用地分断問題、北東側の船たまり新設問題などいろいろな条件が加わっていき、「50万m2」から「44万m2」「42万m2」へと徐々に市場面積が削られるはめになってしまいます。さらに青果、鮮魚のほかに花卉市場を取り込むという話も加わります。

野鳥の件だけでなく、さまざまな思惑が当初のような“市場の集中・統一化”を阻むこととなります。さすがに狭い神田市場や周辺の分場は移転したものの、築地の移転はついに失敗することとなりました(※5)。

結果として、野鳥公園と卸売市場はほぼ半々の痛み分け。野鳥の棲み処(野鳥公園、および市場用地内ではあるが野鳥の生息地として保全されている部分)は約26万m2。卸売市場は、西側の花卉棟や(図には描きませんでしたが)南側の関連用地などを含めたうえで約40万m2として落ち着きました。

大田市場地図c
〔現在の大田市場と野鳥公園周辺。野鳥公園は鉄道線で少し分断されている。市場の花卉棟は、当初予定されていた用地から国道・高速湾岸線をはさんだ西側に作られた〕

(※4 野鳥生息地の環境維持に尽力した当事者である加藤幸子氏の著書「野鳥の公園奮闘記」(1986年、三省堂)に詳しい経過が説明されている)
(※5 大田市場に青果部だけでなく鮮魚部もあるのは、当時大森にあった魚市場が大田に移転したことなどがその理由)

■開発が進んだ埋立地
個人的な話になってしまいますが、この記事を書いている私(松山)は品川区内で生まれ育ったこともあり、大井埠頭が開発されていく過程を結構リアルタイムで経験しています。東京モノレールに初めて乗った頃、モノレールより海側(東側)は、埋立地があるとはいえほとんど海の一部だったような感覚がありました。

昭和50年前後、友人とともにまだ何もない埋立地の道路を行けるところまで自転車で走り、埠頭の先端(今の京浜島、城南島)で釣りをしたことがたびたびあります。6車線くらいの広い国道(今の湾岸線部分)を、車がほとんど走らないことをいいことに、ど真ん中をジグザク走行してみたり。途中で道路の舗装が途切れ、ダートを走っていたら溝にはまったりと、懐かしい思い出があります。

地図(b)の野鳥公園ができたときにも訪れてみました。人が出入りできるのは本当に狭い一角だけで、正直あまり面白みがなかったことを記憶しています。当時、卸売市場移転と狭い三角形の野鳥公園にさまざまな背景があることなどはまったく意識していませんでした。50年代半ばから後半の頃「野鳥の棲み処が卸売市場のために潰される」といった新聞記事を目にして、「あの埋立地にそんな問題があったのか」と再認識することになります。

それからかなり時を置いて訪れた野鳥公園は、大田市場の建物に分断されているものの、多数の野鳥が飛来していることに気がつきます。カワセミを目の前で見たのも、この野鳥公園が初めてでした。今の野鳥公園は、本当に良いところです。

■野鳥 Good Job!
以前の記事でも書きましたが、「国家100年の計」とかいいながら、新しい市場ができても30年も経つとまた新たな市場移転計画を作り出すという、なんだかちぐはぐな政策になってしまっていたことは否めません。高度経済成長があったから、計画が後追いになるのは仕方がないことかもしれませんが…。

昭和後期の築地市場移転失敗は、今となっては間違いでなかったような気がします。100年維持できるかわからない市場設備より、明らかにもっと長い期間、人々を和ませ、自然を保全するであろう野鳥の棲み処のほうが、長い目で見て社会に利益をもたらしていると思うわけです。埋立地が野鳥に占拠されたのは、想定外の僥倖だったのではないでしょうか。

新たに計画されている豊洲新市場の予定地は、もともと民間の土地だったこともあり、きちんと整備している様子が窺われます。例の土壌汚染問題のこともありますし、移転するにせよ移転しないにせよ放置しておくわけはないでしょう。しかし、ゆりかもめなどから俯瞰して見たとき、「今度こそ、予定地を野鳥には渡さないぞ」といった当局の意思があるかのように感じてしまうのは、私だけでしょうか…。

最後は、雑談になってしまいましたか。

▽関連情報
東京湾野鳥公園

▽追加記事:
変貌する東京湾の埋立地

コンビニ 6-“本部には内緒にしてね!”

コンビニでも個店重視の動きが高まっているようです。しかしチェーン一律均一のFCシステムで、個性を出すことは可能なのでしょうか。システム作りの過程で、電子マネーもその一翼を担うことになるのでしょう。

CVSマップ3
〔システム作りを踏まえた小売店舗チェーン作り〕

■店オリジナル? のファスト・フード現わる
コンビニ 4-個性の追求は難しいで、「コンビニは、標準化された便利さの代わりに、個々の商店の個性や面白さを犠牲にしている」といったシニカルな表現をしました。

しかし、このところの各コンビニ本部の動きをみると、地域や個々の環境によって店作りに違いを出そうとする方向性が強まっています。まだまだ胎動期かもしませんが、コンビニ・チェーンの将来像を示唆しているのでしょう。

つい最近セブン-イレブンのある店内で見かけたのが、ストア・オリジナルとも思わせるあるファスト・フード。
「当店だけで扱っている商品です。本部には内緒にしてね」
という手書きのPOPが掲げられていました。全国的に一律で販売されている商品だけではなく、その店でしか売っていない商品もあるようにアピールされると、やはりその店に足を運んでみたくなるものです。

もっともこのケースでは、POPにあるような「本部には内緒」ではなかったはずです。本部のスーパバイザーは頻繁に店に訪れその商品を目にするはずですし、もし本当に店の独断でオリジナル商品を売りたかったらそんなPOPを掲げるはずもありません。その店はセブン-イレブンでも日販100万円近くいく優良店と思われます(※注)ので、たぶん本部(少なくとも地域の統括部)もグルになった実験的な試みだったのだろうと思われます。

※ セブン-イレブンの場合、都市の標準的なモデル店舗で日販60万円強、それ以外のコンビニ・チェーンでは日販45万円前後という。

■セブン-イレブンが個店対応の動き
コンビニの店作りについて、コンビニ 1-新業態、増えるコンビニ 2-付加価値型の“実験店”コンビニ 3-生鮮品揃えと均一価格、といった事例を記事にしてきました。しかし業界リーダーのセブン-イレブン(およびファミリーマート)は安易な新業態作りには踏み出さず、「コンビニ基本型」育成に注力しているようです。生鮮食料品やファスト・フード(対面カウンターから提供するという意味で「カウンター・フード」と呼んでいるらしい)についてそれぞれ既存店で実験しているようですが、それによって新業態を立ち上げようとはしていません。

だからといってセブン-イレブンが保守的というわけではありません。飽和状態のコンビニの将来が悲観的にみられるなかで、鈴木敏文セブン&アイ会長はマスコミのインタビューに答えて「コンビニはまだまだ未完成である」といった旨の発言をしているようです。これは例えば生鮮小売店なりファスト・フードなり、その他個性のある小売店が日常的に提供しているサービスのなかで、今のセブン-イレブンが役割として提供できていないものがあることを認識しているからでしょう。

今セブン-イレブンが力を入れているのは
・デリバリーと御用聞き
・カウンター・フード
・電子マネーnanacoの普及
でしょうか。あと、日本ではありませんが、中国に進出したセブン-イレブンの店では
・量り売り
も実現されているようです。

大きくみれば、個々の店の個性作り(その前提として個々の顧客への対応力、付加価値型のオペレーション充実)に方向性が向いているのではないかと推測します。

■コンビニのシステム作りはまだまだこれから?
冒頭の図〔上〕のマップは、コンビニ 4で作成した図と同じものです。

生鮮コンビニはある一定数の店舗が展開されていますが、“提供している商品・サービスの価値が不十分”であることが常に課題になっています。ローソンは生鮮コンビニのSHOP99(99プラス)に資本提携したことで、「ローソンストア100」の展開は“打ち止め”となりました。「Gooz」や「ForkTalk」は、“コンビニ派生型”という枠の外に行ってしまった感があります。女性向けコンビニ「Happily」は、ターゲットの絞りすぎなどが原因で“売上を落とした店”と認識されているようです。ようするに数々出現したコンビニ新業態は、結局コンビニと基本的に別の業態になるか、または基本型に舞い戻るかのどちらかに向かっていると思われます。

これらと違ってセブン-イレブンは、冒頭の図〔下〕のようなイメージでアプローチしているように思えます。つまり、他業態の成功をみて平面的に展開しようとしたローソン、サークルKサンクス、am/pm、スリーエフと異なり、「基本型のさらなるシステム化」を追求し、図で言うと“業態の平面”から抜けて立体的な仕組み作りをすすめている。そしてワープしたように個性重視型店舗を出現させる。それが結果的に生鮮小売店やファスト・フードに対抗できるような店になっている…。

なんて言うとセブン・イレブンばかり優れた戦略をとっているかのような言い方になってしまいますが、そう言いたいのではありません。ようするに「コンビニはまだまだ未完成である」という鈴木会長の言葉はおそらく正解で、高度になったと思われているコンビニのシステムも、小売システムとしてはまだまだ不十分なものということなのだと思います。

今後、とくに電子マネーnanacoは、セブン-イレブンの店舗個性作りに大きな役割を担うのかもしれません。「商品」を切り口に売れ筋の分析をしてきたPOSの機能と併せて、「顧客」を切り口にニーズ分析する機能を持ちうるわけですから。

もっともそれは売る側からみたときのメリットにすぎません。顧客からみたらnanacoを所有することの価値はどこまであるのか、かなり疑問もあることでしょう。

昭和レトロ 5-新スポットの立ち飲みとバー

新オープンする高級な商業施設にも、昭和レトロ感は確実に広がっているようです。運営コストの高い場所での店舗作りは、また違った展開があるかもしれません。

新丸ビルレトロ
[東京の新スポットに出現した、レトロなホルモン処とバー]

■古いものが新しく見える時
昭和レトロに関する記事(秋葉原等居酒屋定食店惣菜店)を書いてきました。昭和というシンボルに代表される“ちょっと昔にあった、忘れかけていた匂い”が、今の社会に新鮮に受け入れられているのは間違いないところでしょう。都電荒川線も“復活版”レトロ車両を1両導入したほか、三ノ輪橋停留場にはガス灯のような照明を設置するそうです。

新たに登場する商業施設の店舗作りにも、昭和に限らず日本的な美しさや懐かしさが取り入れられています。瓢箪やつくばいのようなディスプレイがセンス良く飾られていたり、店の外装にいかにも古い日本家屋の様相をほどこしていたりと、工夫がみられるようです。先ごろオープンした東京駅前の新丸ビルや六本木の東京ミッドタウンも例外でなく、近代的なビルのなかにいくつかの“昭和レトロ”が進出しています。

■立ち飲みがファッション
レストラン街で最もレトロ感のあるのが、写真に挙げたモツ焼きの店「日本再生酒場 い志井」でしょうか。昭和30年代の雰囲気作りを目指した立ち飲み形式の店。例によって、店内には昭和の時代のブリキの看板や人形(写真はタイガース?)、小物がちりばめられていて、ビール片手にモツ焼きなどを気軽に頬張ることができます。

この「日本再生酒場」はすでに路面店として新宿、池袋、蒲田、門前仲町などに展開されています。店舗開発・運営はビーヨンシイ。「もつやき処 い志井」のほうが長い歴史があり、そのノウハウを立ち飲み型店舗に応用し始めているようです。

「日本再生酒場」では女性客を積極的に取り入れようとしているようです。女性が立ち飲みをファッションとして楽しむなど、ちょっと前には考えにくかったところです。料理は臭みが少なく食べやすく調理されています。もっともその分、モツの少し癖のある味が好みの人には物足りないかもしれませんが…。

■女性専用のバー
同じ新丸ビルにはもう1軒、「来夢来人(らいむらいと)」という女性専用の昭和レトロなバーがあります。いかにも場末感のある店作りと、いかにもダサい店名。いや、ダサいというより、普通すぎる店名でしょう(日本全国に「来夢来人」というバーはいったい何軒あるのでしょうか)。この場所でわざわざこの名前をつけたところに、“一見怪しそう。でも本当は安心みたい”と思わせる距離感が絶妙です。

やはり昭和30年代あたりの雰囲気作りがされているようです。客層からいうと、もう少し後の世代がメインなのでしょう。私が通りかかったときには、BGMとして「セーラー服と機関銃」がかかっていました。

「昔から一度はこういった店に入ってみたかった。でも男性(特に会社の上司)に連れられて入るのはまっぴらゴメン。かといって女性だけで入ると他の男性酔客からの視線が気になるし…」とか思って入れなかった女性客でも、ここなら安心して入れるのかもしれません。

両店とも「女性にも気軽に受け入れられる昭和レトロ」というところが店舗イメージのカギとなっているのでしょう。場末感といっても本当の場末ではなく、怪しさといっても劇場型にすぎず、あくまでも洗練された店作りと食材の提供を目指しているといえます。この手のコンセプトの外食店は、おそらく今後多数登場することでしょう。

■場代の高さと昼食時の運営
場末の飲み屋やバーが繁盛するのは、一般的にはその場代の安さが重要な要素となっているはずです。

・立ち飲み店の場合
人通りがそこそこある立地は必要だが、経費は全般に抑えられていて、客単価は安くても回転数は高く、薄利多売的であること
・バーの場合
ガード下とまではいかなくても、繁華街の少し端になどに位置し、常連客がそこそこついていること

などが、十分な利益が出る条件でしょう。

一方、新丸ビルのようなかなり高級な立地ともなると、店の賃貸料は決して安くありません。「日本再生酒場」にしても、以前からある路面店は夜の営業だけでペイしたかもしれませんが、新丸ビル店では昼の時間を寝かしておくわけにはいきません。昼食用に、もつ煮定食(ランチ)を数種類用意してあります。

ご存知のように昼時ともなれば、新丸ビルのレストラン街は相当の人出があり、どの店もあちこちにずらっと入店を待つ客が並んでいます。しかしそうした店に比べると、(あくまでも私が立ち寄ったときの印象に過ぎませんが)立ったまま昼食をとろうという人はさほど多くない様子です。定食の中身にしても、味はともかく、街中の定食店と比べるとどうしてもコスト・パフォーマンスが悪くなってしまうことでしょう。とすると、昼時のリピーターはさほど多くないことも予想されます。

■コスト増とどう折り合うのか
まだ開業したばかりなのでこれからかもしれませんが、仮に夜には強くても、昼の営業は課題が残りそうな様子が窺われます。この店に限らず、本来コストをあまりかけずに済んでいた“昭和レトロ”的業態が、高級な商業地で店舗作りをするとなると、

・場代の高い立地条件で
・女性にも安心して受け入れられる程度に手間とコストをかけ
・味など商品の品質も高めのものが求められる
ことを強いられます。

昭和レトロの外食フォーマットは、まだいろいろ試行が重ねられていくのでしょう。

官営化する卸売市場(「神田市場史」より)

江戸時代の昔から、お上は卸売市場の管理に腐心していました。商人は渋々と管理を受けながらも、お墨付きを得るがゆえのメリットを享受していたようです。

神田市場発祥の碑 「神田市場史」(上・下)
[「神田青果市場発祥の地 記念碑」があった場所]

…神田多町市場があった場所にその後「記念碑」が立てられました。昨年(2006年)、その記念碑は取り外されています。左の赤破線枠は記念碑があった位置。今はその写真説明が脇に貼られています(緑破線枠)。

■卸売市場法の功罪
「神田市場史」(上・下)に書かれている議論を読むと、実に複雑な利害関係があったことがわかります。神田多町の青果市場が秋葉原に移るまで長い時間がかかった(記事「かつての市場移転」)わけですが、市場が移転しようがしまいが、卸売市場が本質的に持っている問題点はあまり変わっていないようです。だからこそ、昔も今も同じ議論が繰り返されているのかもしれません。

本書ではいろいろなテーマが採り上げられていますが、非常に単純化してしまえば、次のようなせめぎあいが議論の本質部分にあると考えられます。

・政府(または業界リーダー)は、
天候などで供給量が左右されやすい生鮮食料品の流通システムを公的な責任感から確実に管理したいと考える。管理することにより価格統制、流通量統制などを行いやすくしたい

・商人は、
商売に制限を受けるのは窮屈だが、緩めの管理下に入る代わりに、過当競争の排除、ある範囲での商売の独占権が期待できればよしと考える。システムに組み込まれることで安定した経営環境と地歩を得たい

これらから、例えば次のような策がたびたび講じられようとします。
・取引手数料の一律設定、または料率の制限
・卸売業者の“1品1社”独占、または少数限定(単複問題)
・市場の周辺などで本体と競合する「類似市場」の排除
・相対取引の制限(せり取引原則の強化)

政府と商人(市場関係者)とで利害が共通する要素も多々あり、徐々に市場ルールとして制度化されていった様子が窺われます。方向としては概ね「過当競争を防ぐ」向きにあったといえるでしょう。それが法律として結実したのが「中央卸売市場法」(1923年)です。

■統制経済は今も続いている?
中央卸売市場法は、もともと街中にあった(神田多町や日本橋の)市場をクローズドな区域の中に押し込める法的根拠となりました。「それまで私営だった市場を官営に衣替えした」とともに「区域内での取引独占」をさせることに成功したことになります。

大正から昭和初期は戦争(第一次、第二次世界大戦)の影響が強かった時代で、それが中央卸売市場法のような統制経済的システムと関係しているのは間違いないでしょう。しかしながら、中央卸売市場法は戦後も継続され、1949年など何度かの改訂を経ながら長い期間生き残っていきました。しかも改訂内容といえば、「類似市場の制限」「卸売人の員数制限」「市場開設者の権限強化」「仲買人条項の規定」「過当競争の制限」など。方向性はまったく変わっていないばかりか、部分的には戦前よりかえって統制色が強くなっているような気もします。

実現はしませんでしたが「市場法を、特定の該当する卸売業を管理する“特別法”の位置づけにとどめず、原則としてすべての地域・商売を対象とした“一般法”へと拡大させよう」という考え方もあったようです。案まで出され真剣に検討されたことが本書で克明に説明されています。

本書が編纂された後、1971年(昭和46年)になってやっと大改訂があり、新しい「卸売市場法」ができました。でもこのときもまた、それまで私営だった市場を「地方卸売市場」へと組み込んでいるなど、官営化を進めた側面があります。日本型官営卸売市場のシステムは、戦前から(明治時代から? 江戸時代から?)脈々と引き継がれて今に至っていることがわかります。

■移転は小さな問題かも
神田多町の青果市場が秋葉原に移転するのに約60年かかったことは、前回の記事でまとめました。しかし移った先の神田市場はそのまた約60年後に廃止され、機能は大田市場に移転しました。同じく日本橋の魚市場60年以上かけて築地市場に移転しましたが、ご存知のように豊洲移転が一応決定しています。仮に計画通り豊洲に移転するとしたら、築地市場は約85年の歴史だったということになります。

神田にしても築地にしても「国家100年の大計」とかいって計画されていながら、結局はさほど長期間はもたなかったことになります。移転より前に、例えば築地市場にあった鉄道の引込み線などはとうの昔に撤去されていました。神田市場を引き継いだ大田市場についても、開場後まだ20年も経っていないのに、設備(コールド・チェーン)の不十分さなどが話題に上ったりしています。

と考えると、新しく豊洲中央卸売市場ができたとしても、そもそも100年以上機能し続けると期待するべきものではないのかもしれません。どんなに綿密に計画を練ってもきっと10~20年も経てば設備や機能に足りないところがどんどん出てくるのでしょう。そしてきっと100年持たずにまたしても移転または廃止に…(以下略)。

悲観的な予測をしているというのではなく、経済活動というのはそういうものなのでしょう。とすれば、築地市場が豊洲に移っても移らなくても、長い目で見ればどうでもよい話かもしれません(なんて言うと、関係者には怒られてしまいそうですが)。

■独特な流通システムが変わるとき
日本の「卸売市場法」システムは世界でも独特な制度のようです。以前大田市場の関係者から聞いた話ですが、市場を見学(勉強)しにきた中国の方から「商品をさばくのにどうしてそんな細かいルールや統制が必要なのだ」と言われたことがあるそうです。どちらが社会主義経済の国でどちらが自由主義経済の国なのかわからなくなるような話です。

今後も官営の卸売市場は必要なのでしょうか。生鮮食料品の売買を多かれ少なかれ管理する必要性はあると思いますが、20世紀初頭の仕組みを前提としたまま新しい卸売市場の姿を想像するのは、やはり不自然な感があります。

卸売市場が官営のままで存続しうるのか。「卸売市場法」を今後も継続させるのか。市場移転の話は、問題をもっと掘り下げて考えてみなければわからないのかもしれません。

p.s.
冒頭の写真。神田市場の記念碑があった場所には、
・記念碑は現在千代田区が保管している
・今後、道路整備に合わせて路上での保存方法などを検討していく
と説明(平成18年8月付)がありました。

かつての市場移転(「神田市場史」より)

神田多町(たちょう)にあった青物市場と日本橋にあった魚市場。移転計画が出てから実際に新市場に移るまで、なんと60年近くもかかっていました。

神田市場史
「神田市場史」(上・下刊)
【神田市場協会・神田市場史刊行会(編)、1968年(上巻)・1970年(下巻)、文唱堂】

■100年前の議論と今の議論が重なる
別の目的で寄った図書館でたまたま目にしたこの資料に目を通し始めたら面白くなって読み進めてしまいました。ちょうど都知事選で築地市場の豊洲移転問題が再燃している折、明治時代の市場移転問題や市場関係者の生の声が詳しく書かれていて、やけに現実味があるのです。100年以上前に議論されていた内容と、現代の議論とが相当重なるところがあり、なんとも興味深いものです。

上下刊合わせて約3000ページ。図書館で短時間に読めるわけもなく、つい借りてきてしまいました。重さにして4.5kg。資料を鞄に入れて持って帰るのは重かったです(笑)。

こんなレアな資料を「書評」とするのは相応しくないかもしれません。でも、これまで「豊洲卸売市場と財政問題」ほかいくつか、東京の中央卸売市場に関連する記事を書いてきた視点も踏まえ、この本にかこつけて少し雑談させてください。

■350年の歴史を編纂、その20年後に閉場
本書は、「今日(注:1970年時点)名実ともに最高最大の青果市場として全国に君臨している」神田市場について、江戸時代初期に発祥してから昭和の高度成長の時代までの記録を洗い、資料的にまとめることが目的で編纂されたものです。同時期に神田青物市場と並び発展していた日本橋魚市場と比べて資料が「天災戦災等で殆んど消失」してしまっているため、残存する資料があるうちにまとめて「栄誉ある市場の歴史を永久に保存し且将来の発展に備え」ようとした模様です。

17世紀に市場が形成されてから明治時代まで、神田市場は今の神田多町2丁目を中心に、神田須田町、神田鍛冶町、神田司町周辺にありました。この市場が今の秋葉原駅近くに移転したのが昭和3年(1928年)、本書が編纂されたのがその約45年後です。
しかしご存知のように、その後20年も経たない平成元年(1989年)に、神田市場は廃止されました。その機能は主に同年に開場した大田市場に引き継がれています。江戸時代から数えると350年もの歴史が、本書編纂後わずか20年で幕を閉じるとは、この書の編纂者は予想していたものでしょうか。

■「お上のお達しと言われてもねぇ!」
卸売市場といっても、江戸時代から明治時代は今のようにクローズドな施設内部で取引が行われていたのではなく、町の往来(ようするに道端)に広く商品を広げて商いを行っていた形でした。江戸が栄えるに従って交通の便利な場所に市場が自然発生的に発展したわけです。神田については、神田川の周辺に蜜柑などの荷が多く揚がるようになったことが市場形成の重要な要因だったといわれています。

しかし便利な地域にこそ市場ができるものの、町が大きくなると今度は交通往来の問題、景観の問題、衛生の問題などが発生します。明治初期でも神田多町周辺はかなり人や車(荷車や荷馬車)の往来があった様子が、本書などに掲載されている風俗画から窺われます。そして主に為政者、街づくりを計画する者から、市場を郊外に立ち退かせるほうがよいという意見がたびたび出てきます。

一方、長い間市場で商売をしていた人たちにとって移転は死活問題で、お上の一方的な移転計画をすぐに受け入れられる余地はもちろんありません。日常の食材を毎日提供する機能を持っているので、(そしてそれはすぐに代替が利かない複雑な経済的機能なので)為政者も強権一本で市場をどかせることがままならない…。市場移転の問題は、常にこうした構図で進んできたといえそうです。今の市場移転問題も、ほとんどこの構図が変わっていないのではないでしょうか。

■東京府知事の命令→すぐに取り消し
明治維新で幕藩体制下の特権が否定され、市場でも商売上もそれまであった古い株仲間は解散対象になりました。しかし現実には多くの妥協がとられ、それまでの商人が持っていた流通機能は当然のように引き継がれることになります。明治初年の時点で東京府内の市場の整理統合はかなり行われましたが、「青物は神田多町」「魚は日本橋」として両者の卸売機能の中心的役割を持ち続けます。

そして(以下、表現は少し脚色)…

〔明治5年(1872年)〕
<゜。゜> 東京府知事・大久保一翁:「神田多町(※1)の市場は交通に邪魔だ。首都の美観上も見栄えも悪い。近くに外神田の鎮火社境内という適当な空き地があるから(※2)、そこに移れや」
< ‘ヘ’ > 神田市場の問屋勢力:「やだ! 政治力に訴えて、そんな計画潰してくれよう」

実際、命令はすぐに「取り消し」と相成りました。本書では「その理由は明らかでないが、…中略…神田市場の問屋勢力というものが、当時の市政の中で相当な発言力を持っていたらしいことがうかがえる」と書かれています。

(※1 市場移転の対象は神田多町だけでなく、日本橋魚市場ほか他市場もセットになっていた。移転理由はどれもほとんど同じ)
(※2 明治2年に神田相生町から起こった火事が大火になったことがきっかけで、神田佐久間町に火除地と鎮火社が設立された。その鎮火社には遠州 ― 今の静岡 ― の秋葉大権現の分霊を祀った。ここから 秋葉の原→秋葉原 という地名が発生している)

■神田の卸売市場が移転するのに56年
その後、明治9年には神田多町市場が火事で消失するといったことまであったようですが、引き続き神田市場も日本橋魚市場も営業を続けます。

〔明治17年(1884年)〕
<゜。゜> 東京府知事・芳川顕正:「東京市区改正だ。まずは中心地区の日本橋や神田から一新する。市場移転は当然だ」
< ‘ヘ’ > 内務卿・山県有朋:「財政上の理由で却下!」

〔明治21年(1888年)3月、8月〕
<゜。゜> 政府:「東京市区改正条例案ができた。もちろん市場は移転せよ」
< ‘ヘ’ > 元老院:「廃案!」
<゜。゜> 政府:「もう一回、条例案出したる。元老院なんぞ無視じゃ!」

〔明治22年(1889年)〕
<゜。゜> 政府:「内務大臣訓令を出したぞ。決定だ。10年以内に移転せよ。移転費用は自前で持て」
< ‘ヘ’ > 市場関係者:「やだ! 200年以上も営んでいる場所を、しかも自分で費用負担して引き払えだと? ありえない!」

〔明治23年(1890年)〕
<゜。゜> 政府:「この抵抗の様子じゃ10年以内は無理かもしれん。『延期もありうる』とでもしておこう」

この時期、明治23年には上野から鉄道の線路が南に伸び、秋葉原に貨物駅が開かれました。24年には東北本線が青森まで全面開通。それまで主に船便で集荷または出荷されていた神田市場でしたが、ここで鉄道と船の両方が交わる交通の要所となります。多町から秋葉原への移転も、それを前提とした計画として進められたようです。

■移転期限延長の連続
さらに続きます。

〔明治32年(1899年)〕
<゜。゜> 政府:「10年の期限が来たぞ」
< ‘ヘ’ > 市場関係者:「知らんがな!」
<゜。゜> 政府:「5年延長してやろう」

その4年後の明治36年、東京市会は内務大臣向けに「市場移転廃止に関する意見書」なんぞというもの提出しているようです。

〔明治37年(1904年)〕
<゜。゜> 政府:「5年の期限が来たぞ」
< ‘ヘ’ > 市場関係者:「知らんがな!」
<゜。゜> 政府:「仕方ない、さらに5年延長してやろう」

〔明治43年(1910年)〕
<゜。゜> 政府:「もう期限は過ぎとる。移転する気はないのか~」
< ‘ヘ’ > 市場関係者:「ない!」
<゜。゜> 政府:「もう3年だけ延長してやろう」

面白いのは、この時の移転派、移転反対派どちらの言い分にも「衛生問題」が持ち出されていることです。移転派は「今のような状態じゃ衛生的に問題がある」。反対派は「衛生的な問題は施設を改良すればよいことだ」。まるで、現在の築地→豊洲移転問題の議論が100年前から続いているかのようです。

しかしこの間、日清戦争(1894)と日露戦争(1904)を経て、明治後期になると神田市場に集まる青果物はかなり増大し、市場の手狭感は強くなったようです。そして第一次世界大戦(1914-大正3年)の時期には水上輸送が減り、鉄道輸送が主力となるに至ります(このあたりの数字が本書に資料として掲載されている)。この時期になっても、市街地の中心に卸売市場が開かれているというのは、さすがに不自然とされるようになっていったようです。

・明治36年(1903年):万世橋が鉄橋となって新たに開通
・明治41年(1908年):昌平橋停車場(仮駅)開業
・明治45年(1912年):万世橋駅、東京のターミナルとして開業
(参考記事:「交通博物館閉館」)
・大正3年(1914年):東京駅開業(万世橋駅は単なる途中駅になった)

■市場法と関東大震災が市場移転を促した
第一次大戦戦後すぐの大正6年から7年に強烈なインフレーションが起こり、その後全国で米騒動が勃発します。この時期は、卸売市場は儲かって仕方がない業者も少なくなかったのでしょう。卸売業者にとっては一種のバブル景気だったのかもしれません。しかしこれを一つの契機として経済統制の方向が強まり、大正12年(1923年)に「中央卸売市場法」が成立します。

この「市場法」は物価安定策の一環という大目標があったわけですが、一方では言うことを聞かない卸売市場をなんとかコントロールしようという狙いもあったとのこと。本書によると、この法律は「市場を統制すること、特に神田市場の勢力をさくこと」を目的としたものだったとされています。政治的な側面から神田多町市場が制限を受けるとともに、同じこの年の9月、関東大震災で市場設備が壊滅的被害を受けるわけです。

これらがその6年後、昭和3年(1928年)の新しい神田市場への移転につながる決定打となったといえそうです。日本橋の魚市場についても、震災被害が決め手となって翌年に築地市場建設が議決されます。途中、芝浦の仮設市場を経由するなど時間はかかったものの、なし崩し的に日本橋の市場はなくなり、昭和10年(1935年)開場の築地市場へ受け継がれることになります。

■経済的メカニズムと為政者の意思決定
市場移転といっても、日本橋はともかく神田については多町から目と鼻の先の秋葉原に移動するだけです。たったそれだけで60年近くの年月がかかってしまっているのは驚かされます。わかるのは、

・こと食料品の流通機構については、お上の強権だけで問題は決して解決しないこと
・かといって市場関係者にとっても、物流などを含めた経済的メカニズムを無視して既得権益を守ることができないこと
・(良し悪しはともかく)悲しいかな、火事や震災などの災害がこうした大規模施設移転の重要なきっかけとなること
でしょうか。

今の築地→豊洲移転問題についても、無理やりこれらになぞらえて言えば、次のような仮説が成り立つかもしれません。

・たった1人の都知事の判断で市場移転の意思決定が決定的に左右されることはたぶんなく、いろいろな関係者の合意によってのみ移転は実現すること(移転のスピードは変わるかもしれませんが)
・移転の成否は経済状況に大きく依存すること。現代はすでに卸売市場が唯一の青果・鮮魚流通チャネルではないだけに、希望的観測(計画経済的な思想)だけで将来の卸売市場の経済規模を推し量ることはできないでしょう
・(問題のある言い方だと思いますが)次の東京大震災がいつくるかで、移転問題も豊洲新市場の成否も左右されるであろうこと。どう転んでもリスクがとれるよう考えておくのがよさそうです

大変無責任な感想を許してもらえば、
・豊洲移転を含めた市場の計画の内容は、いろいろなバリエーションを早めに練っておくのがよさそう
・でも、実際の移転は無理に急ぐ必要はまったくなく、柿が熟して落ちるのを待つ姿勢でよいのではないか
なんてことを、本書を読みながら感じました。

本書の情報量は膨大なので、“つまみ食い”したような読み方をしているだけです。短くまとめようと思っていたのですが、神田市場の移転についてだけでもずいぶん長くなってしまいました。この本に関連して、引き続き記事を書く予定です。