移転問題がくすぶる築地中央卸売市場ですが、築地移転は昭和30年代からすでに画策されていました。移転を阻止した立役者は、東京湾に棲みついた“野鳥たち”です。不思議なめぐり合わせがあったようです。
〔大田市場が計画された当初の予定地の簡略図。広い大井埠頭埋立地の最南端部分のみの地図(※1)〕
(※1 予定地北側の「国鉄用地」は、後の鉄道貨物ターミナルおよび新幹線車庫。運河をはさんで南側の「京浜島」や東側の「城南島」という名前は後に付けられたもので、当時は「○号埋立地」と呼ばれていたはず)
■移転予定だった築地市場
卸売市場の形成と移転について、「神田市場史」という資料をもとに2本の記事を書きました(「かつての市場移転」「官営化する卸売市場」)。この中で、神田青果市場および日本橋魚市場が市中から“隔離された官営市場用地”へ移転するのに60年近い長い年月がかかったことを説明しました。そしてせっかく移転した先の神田市場はそのまた60年後に大田市場に移転となり、神田市場は廃止されたことにも触れました。
大田市場(※2)には、神田市場だけでなく築地市場を含めた都内の主要な市場の多くを移転させることが想定されていました。整備計画は昭和30年代にすでに立案が開始されていたようで、昭和36年(1961年)の卸売市場10カ年計画に「10カ年計画中に造成埋立地に60万m2の用地買収を予定。可能な限り集中させる」といった内容の記述があります。昭和41年(1966年)に、大井埠頭の市場予定地の位置と面積がほぼ決定。昭和46年(1971年)に埋め立てが完了します。冒頭の地図(a)が、その概略地図です。
時間軸に沿って大まかに整理してみると、次のようになります。
・青果市場
明治初期:多町からの移転計画
→約60年後:神田市場へ移転(「市場法」統治下に入る)
→約30年後:埋立地への新たな移転計画
→約30年後:大田市場への移転
・魚市場
明治初期:日本橋からの移転計画
→約60年後:築地市場へ移転(「市場法」統治下に入る)
→約30年後:埋立地への新たな移転計画 …移転失敗★
→約30年後:またしても新たな移転計画
→約20年後:豊洲市場への移転?
(※2 当時は「大井市場(仮)」と呼ばれていた。埋立地が「大井埠頭」と呼ばれていたため。該当する埋立地が当時はまだ品川区と大田区のどちらが所有する土地か定まっていなかった。後に大田区の所有地と決まり、品川区の地名である「大井」より「大田」が適当ということになった)
■野鳥が住み着いた埋立地
築地市場の広さは20万m2強。移転前の神田市場の広さはわずか6万m2しかありませんでした。その他、江東、荏原、大森といった都内の市場(分場)を1個所に集中させることで、きっと便利になるだろう…。そのためには50~60万m2の土地が必要だ…。なんとしても大井埠頭埋立地に土地を確保すべし…。
流通の合理化が必要なことはよくわかりますが、卸売市場法という官営化意識の強い法律の影響下で、移転計画が半ば強行されようとした様子が窺われます。神田や築地の市場関係者の多くは、やはり移転に否定的だったようです。ほんの30年ばかり前に大騒ぎして移転した市場からまた動けというのも、考えてみると理不尽な感があります。
またしても移転派、非移転派の鍔競り合いが繰り返される間、埋立地は放置されていました。放置が長引いたのは1967年から12年続いた美濃部革新都政の影響もあるのでしょう。美濃部知事がこの市場移転や大規模土地開発に消極的だったかどうかはっきり把握していませんが、一説によると美濃部知事は卸売市場そのものにあまり関心がなかったともいわれます。
その“空白期”に人知れず埋立地に住み着いたのが野鳥たちです。放置されていた埋立地はきれいに整地されるでもなく、土砂が積まれかなり高低差のある状態のままになっていました。不思議なものでそこに雨水がたまって自然の淡水池ができ、野草が繁茂します。鳥たちにとってすごしやすい場所になっていました。
「せっかく住み着いた野鳥の生息地を、人間の都合でまたぶちこわすのか!」
自然保護を訴える地元住民などが長期間熱心に働きかけをした結果、北西の一角、わずかに3万m2くらいの土地が「野鳥公園」として開園したのは昭和53年(1978年)のことでした…地図(b)。
〔昭和50年代の市場予定地の様子。市場予定地には池や沼、ちょっとした山があり、さまざまな野鳥が飛来していた(※3)〕
(※3 北側から用地内に伸びている灰色の線は現在のJR貨物線で、北は田町・浜松町、南は鶴見方面へとつながっている。当時、地下化や高架化する計画からすべて地上を平面に走り用地を真っ二つに分断する計画まであって、市場計画に影響を及ぼした。結果的に市場予定地途中から地下化(点線部分)された。地下化直前で線路は単線になってしまう)
■「決して予定地を手放さない」
この時の小さな野鳥公園は、後にはっきりと野鳥公園が成立する第一歩となったことは間違いないのですが、この時点で当局(東京都)は野鳥のために土地を手放す気はまったくなかったようです。この頃になっても築地市場全面移転構想を崩さず、「最低で50万m2なければ話にならない」などといった発言を繰り返します。時には妥協点を探る人たちを裏切るような強行発言が市場関係者幹部の口から飛び出すなど、野鳥の棲み処を守ろうとする人たちを落胆させたとされています(※4)。
一方、築地市場移転を絶対反対とする勢力も強く、いつまで経っても確たる市場計画が整備できません。そうこうするうちに鉄道線の中央部縦断による用地分断問題、北東側の船たまり新設問題などいろいろな条件が加わっていき、「50万m2」から「44万m2」「42万m2」へと徐々に市場面積が削られるはめになってしまいます。さらに青果、鮮魚のほかに花卉市場を取り込むという話も加わります。
野鳥の件だけでなく、さまざまな思惑が当初のような“市場の集中・統一化”を阻むこととなります。さすがに狭い神田市場や周辺の分場は移転したものの、築地の移転はついに失敗することとなりました(※5)。
結果として、野鳥公園と卸売市場はほぼ半々の痛み分け。野鳥の棲み処(野鳥公園、および市場用地内ではあるが野鳥の生息地として保全されている部分)は約26万m2。卸売市場は、西側の花卉棟や(図には描きませんでしたが)南側の関連用地などを含めたうえで約40万m2として落ち着きました。
〔現在の大田市場と野鳥公園周辺。野鳥公園は鉄道線で少し分断されている。市場の花卉棟は、当初予定されていた用地から国道・高速湾岸線をはさんだ西側に作られた〕
(※4 野鳥生息地の環境維持に尽力した当事者である加藤幸子氏の著書「野鳥の公園奮闘記」(1986年、三省堂)に詳しい経過が説明されている)
(※5 大田市場に青果部だけでなく鮮魚部もあるのは、当時大森にあった魚市場が大田に移転したことなどがその理由)
■開発が進んだ埋立地
個人的な話になってしまいますが、この記事を書いている私(松山)は品川区内で生まれ育ったこともあり、大井埠頭が開発されていく過程を結構リアルタイムで経験しています。東京モノレールに初めて乗った頃、モノレールより海側(東側)は、埋立地があるとはいえほとんど海の一部だったような感覚がありました。
昭和50年前後、友人とともにまだ何もない埋立地の道路を行けるところまで自転車で走り、埠頭の先端(今の京浜島、城南島)で釣りをしたことがたびたびあります。6車線くらいの広い国道(今の湾岸線部分)を、車がほとんど走らないことをいいことに、ど真ん中をジグザク走行してみたり。途中で道路の舗装が途切れ、ダートを走っていたら溝にはまったりと、懐かしい思い出があります。
地図(b)の野鳥公園ができたときにも訪れてみました。人が出入りできるのは本当に狭い一角だけで、正直あまり面白みがなかったことを記憶しています。当時、卸売市場移転と狭い三角形の野鳥公園にさまざまな背景があることなどはまったく意識していませんでした。50年代半ばから後半の頃「野鳥の棲み処が卸売市場のために潰される」といった新聞記事を目にして、「あの埋立地にそんな問題があったのか」と再認識することになります。
それからかなり時を置いて訪れた野鳥公園は、大田市場の建物に分断されているものの、多数の野鳥が飛来していることに気がつきます。カワセミを目の前で見たのも、この野鳥公園が初めてでした。今の野鳥公園は、本当に良いところです。
■野鳥 Good Job!
以前の記事でも書きましたが、「国家100年の計」とかいいながら、新しい市場ができても30年も経つとまた新たな市場移転計画を作り出すという、なんだかちぐはぐな政策になってしまっていたことは否めません。高度経済成長があったから、計画が後追いになるのは仕方がないことかもしれませんが…。
昭和後期の築地市場移転失敗は、今となっては間違いでなかったような気がします。100年維持できるかわからない市場設備より、明らかにもっと長い期間、人々を和ませ、自然を保全するであろう野鳥の棲み処のほうが、長い目で見て社会に利益をもたらしていると思うわけです。埋立地が野鳥に占拠されたのは、想定外の僥倖だったのではないでしょうか。
新たに計画されている豊洲新市場の予定地は、もともと民間の土地だったこともあり、きちんと整備している様子が窺われます。例の土壌汚染問題のこともありますし、移転するにせよ移転しないにせよ放置しておくわけはないでしょう。しかし、ゆりかもめなどから俯瞰して見たとき、「今度こそ、予定地を野鳥には渡さないぞ」といった当局の意思があるかのように感じてしまうのは、私だけでしょうか…。
最後は、雑談になってしまいましたか。
▽関連情報
東京湾野鳥公園
▽追加記事:
変貌する東京湾の埋立地