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「NASAを築いた人と技術」

大規模組織の内部に切り込んだ、一種のマネジメント事例として読みました。NASAといっても構成するセンターごとに生い立ちも組織文化も違うなど、興味深い記述があります。一般の組織運営でも役立つヒントが多数あるのではないでしょうか。

本書付録の組織図
〔本書付録にある詳細な「組織図」(有人宇宙船センター)。クリス・クラフトなどの名が見える〕
【佐藤靖(著)、2007年刊、東京大学出版会】

■天下のNASAだって、ただの人の集まりじゃないかっ
本サイトでは、これまでも宇宙機関に関連する話題を組織・人事的な視点から記事にしてきました(月の記憶ドラゴンフライ-1同-2同-3日本企業はNASAの危機管理に学べなど)。本書は、まさにNASAという組織の分析がテーマです。ただし現在のNASAの話でなく、1950年代後半から1970年くらいまでのアポロに代表される時代が対象です。副題は「巨大システム開発の技術文化」。

遠くからNASAのような組織をぼやっとみている限りでは、一枚板の強固でシステマチックな組織だと思えてしまいます。しかし本書ではまず、NASAを構成する各センター間に相違があることが明確にされています。さらに、ワシントンのNASA本部から持ち込まれる技術手法や送り込まれる管理者が各センターと盛んに軋轢をもたらし、時に変化し、時に挫折する様が丁寧に描かれています。

ようするにNASAといえども、我々の身近にころがっているそこらの会社と同じ未成熟な組織に過ぎないのでしょう。歴史的事実を示して説明されることで、そんな当たり前のことに今さらながら気付かされます。

本書の第1章から第4章で、NASAの4つの異なるセンター(マーシャル宇宙飛行センター、有人宇宙船センター、ジェット推進研究所、ゴダード宇宙飛行センター)についてまとめられています。第5章は日本の宇宙開発機関の話題です。

〔目次〕
序章 未踏技術への陣容
第1章 フォン・ブラウンのチーム学
第2章 アポロ宇宙飛行船開発
第3章 大学人の誇りと試練
第4章 科学者たちの選択
第5章 人間志向の技術文化
終章 システム工学の意味

■あちこちで反発を浴びる「システム工学」
第1章を単純化してみると…
・ロケット技術者の第一人者でありマーシャル宇宙飛行センターをまとめるリーダーとしても長けた能力を持つヴェルナー・フォン・ブラウンらが、
・NASA本部から持ち込まれる「システム工学」の考え方と対峙し、時に猛反発しながらも、
・フォン・ブラウンの卓越した判断力とチームの団結力を背景に、サターンV型ロケット(アポロ打ち上げに使ったロケット)開発プロジェクトを大成功させる。
・ただしフォン・ブラウンが退いた後は、予算縮小の波の中でチームは縮小(消滅?)していく。

第2章については…
・有人宇宙船センターは、ロバート・ギルルース、クリス・クラフトといったリーダーの下で“徒党的”ともいえる組織に成長していたが、
・NASA本部から送り込まれたジョセフ・シェイによって、(それまでとは水と油のような考え方である)システム工学の手法がもたらされ、
・既存メンバーと頻繁に衝突しながらも、有人宇宙飛行のための業務体系化に成功していく。
・アポロ1号火災事故を機にシェイが去ったこともあり、「人的解決」も「システム工学的解決」の要素も持ち合わせた組織作りが進み、アポロの成功につながっていく。

うーむ、概略としては少し下手なまとめ方だったかもしれません。詳細はぜひ本書を読んでみてください。リファレンスが非常に充実していますので、英語の資料にあたることができる方は、もっとずっと多彩な情報にたどり着くかもしれません。他の章でも、それぞれ興味深い記述があります。

■「属人的なノウハウ」と「脱人格化したシステム」
我々もいろいろなチームやプロジェクトに関わっていると、仕事の進め方で大きな違いがあることを経験します。特定の人のリーダーシップに引っ張られるチーム、仲間内ではツーカーで自動的に意図が伝達し事がうまく運ばれるチーム、常に細かく明示的なドキュメントを作ってそれを軸に仕事を進行させるチーム…。チームの仕事の運び方を認識していないと、実力のある人でも全然役に立たなかったり、険悪なチーム構成になってしまったりします。

それでいて、特定の組織文化に染まったメンバーだけで仕事を続け異分子の参加を避けていると、組織そのものが衰退したり、大きな失敗につながったりします。某老舗食品会社の製造日偽装事件など名の知れた企業の不祥事がここのところ次々明らかになっていますが、外部からの異分子が経営に参画していればもっと早く手を打てた事例かもしれません。あるいは異分子にあたる存在が、昨今の事件発覚(ひいては正常化)に一役買っているのかもしれません。

また、プロジェクトの初期に取り決めた仕様や契約がいつのまにか変わっていくことはままあります。状況変化に柔軟に対応できる人がいたからこそ成功したプロジェクト、きっちりドキュメントをまとめることをしなかったために崩壊したプロジェクト、各人の責任範囲を明確化した故に相互補完できず特定の人にしわ寄せがいったプロジェクト…。本書を読みながら、自分の過去の失敗が思い浮かんでくることもありました。

「経営はアートかサイエンスか」は長く議論されているテーマです。本書で使っている用語と少し意味が違うかもしれないことを承知で単純な表現をすると、
「属人的(≒アート的)手法」と「脱人格的(≒サイエンス的)手法」の衝突
が本書の重要な視点といえそうです。

本書については、宇宙開発の分野で有名な技術ジャーナリスト、松浦晋也氏のblogでも紹介されています。ご参考まで。
「NASAを築いた人と技術 巨大システム開発の技術文化」

コンビニ 7-新業態店の撤退とその後

昨年から今年にかけてコンビニの新型店舗が次々に開店していましたが、そのうちのいくつかが相次いで閉店してしまいました。もともと実験的で早期の撤退が予想できたものもありましたが、やはり“屍累々”といった様子です。

CVS閉店写真
〔撤退したCVSや近隣業態の店舗〕

■店先に「閉店のお知らせ」
飽和したといわれるコンビニ業界では、少し前から新業態の開発に躍起になってきました。ローソン、サンクス、am/pmなど、それぞれ昨年の間に新型店をいくつも開店しています。大きく分けて

・女性向けコンセプトの店舗
・生鮮100円ショップ型の店舗

があることを、本サイトでも「コンビニ 1-新業態、増える」「コンビニ 2-付加価値型の“実験店”」「コンビニ 3-生鮮品揃えと均一価格」と記事をまとめました。また、近隣業態からのコンビニに近い店舗進出も目立ちました(コンビニ 5-低くなった業界の垣根)。

これらのうちいくつかが、すでに撤退してしまいました。もともと実験店舗、つまり新しいチャレンジとしての位置付けのものも少なくないのですぐ変化するだろうとは思いましたが、やはり時間の流れは速いようです。

→am/pmが開いた女性向けコンビニとして注目された「HAPPILY(ハピリィ)」は、07年5月末に閉店
→同じくam/pmの生鮮型100円ショップ「FoodStyle」は、エリアフランチャイズ制をとっている広島の数店を除き07年夏にほとんど撤退
→ローソンの「ナチュラルローソン ベーカリー」は07年8月末に閉店
→ドンキホーテの「パワーコンビニ 情熱空間」5店舗は07年10月10日に閉店
といった有様です(写真)。

■客層が絞られすぎた
「HAPPILY」は当初から相当苦戦したようです。当初の24時間営業から、夜間は閉店に変えるなど工夫した様子もありました。店の狙いを絞るとしても、結局は顧客が絞られたことで売上減を招いたとの見方が一般的です。多店舗化の構想があえなく挫折した事例といえます。

am/pmについては、生鮮100円ショップ型の「FoodStyle」も撤退しました。他社ではそこそこ商圏に根付いているようにも見える“生鮮型コンビニ”ですが、am/pmは真っ先にあきらめたことになります。アドバンテッジパートナーズという投資会社出身の経営者が就任したこともあり、過去の投資が見直されているのは自然なことでしょう。

最も先鋭的に新業態店のチャレンジをしているローソンについては、はじめから試行錯誤の意図があるのでしょう。銀座の「ナチュラルローソン ベーカリー」は実験店と位置付けされていましたので、ひっそりと閉店しても、まぁ別に驚きません(すぐ近くの「ナチュラルローソン」は営業を続けています)。開店時と違い、閉店時にはニュースリリースの一つもありません…

日本橋にあった「ハッピーローソン」については、そもそも日本橋の土地利用が期間限定だったこともあり、計画とおり半年で閉店。そのかわり、入れ替わりで横浜にハッピーローソン山下公園店がオープンしています。

「パワーコンビニ 情熱空間」は、外からの参入組として一時かなり注目されたドンキホーテの事業でしたが、続きませんでした。開店していた期間は最も古い渋谷西原店でも1年2カ月。最も新しかった八王子横山町店は半年経っていません。正直、以前渋谷西原店を訪れたときの、広い割に閑散とした店内の様子を思い起こすと、さもありなんと思います。

ドンキホーテのニュースリリースによると「異なる業態を同時に推し進めるのではなく、経営資源を集中すべきとの結論」とのこと。閉店のニュースリリースを出している分、ひっそり閉店していくより潔いかもしれません。

■失敗の中から学ぶ?
以前の記事でも触れましたが、Shop99を展開している九九プラスはローソンの傘下に入りました。ローソンストア100はその関係で出展方法を見直し。Shop99といずれ運営形態が近づいていくのでしょう。“力ずく”による一番手確保かもしれませんが、いちおうは勝ち組としてよいのでしょうか。

新業態のチャレンジ失敗も、業界全体としてみると良い経験なのでしょう。事業ですから、失敗を繰り返してレベルも上がっていくことと、前向きに捉えたい所です。

最大手のセブンイレブンと(それに次ぐ?)ファミリーマートは新業態に目もくれていない様子ですが、基本型店舗の充実の延長で、各社の失敗、成功を取り入れようとしていることでしょう。

基本的には、中央集権的な考え方から個店の個性尊重の考え方に少しずつ変化しているように見えますが、本当のところまだよくわかりません。少し前までどのコンビニでも売っていたお気に入りの商品だったのに、あるときからぱったり、どのコンビニに行っても売っていない… そんなことがよくあります。なかなか個店尊重は遠そうな気がします。

非関税障壁か、守るべき制度か(「築地」その3)

日本の流通システムは、かねてから閉鎖的と外部から指摘されてきました。しかし少なくとも生鮮品の流通に関しては、ローカルな制度が将来的にも高い価値を持ち続けるであろうことを、この本が示唆しているように思えます。

築地の挿絵
「築地」(挿絵)

テオドル・ベスター氏の著書についての話、「築地」「築地」その2の続きです。

■意図しない“非関税障壁”
またしても築地市場とは少し離れた話ですが、一昔前(1995年くらいまで)の日本のパソコン市場は、今と違って世界標準規格から逸脱した構造の商品が市場のほとんどを占めていました。なかでもNEC「PC-9800シリーズ」がその最大手で、国内でパソコンをまともな業務に使うには「98」以外の選択肢はなかったようなものでした。一方、日本を除くほぼすべての国では基本的に「IBM互換」タイプのパソコンが使われていました(さらに余談ですが、現在は携帯電話がこの状態―いわゆる「ガラパゴス化」―にあるようですね)。

その時代、海外(欧米やアジア)のパソコン業界関係者と話をしたときにときどき出てきた質問がありました。

「なぜ日本は世界標準に従わない? わざわざ独自の仕様を守り外国企業を締め出している。非関税障壁ではないか」

質問というより糾弾に近いニュアンスを含んでいたことを覚えています。そしてこの言葉の裏には、パソコンだけでなく、日本市場全般の閉鎖性に対する不信感があったととらえています。

日本のパソコン利用者という立場からすると、「わざと独自仕様を守る」意識など誰にもなく、ましてや国全体が一つの意思を持って外資の侵入を防いでいたというものでは決してありません。要因を列挙すれば、次のようになるでしょうか。

(1) IBM互換機の規格だけでは日本語処理機能(2バイト文字の扱いなど)が十分でなく、どうしても小手先の対応ではない、高いレベルでローカライズをする必要性があった
(2) メーカーも流通業者も、日本市場の特殊性やローカル色のある取引形態に対応することが商売上なにより有利だった
(3) 日本の主な電機メーカーは、(あえて海外の規格を持ってこなくても)独自規格と独自の商品を作り出すだけの実力があった
(4) ある時点で「98」がソフト資産を十分に蓄えてしまい、乗換えが難しくなった

その後パソコンの性能向上その他さまざまな条件が変化し、今は状況が完全に転換しました。「98」は姿を消しました。「IBM互換」という言葉さえ消滅したように、現在日本を含めた世界全域で使われているパソコンは、ほぼ共通したデファクト・スタンダードに沿った構造になっています(Macintoshは違うけど)。

そのほかさまざまな業種で、過去にあった非関税障壁はとりはらわれるか、少なくとも低いものとなってきました。金融、会計、その他の分野にまたがり閉鎖性が薄まってきたのが、1990年代後半から2000年代前半だったと認識しています。

■腐った魚は買い叩く!
この観点だけから見れば、築地のような生鮮品の流通機構は、外部からなかなか食い込めない閉鎖性を今でも持っていて、いずれなくなるべき対象といえなくありません。もし将来、卸売市場の制度が大きく変わり、強い外資ファンドが「築地」を乗っ取ろうとでもしたら、いったいどんな影響があるでしょう。

「未だに日本の流通システムは“変革すべき対象”なのだ」
「官営で市場を守るなど時代遅れだ」
「中にいる卸売業者も中卸業者も、自ら変わろうとする意思が弱い」
「旧来のやり方にこだわり、市場移転を何が何でも反対する勢力がいる」
「そんな腐った流通システムを買い叩く! 買い叩く! 買い叩く! 」(ドラマ「ハゲタカ」風……)

買い叩くのは「腐った魚」だけにしてください、とか言いたくなるかもしれません(笑)。

本書の著者も、築地を研究対象とした背景に次のような問題意識があったようです(少し意訳して表現)。
→政府の規制と政治的圧力が日本の独特な流通システムの原因と見る一派は、日本は故意に閉鎖経済を行っていると見ている
→日本経済は、その社会的・文化的生活の特性をなお保持しており、これは一夜にして消えるとは思われないと(その一派は)見ている
→本当なのか、その解を探りたい

■外部の変化が築地を消し去ることはない
日本の卸売市場システムの閉鎖性についても、かつてのパソコン市場と同様、「独自仕様を守る」という意識が先に立って出来上がったわけではないはずです。著者の問題意識から、本書のあちこちにその答が書かれていることを実感します(以下、パソコンの話の(1)~(4)と対応させて表現)。

(1′) 魚の食べ方や嗜好性には日本文化独自のこだわりがあるので、どうしても小手先の対応ではない、高いレベルで日本の食生活に対応した加工処理をする必要がある
…本書第4章「生ものと火を通したものと」などから納得できる。
(2′) 生産者も卸売業者も中卸業者も小売業者も、相互の特殊な取引ニーズに対応できることが商売上なによりも有利である
…縦横に編み上げられた「関係性」が強力すぎるということか
(3′) 築地の卸売人たちは、(あえて海外の取引システムを持ってこなくても)きめ細かい取引システムを自ら生み出せる資質があった
…著者は「築地は高度に秩序のとれた場所」と評している
(4′) ある時点で卸売市場のシステムが確立してしまい、乗換えが難しくなった
…これについては、市場法など中央集権的な政策が一役買っている

結論的に、築地魚河岸は一見伏魔殿のようでいても、
・開発途上国のバザールのようなものと異なるシステム性がある
・マグドナルドのようなシステムとも全く異質のシステムである
・決して非合理的というわけではなく、むしろ高度なものである
・だから、外部の変化が築地の社会的構造をきれいさっぱり消し去ることはないだろう
と著者は表現しています。

■築地移転問題にも一矢
他のブログや雑誌にある本書の書評に「それみろ、外国人だって築地の優秀さに言及している。だから築地の豊洲移転に絶対反対すべきなのだ」といった方向で感想が書かれているものをいくつか目にしました。本書に書かれている築地文化の“価値”が、移転反対派を勇気付けていると推測されます。

しかし、本書が築地移転反対論者の“バイブル”になるとも思えません。その理由は次のような点にあります。

・本書には“築地”の「功」は見事に描かれていても「罪」についてはわずかしか触れていない。「功」の部分だけを過大評価できない(前回記事の末尾参照)
・“築地”を成立させている文化的背景が堅固なものならば、それは豊洲に移転しても確実に受け継がれるはず(外部の変化が築地を消し去ることはない)
・素晴らしい仕組みがあったとしても、時には時代の変化に沿うように積極的に壊さなければ次に進めなくなるものもある(パソコン「98」のように…)

市場が移転しても移転しなくても、長期的に見るとどちらでもたいした違いではない気もします。

とりあえず、テオドル・ベスター著「築地」の書評(+α)はこれでおしまい。

日本的企業関係の生きた見本(「築地」その2)

築地の取引ネットワークは、上下左右に結ばれる市場のさまざまな関係性に支えられています。かつての縦の“ケイレツ”と横の同業者組合が織り成す日本産業界の特徴的サンプルが生きたまま現存しているかのようです。


〔水産物と自動車、それぞれ縦横の関係〕

テオドル・ベスター著「築地」(前記事参照)には、市場の関係性が具体的な事象から詳しく書かれています。たとえば卸→仲卸→買出人という縦の取引が日々繰り返されること。ここには有形無形の企業系列関係があること。加えて、たとえば多数の仲卸の間での競争と役割分担、さらには資本関係、姻戚関係作りといった横の交流が繰り返されること。そこに強い共同体意識が生まれたり消えたりすることなどが描かれています。

■各自動車会社が一工場の復活で助け合い?
突然話が変わるようですが、2007年7月に発生した中越沖地震で、新潟県柏崎にある自動車部品メーカー「リケン」の工場が被害を受けたことが大きなニュースになりました。リケンの部品を使っている自動車会社が揃って一時的な生産停止を強いられるなど、自動車産業全体に影響を与えました。

この件で、日本の自動車メーカー各社がリケンに人員を派遣し復旧に努めているという話を、関係者の方から聞きました。工場の復興支援に集まった人員は総勢数100人(?)だとか。リケンに自社の社員まで派遣する義務は本来ないし、あらかじめ支援策が準備できていたわけなどありません。なのに、工場の生産設備を1日も早く稼動させるためにこんな“共同プロジェクト”が突如できあがっていくとは、本当に驚きです。

もちろん、各自動車メーカーからすると、リケンという部品メーカーに有形無形の支援をすることで(主要な部品を優先してまわしてもらえるなど)結局は自社の利益を得られることを確信しているわけです。ライバルである他の自動車メーカーとは、なかには直接的な利害の衝突もあるのでしょうが、どちらかというと業界全体に関わる運命共同体的な関係が優先されていきます。

一方、自動車に限らず、かつて日本の産業を支えたといわれる企業系列が、一部新しい形で復活してきているといわれています。古い日本経済のケイレツ関係は「閉鎖的」「自己完結的」で、誤解を恐れずに言えば「醜い」ものだったと認識しています。でもバブル崩壊後、ケイレツは徐々に衰退しもっとグローバルで開放的な取引関係に変化していきました。だからといって企業系列的関係がなくなったわけではもちろんありませんし、技術やシステムを媒介とした新たな形のケイレツが現れているのは自然なことでしょう。

■「彼らのビジネスは頭の中と接触先に存在する」
結局は、冒頭の図に示したように、築地の水産物流通も、日本の自動車生産・流通も、複雑な縦横のネットワークが、“日本的文化の素地の元に”同じように縫い上げられていると感じます。本書に「ある日築地で火事が発生し、一部の仲卸店舗が焼けた。しかし縦横の関係者がいろいろな形で被災者を支援し、そのおかげで非常に短期間(例えば翌日)にも営業を再開し、その後まるで火事などなかったかのように日常業務が復活していた」といった事例が書かれています。リケン柏崎工場の被災復旧とイメージが重なります。

「取引関係の精巧な社会構造によって(火事などがあっても)立ち直ることができる。彼らのビジネスは頭の中と接触先に存在する」。そんな商人が“本当に”守りたいもの、絶対に失いたくないものとは、店舗という場所や物理的な資産ではなく、「特定の社会的コンテクストにおける自分の居場所なのである」と著者が表現していることに、なるほどと思います。これから連想すれば、リケンの工場復旧に他社がこぞって人を投入することができる背景にも合点がいくような気がします。

■一見非合理な流通システムも
概して日本の流通システムは、中間に入る卸業者が多く複雑で、そのために経済的な無駄があると信じられてきました。卸売市場の形態は、一見まさにその代表例です。生鮮食品の流通をぼんやりとしか認識していないと、卸売市場の非合理性は「悪の巣窟」のように映るかもしれません。

おそらく江戸時代から明治期までの卸売市場は、垂直統合の色合いも濃く、株仲間に代表される同業者組合としての掟ももっと厳しかったことでしょう。市場という限られた空間と権利を関係者が“ギルド”的に分け合い、その利権を上流(生産者)から下流(小売店)まで垂直につなぎ合わせる“ケイレツ”があったのでしょう。

しかしそれはにわかに捨ててよいものではなく、中長期的に見た合理性も内部に隠されていたわけです。さまざまな市場関係者が苦心して積み上げたり、壊したりしてきたことでしょう。その歴史の上に成り立っている現代築地の魅力的な姿を、当事者ではない我々読者が本書を通じて少しでも垣間見ることができることに、幸運を感じずにはいられません。

あえてそんな本書に少しだけ注文をつけるなら、築地システムの「功」と「罪」のうち、「罪」についてはほんの少ししか触れていない点でしょうか。背景にある文化や歴史や特性のプラスの部分は全編にわたって書かれていますが、本当に非合理なところとか、醜い悪習とかマイナス面についての記述はわずかです。このあたりもう少し分析してくれないかな、などと思うのは贅沢な注文でしょうか。

テオドル・ベスター著「築地」

築地魚河岸のことを一般の人が理解するために適した書籍といえるでしょう。公式の資料や説明書では埋もれてしまって見えない、中央卸売市場の日常やシステムについて、実に読みやすく書かれています。

つきじ
「築地」
【テオドル・ベスター(著)、2007年刊、木楽舎】

■著者の情報整理力
今年になって発刊された話題の本の一冊で、本当に興味深い本です。内容もそうですが、何といっても著者の情報整理能力に驚嘆します。

築地もしくは卸売市場システムというものは、喩えてみればジグソウパズルのようなもので、あれこれ関連資料を読んでみても複雑で今ひとつピンとこない場合が多いものです。特に公式の資料は、読み手におもねるほど平易な書き方をしていてさえも、結局わかったようなわからないような、隔靴掻痒の説明しかなかったりします。一方日常的に市場内で生きている人たちの言葉は、実感がこもって生き生きしているとはいえ、どうしても部分的なものになりやすく、ジグソウパズル全体のなかのどこに当てはまるピースを言っているのか、すぐにわかるとは限りません。

築地をはじめ日本の卸売市場システムについての説明は、「説明のしようがない」のではなくて、「説明のしようがありすぎて」かえって理解しがたい対象になってしまっているのではないかと思っています。ヒトやモノや土地や制度や法律や慣習…、などがそれぞれ関係性を持ちすぎているから、丁寧に説明しようとすればするほど、テーマがこんがらがってしまってわからなくなる。混沌とした説明を繰り返し浴び続けることで、やっとようやくぼやっとした全体像が見えてくる。そんな印象を持ちます。

ところがこの本の著者は、その“複雑すぎる関係性”を実にスマートに、かつ本質的な要素をわかりやすく説明しているような気がします。章単位で「軸」があり、その軸に沿って見事な解説をすることに成功していると思うのです。

〔目次〕
第1章 東京の台所
第2章 掘られた溝
第3章 埋立地が築地市場に変わるまで
第4章 生ものと火を通したものと
第5章 見える手
第6章 家族企業
第7章 取引の舞台
第8章 丸

■文化人類学者としての興味深い視点
たとえば「築地の1日は誰がどのように活動しているのか」を手っ取り早く、かつ的確に理解するためには、おそらく他のどの書よりも本書第2章を読むのがよさそうです。

「築地の過去、その前身である日本橋魚河岸、卸売市場の歴史」を江戸時代初期にさかのぼって手っ取り早く、かつ的確に理解するためには、他のどの書よりも本書第3章を読むのがよいかもしれません。

第4章では、魚をはじめとした動物に対する文化的な違いについて言及しています。鯨やイルカを擬人化する米国人の感覚に対する、鯉が食用にも高価な観賞用にもなる日本人の感覚など、生物の本質的性格とは関係のない「動物たちを想像しカテゴリー分けする方法」が国により違うのだということには納得させられます。そしてそれが日本の魚河岸の性格にもはっきり影響していることなど、著者の(経済学者でない)文化人類学者らしい記述がもっとも顕著に記されている章かもしれません。

そして卸売市場の主役の一人である「卸売業者」の話が第5章。もう一人の主役で同じ流通業でありながら卸売業者と相当に異なる「中卸業者」の話が第6章。制度の話が第7章。このあたりが本書で中心となる章でしょうか。そして“筆者なりの民族学的結論”が第8章、という具合です。

卸売市場、なかでも特に魚市場という非常に限られた範囲に対象を絞って解説された本ではありますが、読んでいくと他業界の仕組みや特質にも当てはまる事情が浮かんできます。日本経済に関連して永らく疑問だったことが、本書から突然納得できてしまうなんてこともありました。「文化」に根ざした視点からの説明があるからでしょうか。

本書の書評は他に多数あると思います。本サイトでは書評というより、少し本書に関連する話題について話を続けたいと思っています。

▽追加記事:
日本的企業関係の生きた見本(「築地」その2)
非関税障壁か、守るべき制度か(「築地」その3)