神田多町(たちょう)にあった青物市場と日本橋にあった魚市場。移転計画が出てから実際に新市場に移るまで、なんと60年近くもかかっていました。
「神田市場史」(上・下刊)
【神田市場協会・神田市場史刊行会(編)、1968年(上巻)・1970年(下巻)、文唱堂】
■100年前の議論と今の議論が重なる
別の目的で寄った図書館でたまたま目にしたこの資料に目を通し始めたら面白くなって読み進めてしまいました。ちょうど都知事選で築地市場の豊洲移転問題が再燃している折、明治時代の市場移転問題や市場関係者の生の声が詳しく書かれていて、やけに現実味があるのです。100年以上前に議論されていた内容と、現代の議論とが相当重なるところがあり、なんとも興味深いものです。
上下刊合わせて約3000ページ。図書館で短時間に読めるわけもなく、つい借りてきてしまいました。重さにして4.5kg。資料を鞄に入れて持って帰るのは重かったです(笑)。
こんなレアな資料を「書評」とするのは相応しくないかもしれません。でも、これまで「豊洲卸売市場と財政問題」ほかいくつか、東京の中央卸売市場に関連する記事を書いてきた視点も踏まえ、この本にかこつけて少し雑談させてください。
■350年の歴史を編纂、その20年後に閉場
本書は、「今日(注:1970年時点)名実ともに最高最大の青果市場として全国に君臨している」神田市場について、江戸時代初期に発祥してから昭和の高度成長の時代までの記録を洗い、資料的にまとめることが目的で編纂されたものです。同時期に神田青物市場と並び発展していた日本橋魚市場と比べて資料が「天災戦災等で殆んど消失」してしまっているため、残存する資料があるうちにまとめて「栄誉ある市場の歴史を永久に保存し且将来の発展に備え」ようとした模様です。
17世紀に市場が形成されてから明治時代まで、神田市場は今の神田多町2丁目を中心に、神田須田町、神田鍛冶町、神田司町周辺にありました。この市場が今の秋葉原駅近くに移転したのが昭和3年(1928年)、本書が編纂されたのがその約45年後です。
しかしご存知のように、その後20年も経たない平成元年(1989年)に、神田市場は廃止されました。その機能は主に同年に開場した大田市場に引き継がれています。江戸時代から数えると350年もの歴史が、本書編纂後わずか20年で幕を閉じるとは、この書の編纂者は予想していたものでしょうか。
■「お上のお達しと言われてもねぇ!」
卸売市場といっても、江戸時代から明治時代は今のようにクローズドな施設内部で取引が行われていたのではなく、町の往来(ようするに道端)に広く商品を広げて商いを行っていた形でした。江戸が栄えるに従って交通の便利な場所に市場が自然発生的に発展したわけです。神田については、神田川の周辺に蜜柑などの荷が多く揚がるようになったことが市場形成の重要な要因だったといわれています。
しかし便利な地域にこそ市場ができるものの、町が大きくなると今度は交通往来の問題、景観の問題、衛生の問題などが発生します。明治初期でも神田多町周辺はかなり人や車(荷車や荷馬車)の往来があった様子が、本書などに掲載されている風俗画から窺われます。そして主に為政者、街づくりを計画する者から、市場を郊外に立ち退かせるほうがよいという意見がたびたび出てきます。
一方、長い間市場で商売をしていた人たちにとって移転は死活問題で、お上の一方的な移転計画をすぐに受け入れられる余地はもちろんありません。日常の食材を毎日提供する機能を持っているので、(そしてそれはすぐに代替が利かない複雑な経済的機能なので)為政者も強権一本で市場をどかせることがままならない…。市場移転の問題は、常にこうした構図で進んできたといえそうです。今の市場移転問題も、ほとんどこの構図が変わっていないのではないでしょうか。
■東京府知事の命令→すぐに取り消し
明治維新で幕藩体制下の特権が否定され、市場でも商売上もそれまであった古い株仲間は解散対象になりました。しかし現実には多くの妥協がとられ、それまでの商人が持っていた流通機能は当然のように引き継がれることになります。明治初年の時点で東京府内の市場の整理統合はかなり行われましたが、「青物は神田多町」「魚は日本橋」として両者の卸売機能の中心的役割を持ち続けます。
そして(以下、表現は少し脚色)…
〔明治5年(1872年)〕
<゜。゜> 東京府知事・大久保一翁:「神田多町(※1)の市場は交通に邪魔だ。首都の美観上も見栄えも悪い。近くに外神田の鎮火社境内という適当な空き地があるから(※2)、そこに移れや」
< ‘ヘ’ > 神田市場の問屋勢力:「やだ! 政治力に訴えて、そんな計画潰してくれよう」
実際、命令はすぐに「取り消し」と相成りました。本書では「その理由は明らかでないが、…中略…神田市場の問屋勢力というものが、当時の市政の中で相当な発言力を持っていたらしいことがうかがえる」と書かれています。
(※1 市場移転の対象は神田多町だけでなく、日本橋魚市場ほか他市場もセットになっていた。移転理由はどれもほとんど同じ)
(※2 明治2年に神田相生町から起こった火事が大火になったことがきっかけで、神田佐久間町に火除地と鎮火社が設立された。その鎮火社には遠州 ― 今の静岡 ― の秋葉大権現の分霊を祀った。ここから 秋葉の原→秋葉原 という地名が発生している)
■神田の卸売市場が移転するのに56年
その後、明治9年には神田多町市場が火事で消失するといったことまであったようですが、引き続き神田市場も日本橋魚市場も営業を続けます。
〔明治17年(1884年)〕
<゜。゜> 東京府知事・芳川顕正:「東京市区改正だ。まずは中心地区の日本橋や神田から一新する。市場移転は当然だ」
< ‘ヘ’ > 内務卿・山県有朋:「財政上の理由で却下!」
〔明治21年(1888年)3月、8月〕
<゜。゜> 政府:「東京市区改正条例案ができた。もちろん市場は移転せよ」
< ‘ヘ’ > 元老院:「廃案!」
<゜。゜> 政府:「もう一回、条例案出したる。元老院なんぞ無視じゃ!」
〔明治22年(1889年)〕
<゜。゜> 政府:「内務大臣訓令を出したぞ。決定だ。10年以内に移転せよ。移転費用は自前で持て」
< ‘ヘ’ > 市場関係者:「やだ! 200年以上も営んでいる場所を、しかも自分で費用負担して引き払えだと? ありえない!」
〔明治23年(1890年)〕
<゜。゜> 政府:「この抵抗の様子じゃ10年以内は無理かもしれん。『延期もありうる』とでもしておこう」
この時期、明治23年には上野から鉄道の線路が南に伸び、秋葉原に貨物駅が開かれました。24年には東北本線が青森まで全面開通。それまで主に船便で集荷または出荷されていた神田市場でしたが、ここで鉄道と船の両方が交わる交通の要所となります。多町から秋葉原への移転も、それを前提とした計画として進められたようです。
■移転期限延長の連続
さらに続きます。
〔明治32年(1899年)〕
<゜。゜> 政府:「10年の期限が来たぞ」
< ‘ヘ’ > 市場関係者:「知らんがな!」
<゜。゜> 政府:「5年延長してやろう」
その4年後の明治36年、東京市会は内務大臣向けに「市場移転廃止に関する意見書」なんぞというもの提出しているようです。
〔明治37年(1904年)〕
<゜。゜> 政府:「5年の期限が来たぞ」
< ‘ヘ’ > 市場関係者:「知らんがな!」
<゜。゜> 政府:「仕方ない、さらに5年延長してやろう」
〔明治43年(1910年)〕
<゜。゜> 政府:「もう期限は過ぎとる。移転する気はないのか~」
< ‘ヘ’ > 市場関係者:「ない!」
<゜。゜> 政府:「もう3年だけ延長してやろう」
面白いのは、この時の移転派、移転反対派どちらの言い分にも「衛生問題」が持ち出されていることです。移転派は「今のような状態じゃ衛生的に問題がある」。反対派は「衛生的な問題は施設を改良すればよいことだ」。まるで、現在の築地→豊洲移転問題の議論が100年前から続いているかのようです。
しかしこの間、日清戦争(1894)と日露戦争(1904)を経て、明治後期になると神田市場に集まる青果物はかなり増大し、市場の手狭感は強くなったようです。そして第一次世界大戦(1914-大正3年)の時期には水上輸送が減り、鉄道輸送が主力となるに至ります(このあたりの数字が本書に資料として掲載されている)。この時期になっても、市街地の中心に卸売市場が開かれているというのは、さすがに不自然とされるようになっていったようです。
・明治36年(1903年):万世橋が鉄橋となって新たに開通
・明治41年(1908年):昌平橋停車場(仮駅)開業
・明治45年(1912年):万世橋駅、東京のターミナルとして開業
(参考記事:「交通博物館閉館」)
・大正3年(1914年):東京駅開業(万世橋駅は単なる途中駅になった)
■市場法と関東大震災が市場移転を促した
第一次大戦戦後すぐの大正6年から7年に強烈なインフレーションが起こり、その後全国で米騒動が勃発します。この時期は、卸売市場は儲かって仕方がない業者も少なくなかったのでしょう。卸売業者にとっては一種のバブル景気だったのかもしれません。しかしこれを一つの契機として経済統制の方向が強まり、大正12年(1923年)に「中央卸売市場法」が成立します。
この「市場法」は物価安定策の一環という大目標があったわけですが、一方では言うことを聞かない卸売市場をなんとかコントロールしようという狙いもあったとのこと。本書によると、この法律は「市場を統制すること、特に神田市場の勢力をさくこと」を目的としたものだったとされています。政治的な側面から神田多町市場が制限を受けるとともに、同じこの年の9月、関東大震災で市場設備が壊滅的被害を受けるわけです。
これらがその6年後、昭和3年(1928年)の新しい神田市場への移転につながる決定打となったといえそうです。日本橋の魚市場についても、震災被害が決め手となって翌年に築地市場建設が議決されます。途中、芝浦の仮設市場を経由するなど時間はかかったものの、なし崩し的に日本橋の市場はなくなり、昭和10年(1935年)開場の築地市場へ受け継がれることになります。
■経済的メカニズムと為政者の意思決定
市場移転といっても、日本橋はともかく神田については多町から目と鼻の先の秋葉原に移動するだけです。たったそれだけで60年近くの年月がかかってしまっているのは驚かされます。わかるのは、
・こと食料品の流通機構については、お上の強権だけで問題は決して解決しないこと
・かといって市場関係者にとっても、物流などを含めた経済的メカニズムを無視して既得権益を守ることができないこと
・(良し悪しはともかく)悲しいかな、火事や震災などの災害がこうした大規模施設移転の重要なきっかけとなること
でしょうか。
今の築地→豊洲移転問題についても、無理やりこれらになぞらえて言えば、次のような仮説が成り立つかもしれません。
・たった1人の都知事の判断で市場移転の意思決定が決定的に左右されることはたぶんなく、いろいろな関係者の合意によってのみ移転は実現すること(移転のスピードは変わるかもしれませんが)
・移転の成否は経済状況に大きく依存すること。現代はすでに卸売市場が唯一の青果・鮮魚流通チャネルではないだけに、希望的観測(計画経済的な思想)だけで将来の卸売市場の経済規模を推し量ることはできないでしょう
・(問題のある言い方だと思いますが)次の東京大震災がいつくるかで、移転問題も豊洲新市場の成否も左右されるであろうこと。どう転んでもリスクがとれるよう考えておくのがよさそうです
大変無責任な感想を許してもらえば、
・豊洲移転を含めた市場の計画の内容は、いろいろなバリエーションを早めに練っておくのがよさそう
・でも、実際の移転は無理に急ぐ必要はまったくなく、柿が熟して落ちるのを待つ姿勢でよいのではないか
なんてことを、本書を読みながら感じました。
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本書の情報量は膨大なので、“つまみ食い”したような読み方をしているだけです。短くまとめようと思っていたのですが、神田市場の移転についてだけでもずいぶん長くなってしまいました。この本に関連して、引き続き記事を書く予定です。