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起業のいま、むかし(「企業診断」特集より)

1990年前後から現在までの労働環境・起業環境の変化をまとめた記事を「企業診断」2007年8月号に書かせていただきました。就職氷河期といわれる間に社会に出た世代が直面した過去と今後を概括することが主テーマです。

企業診断記事図2
【契約社員という就業形態を選択した理由】

※厚生労働省「就業形態の多様化に関する総合実態調査」より内容の一部を抜粋。グラフ化した項目や表題などの表現にはかなり編集を加えています。注釈は後述

■20代後半から30代前半の世代に向けて
タイトルは「起業のいま、むかし ― 起業環境の変化とロストジェネレーション世代の出現」。「企業診断」は同友館発行の月刊誌です。今回の特集「起業新時代 ロストジェネレーションたちのいま」で、総論にあたる部分を当社松山が担当しました。

現在20代後半から30代前半、いわゆる就職氷河期の間に社会に出た世代のことを「ロストジェネレーション」と呼ぶそうです。彼ら彼女らが“起業”を目指すときの指針となる統計的裏づけや、すでに起業した同世代の人たちの想いを紹介する特集になっています。縁あって、その世代より一回り上の年代にあたる私が、いわば“エール”を送る格好になりました。

あらためてバブル時代からの労働環境を整理してみると、なかなか面白いデータに突き当たるものです。

冒頭のグラフ(厚生労働省関連の調査)は記事中のグラフを抜粋し表現を変えたものです。これをみると、たとえば1994年調査では「自分の都合の良い時間に働けるから(正社員でなく)契約社員となった」という意味の答えを選んだ割合が、1999年調査や2003年調査に比べてかなり高くなっています。一方、「正社員にはなれなかったから(しかたがなく)契約社員になった」というネガティブな答えは、1994年調査ではその後と比べてかなり割合が低くなっています。

1990年代前半というと、それまでの日本的労働環境が若者の働く意識に“本当に”合わなくなってきたころだと認識しています。「終身雇用や年功序列に縛られた企業の正社員より、もっと柔軟な働き方を望んでいる」。多様な中小ベンチャー企業はともかく、大企業にもそんな風潮が影響し始め、保守的な労働システムがすこしづつ変化をはじめた時期といってよいのではないでしょうか。

また現在は非正規雇用が増えたことが“問題視”されていますが、少なくともバブルの余波が残っていたその頃、「正社員からのスピンアウト」はもう少し肯定的に捉えていたようにも思えます。しかしバブル後の長期の不況がそれを簡単に許さなかったのかもしれません。そんなこんなの“働き方の事情”を記事としてまとめさせてもらいました。

※冒頭のグラフについての注釈
出展は、厚生労働省「就業形態の多様化に関する総合実態調査」(労働政策研究・研修機構(JILPT)「労働政策研究報告書No.68」)です。記事中で元の統計データのごく一部のみを抜粋してグラフ化していますが、上記グラフはさらにそれを抜粋し、さらにタイトルも少し意訳し、見せ方(表現方法)も変更したものです。しかも、
・調査は複数回答
・選択肢はグラフに挙げた5項目以外にも多数ある
・各年の選択肢数や表現が異なる
といった事情があり、厳密には数値の推移を比較できないものといえます。ここではあくまでも傾向を“ざっくりと”紹介しているに過ぎないことをご了承ください。

■起業に向かう活力
前々回前回の当ブログの記事で、成果主義や長期雇用に関連したJILPTの統計データをご紹介しましたが、それらも今回の記事執筆に関連しています。今回ご紹介した統計データについても、正確で詳細な内容については元の出典を参照されてください。

「企業診断」の特集については、私の担当記事部分の見出しは次のとおりです。

1 日本の労働環境と企業の労働政策
(1) バブル前後の労働環境
1-1 ロストジェネレーションの位置づけ
1-2 非正規雇用を求めた新入社員
1-3 若手が望んだ労働環境の変化
(2) 企業の政策
2-1 中途半端だった人事政策
2-2 若手世代はワリを食った?
2 起業の歴史と若手の起業意識
(1) 起業意識
1-1 起業家年齢の上昇とLG世代
1-2 起業のタイプ別考察
1-3 起業に向かう活力
(2) 現代の起業環境
2-1 恵まれているか? 現代の起業家
2-2 「失われた世代」の強み

私の記事のほか、実際の起業家たちに対するインタビューが「若き起業家たちの群像」「ロストジェネレーションへの伝言」というタイトルで計6稿まとめられています。大上段に振りかざした起業論ではなく、身近な立場から起業について語られています。ご興味のある方はぜひ記事を読んで「起業に向かう活力」を感じてみてください。

成果主義導入と賃金格差(JILPT調査より)

多くの企業で成果主義の導入はやはり必要なのだろうと思われます。日本で2000年以降に導入された成果主義のシステムは、1990年代と比べ“マイルドな成果主義”となる傾向がみられるそうです。

成果主義導入と賃金格差
【成果主義導入と賃金格差。「変貌する人材マネジメントとガバナンス・経営戦略」(労働政策研究・研修機構、2005年)第2部分析結果をもとに編集】

■成果主義の設計と運用が変化した?
前回の記事で、JILPT(労働政策研究・研修機構)の「長期雇用と成果主義のゆくえ」という調査結果をご紹介しました。調査分析は以前の報告書「変貌する人材マネジメントとガバナンス・経営戦略」(2005年、労働政策研究報告書No.33)ですでに発表されていて、そのなかに成果主義の導入とその影響についての分析が詳しくされていました。少し興味深いところがあったので、再びご紹介します(詳しい内容は労働政策研究・研修機構(JILPT)などから本編をお読みください)。

なお、基となった調査アンケートは2004年に行われたもので、回答企業の全従業員数平均は約1304.4人(正社員数平均は781.8人)です。大企業だけではなく「相対的に規模の小さな中堅企業の実態を明らかにした」とされていますが、そもそも従業員数200人以上の企業しか調査対象にしていません。中小企業ははじめから分析対象外であることを差し引いて数字を認識してください。

成果主義は1992年ころ、バブル崩壊が一時的な景気後退ではないということがはっきり認識されたころから、大手企業でも導入が始まってきました。しかしいくつかの事例ではその後モラールダウンなどを招き、良い結果を生んでいないとされています。

■21世紀になって弾力的な運用がされるようになった
冒頭のグラフは、同書第2部第4章第4-3-3表(1)(p.151)のデータをそのままグラフにしたもので、賃金格差について質問した結果です。横軸の数字は具体的な数ではなく指標です。たとえばグラフの1つ目の項目では、自社の賃金制度が「格差の大きな制度」である割合が高い場合は指標が高くなり「平等な制度」である場合は数値が低くなります。

これらについて、調査では「成果主義を導入している」「成果主義を導入していない」に分け、さらに導入した年が「1999年以前」「2000年以降」で2分したうえで指標を比較しています。前回の記事でも触れたように「成果主義を導入しているとする割合が約60%」です。うち「2000年以降に導入した企業が2/3」とのことですので、割合としては
・1999年以前に導入…20%
・2000年以降に導入…40%
・未導入…40%
ということになります(数字は概数)。

その結果、ほぼ自明のこととして、次のことがグラフに表現されています。

(1)成果主義を導入した企業は、賃金制度において、設計面、運用面いずれも格差が大きくなった

興味深いのは次のような点でしょう(グラフ上数値の違いはわずかですが、分析において統計的に有意な違いがあると結論付けられている)。

(2)2000年以降に成果主義を導入した企業では、それ以前に成果主義を導入した企業に比べて、賃金格差の小さい制度設計をしている
(3)2000年以降に成果主義を導入した企業では、それ以前に成果主義を導入した企業に比べて、実際の運用上の賃金格差が小さい
なおこれらに加えて、
(4)1999年以前に成果主義を導入した企業の賃金制度は懲罰的要素が強い設計となっているのに対し、2000年以降導入は報償的な要素が強くなっている
ような数字が出ています(ただしこの点については検定の結果「仮説は棄却された」=「統計上有意な差はない」と結論付けられています)。

・1999年以前に導入→“過激な成果主義”
・2000年以降に導入→“マイルドな成果主義”
といった性格付けができるかもしれないというわけです。

これらはあくまでも導入年で判断しているため、制度の変化などは明確に数字に現れていないと思います。でもおそらく、成果主義へと考え方が日本企業の性質に合った形へと徐々に変化していることを示しているのではないかと考えられます。成果主義が本格的に導入され始めたのが1990年以降とすれば、(一時期の失敗期を経て?)やっと地に足をつけた制度の導入期に入ったのかと推測しますが、どうでしょうか。

長期雇用と成果主義のゆくえ(JILPT調査より)

いろいろ批判のある「成果主義」ですが、俯瞰してみると日本企業に対してプラスに働いているようです。一方「長期雇用の放棄」は単純に成否を判断できないという報告があります。


【「日本の企業と雇用 ─ 長期雇用と成果主義のゆくえ」(労働政策研究・研修機構、2007年)第2部分析結果をもとに編集】
今回は、成果主義に関する話題提供、サイト紹介、書評を兼ねたような記事です。

■充実した労働経済関連の資料
厚生労働省所轄の独立行政法人労働政策研究・研修機構(JILPT) は、労働関連のデータや報告書を積極的にネット上で公開しています。人事系の調査研究では誰もが一度はここのデータもしくは分析結果を参考にしたことがあるでしょう。俯瞰的(学術的、統計的)なスタンスからテーマを掘り下げた研究結果の場合は経営の実際の(ミクロな)場面にすぐに役立つとは限りませんが、人事・労働に関連する客観的な現状を掴むのに役立ちます。

この6月にも「プロジェクト研究」の成果として、全8冊分の報告書がネット上に公開されました(第I期中期計画プロジェクト研究シリーズ)。うち、「No.5『日本の企業と雇用 ─ 長期雇用と成果主義のゆくえ』」に、成果主義などの現状をアンケートから定量的に分析した分析結果があります。表題のとおり、従来の日本型企業の特色が変化した結果として今どのような状態にあるのかが“数字をもって”示されています。

対象企業は大企業中心、回答者は人事担当者。いわば組織だった会社の「公式見解」のようなものなので、実態と比べて何らかのバイアスがかかっているかもしれません。それでもなかなか興味深い内容なので、少し紹介させてください。

■人材マネジメントの4類型
本調査では、まず
(a) 日本企業がこれまでの年功序列一辺倒の賃金制度(評価制度)を脱し、成果主義を導入したのかどうか
および
(b) 終身雇用に代表される長期雇用の制度を変え、流動化した雇用体制に移行したのかどうか
それぞれに該当する企業の割合を推量しています。

上の説明図は、(a)を横軸、(b)を縦軸にとって、企業を4種類に分類したものです。左上の「J型」は従来の日本企業の典型で、成果主義は未導入(≒年功序列を維持している?)かつ長期雇用を維持している企業で、全体の約30%がここに属するとのこと。右上「NJ型」は成果主義は導入済みだが長期雇用は維持している企業で、約40%と4類型の中で今は最も該当企業数が多いということになっています。左下「DJ型」は成果主義は未導入だが長期雇用はすでに維持していないとされるグループで約10%。右下「A型」は成果主義も導入し長期雇用を前提とした体制からも脱却したグループで、全体の約20%があてはまるとされています。

“4 対 3 対 2 対 1”の割合。なにか日本人の血液型の割合と似たような各類型の比率になっています。数字からは、成果主義導入が意外に進んでいるのに対し、予想外に多くの企業が長期雇用を維持していると説明されています。「この数字、ホントか~?」という声も「まぁ、そんなもんかな~」という声も聞こえてきそうですが、それは置いて…。

■成果主義と雇用流動化が企業に与えた影響とは
ステレオタイプな見方をすれば、かつてはほとんどがJ型だった日本の大企業がNJ型、DJ型、A型へと変化し、枝分かれしたと見ることができます。

ただしDJ型については、企業が好んでこの類型を選んだというより、業績悪化によって人員のリストラをせざるを得なかった(長期雇用を仕方なく捨てた)衰退型だとみなされます。いわば後ろ向きの変化で、実際この類型に入る企業は、「業績は悪化している」ほか「若手育成に手が回らず、職場で協働する雰囲気もない」「社内のモラールは下がり、仕事に対する意欲が低い」という分析結果が数字としてでています。

一方NJ型とA型は、従来の日本型組織体制から変革した状態と位置づけられます。長期雇用を維持しているか放棄しているかの違いで分岐していますが、いずれもJ型(およびDJ型)と比較して業績が良い企業が揃っていると分析されています。どちらかというと大規模な企業がNJ型、小規模な企業がA型になる比率が高いとのことです。

またNJ型とA型では職場の状況にけっこう差があることも明らかになっています。NJ型は、「社内のモラールが上がり、仕事に対する意欲が高い」という良い職場環境が醸成されている一方、少しですが「若手育成に手が回らず、職場で協働する雰囲気もない」という悪い状況も発生しています。A型は、「若手育成に手が回らず、職場で協働する雰囲気もない」とともに「ストレスを訴える社員や自己都合で離職する社員が増加している」という悪い環境が生まれています。

従来の日本型であるJ型の場合は、「若手育成の体制があり、職場で協働する雰囲気もある」とともに、少しだけ「ストレスを訴える社員や自己都合で離職する社員が増加していない」という良い職場環境があるとされています。

■職場環境の代償として業績アップを得たのか?
この調査・分析からあえて直接的な結論を導こうとすれば、次のようになるのでしょう。

・業績を維持しつつ、それなりに良い職場状態(高いモラール)を保ちたいのなら、長期雇用を維持した上で成果主義を導入するのがよい
・「人材育成や社員の相互関係には深く関心を払わない。ストレスもあるし、その仕事がいやなら辞めていい。また別の人を雇うから」というマネジメント方針が掲げられる企業の場合は、その引き換えのように業績アップが見込める
・社内の雰囲気を良い状態を維持しようとする半面、組織体制を積極的に変革する勇気がない企業の場合、高い業績アップは(一般的には)望みにくい。

業績、正規社員の比率、社内で協力し合う雰囲気、ストレスの多寡、モラールの高さといったすべて要素を好ましい状態のまま保つことなど、普通の組織では望むべくもないことです。結局何かを犠牲にして、その代償として経営上重視すべき要素(多くの場合は業績アップ)を選び取る…。それが経営判断というものなのでしょう。

さらにこうした企業の意思決定が、経済・経営環境一般にとってどのような意味があるのか、影響があるのかなどにも言及しています。たとえば、A型のような長期雇用を前提としない人材マネジメント企業が成立するためには、「(企業横断的な)技能形成のシステムが不可欠」であること。しかしその点、現在の日本は「過去からの(人的な)遺産」を利用しているようなもので、そうしたシステムが今は必ずしも成立していない(早晩行き詰る)といった意味の指摘がされています。いろいろ頷かされる指摘ではないでしょうか。

…以上、内容のごく一部をわかりやすく“丸めて”表現したものです。数字は概数で、用語も当方で意識的に置き換えているところがあります。正確な分析内容をじっくり理解したい方は本体を読まれることをお勧めします。もちろんこれ以外にもまだまだ本報告書およびJILPTの各報告書に興味深い調査があります。

変貌する東京湾の埋立地

下の写真は、どこだと思いますか?
と言っても、記事タイトルからほとんど想像がついてしまうかと思いますが。

砂浜

■家族でも遊べる浜辺
一応、前回の記事「かつての市場移転~失敗編」つながりの話題です。

写真は、大井埠頭・大田市場の先、「城南島海浜公園」の砂浜です。羽田空港のわずか1km程度しか離れていない対岸に、都会とは思えないこんな砂浜があります(遊泳は禁止)。交通アクセスが良くないこととさほど有名ではないことから、混雑しすぎてなくのんびりできるでしょう。とはいえ、天気のよい日は家族連れなどで適度に賑わっているようです。スケボー広場やドッグラン(要事前登録)もできました。

前回の記事で書きましたが、以前この辺はとても一般人が立ち入るような場所でなく、テトラポットが無造作にたくさん置かれていた“寂寥の地”でした。つい最近久しぶりにここに足を伸ばしたら、こんな良いところに生まれ変わっているので驚いた次第です。

以上、ごく簡単なご紹介まで。

▽関連情報
城南島海浜公園

かつての市場移転~失敗編

移転問題がくすぶる築地中央卸売市場ですが、築地移転は昭和30年代からすでに画策されていました。移転を阻止した立役者は、東京湾に棲みついた“野鳥たち”です。不思議なめぐり合わせがあったようです。

大田市場地図a
〔大田市場が計画された当初の予定地の簡略図。広い大井埠頭埋立地の最南端部分のみの地図(※1)〕

(※1 予定地北側の「国鉄用地」は、後の鉄道貨物ターミナルおよび新幹線車庫。運河をはさんで南側の「京浜島」や東側の「城南島」という名前は後に付けられたもので、当時は「○号埋立地」と呼ばれていたはず)

■移転予定だった築地市場
卸売市場の形成と移転について、「神田市場史」という資料をもとに2本の記事を書きました(「かつての市場移転」「官営化する卸売市場」)。この中で、神田青果市場および日本橋魚市場が市中から“隔離された官営市場用地”へ移転するのに60年近い長い年月がかかったことを説明しました。そしてせっかく移転した先の神田市場はそのまた60年後に大田市場に移転となり、神田市場は廃止されたことにも触れました。

大田市場(※2)には、神田市場だけでなく築地市場を含めた都内の主要な市場の多くを移転させることが想定されていました。整備計画は昭和30年代にすでに立案が開始されていたようで、昭和36年(1961年)の卸売市場10カ年計画に「10カ年計画中に造成埋立地に60万m2の用地買収を予定。可能な限り集中させる」といった内容の記述があります。昭和41年(1966年)に、大井埠頭の市場予定地の位置と面積がほぼ決定。昭和46年(1971年)に埋め立てが完了します。冒頭の地図(a)が、その概略地図です。

時間軸に沿って大まかに整理してみると、次のようになります。

・青果市場
明治初期:多町からの移転計画
→約60年後:神田市場へ移転(「市場法」統治下に入る)
→約30年後:埋立地への新たな移転計画
→約30年後:大田市場への移転

・魚市場
明治初期:日本橋からの移転計画
→約60年後:築地市場へ移転(「市場法」統治下に入る)
→約30年後:埋立地への新たな移転計画 …移転失敗★
→約30年後:またしても新たな移転計画
→約20年後:豊洲市場への移転?

(※2 当時は「大井市場(仮)」と呼ばれていた。埋立地が「大井埠頭」と呼ばれていたため。該当する埋立地が当時はまだ品川区と大田区のどちらが所有する土地か定まっていなかった。後に大田区の所有地と決まり、品川区の地名である「大井」より「大田」が適当ということになった)

■野鳥が住み着いた埋立地
築地市場の広さは20万m2強。移転前の神田市場の広さはわずか6万m2しかありませんでした。その他、江東、荏原、大森といった都内の市場(分場)を1個所に集中させることで、きっと便利になるだろう…。そのためには50~60万m2の土地が必要だ…。なんとしても大井埠頭埋立地に土地を確保すべし…。

流通の合理化が必要なことはよくわかりますが、卸売市場法という官営化意識の強い法律の影響下で、移転計画が半ば強行されようとした様子が窺われます。神田や築地の市場関係者の多くは、やはり移転に否定的だったようです。ほんの30年ばかり前に大騒ぎして移転した市場からまた動けというのも、考えてみると理不尽な感があります。

またしても移転派、非移転派の鍔競り合いが繰り返される間、埋立地は放置されていました。放置が長引いたのは1967年から12年続いた美濃部革新都政の影響もあるのでしょう。美濃部知事がこの市場移転や大規模土地開発に消極的だったかどうかはっきり把握していませんが、一説によると美濃部知事は卸売市場そのものにあまり関心がなかったともいわれます。

その“空白期”に人知れず埋立地に住み着いたのが野鳥たちです。放置されていた埋立地はきれいに整地されるでもなく、土砂が積まれかなり高低差のある状態のままになっていました。不思議なものでそこに雨水がたまって自然の淡水池ができ、野草が繁茂します。鳥たちにとってすごしやすい場所になっていました。

「せっかく住み着いた野鳥の生息地を、人間の都合でまたぶちこわすのか!」

自然保護を訴える地元住民などが長期間熱心に働きかけをした結果、北西の一角、わずかに3万m2くらいの土地が「野鳥公園」として開園したのは昭和53年(1978年)のことでした…地図(b)。

大田市場地図b
〔昭和50年代の市場予定地の様子。市場予定地には池や沼、ちょっとした山があり、さまざまな野鳥が飛来していた(※3)〕

(※3 北側から用地内に伸びている灰色の線は現在のJR貨物線で、北は田町・浜松町、南は鶴見方面へとつながっている。当時、地下化や高架化する計画からすべて地上を平面に走り用地を真っ二つに分断する計画まであって、市場計画に影響を及ぼした。結果的に市場予定地途中から地下化(点線部分)された。地下化直前で線路は単線になってしまう)

■「決して予定地を手放さない」
この時の小さな野鳥公園は、後にはっきりと野鳥公園が成立する第一歩となったことは間違いないのですが、この時点で当局(東京都)は野鳥のために土地を手放す気はまったくなかったようです。この頃になっても築地市場全面移転構想を崩さず、「最低で50万m2なければ話にならない」などといった発言を繰り返します。時には妥協点を探る人たちを裏切るような強行発言が市場関係者幹部の口から飛び出すなど、野鳥の棲み処を守ろうとする人たちを落胆させたとされています(※4)。

一方、築地市場移転を絶対反対とする勢力も強く、いつまで経っても確たる市場計画が整備できません。そうこうするうちに鉄道線の中央部縦断による用地分断問題、北東側の船たまり新設問題などいろいろな条件が加わっていき、「50万m2」から「44万m2」「42万m2」へと徐々に市場面積が削られるはめになってしまいます。さらに青果、鮮魚のほかに花卉市場を取り込むという話も加わります。

野鳥の件だけでなく、さまざまな思惑が当初のような“市場の集中・統一化”を阻むこととなります。さすがに狭い神田市場や周辺の分場は移転したものの、築地の移転はついに失敗することとなりました(※5)。

結果として、野鳥公園と卸売市場はほぼ半々の痛み分け。野鳥の棲み処(野鳥公園、および市場用地内ではあるが野鳥の生息地として保全されている部分)は約26万m2。卸売市場は、西側の花卉棟や(図には描きませんでしたが)南側の関連用地などを含めたうえで約40万m2として落ち着きました。

大田市場地図c
〔現在の大田市場と野鳥公園周辺。野鳥公園は鉄道線で少し分断されている。市場の花卉棟は、当初予定されていた用地から国道・高速湾岸線をはさんだ西側に作られた〕

(※4 野鳥生息地の環境維持に尽力した当事者である加藤幸子氏の著書「野鳥の公園奮闘記」(1986年、三省堂)に詳しい経過が説明されている)
(※5 大田市場に青果部だけでなく鮮魚部もあるのは、当時大森にあった魚市場が大田に移転したことなどがその理由)

■開発が進んだ埋立地
個人的な話になってしまいますが、この記事を書いている私(松山)は品川区内で生まれ育ったこともあり、大井埠頭が開発されていく過程を結構リアルタイムで経験しています。東京モノレールに初めて乗った頃、モノレールより海側(東側)は、埋立地があるとはいえほとんど海の一部だったような感覚がありました。

昭和50年前後、友人とともにまだ何もない埋立地の道路を行けるところまで自転車で走り、埠頭の先端(今の京浜島、城南島)で釣りをしたことがたびたびあります。6車線くらいの広い国道(今の湾岸線部分)を、車がほとんど走らないことをいいことに、ど真ん中をジグザク走行してみたり。途中で道路の舗装が途切れ、ダートを走っていたら溝にはまったりと、懐かしい思い出があります。

地図(b)の野鳥公園ができたときにも訪れてみました。人が出入りできるのは本当に狭い一角だけで、正直あまり面白みがなかったことを記憶しています。当時、卸売市場移転と狭い三角形の野鳥公園にさまざまな背景があることなどはまったく意識していませんでした。50年代半ばから後半の頃「野鳥の棲み処が卸売市場のために潰される」といった新聞記事を目にして、「あの埋立地にそんな問題があったのか」と再認識することになります。

それからかなり時を置いて訪れた野鳥公園は、大田市場の建物に分断されているものの、多数の野鳥が飛来していることに気がつきます。カワセミを目の前で見たのも、この野鳥公園が初めてでした。今の野鳥公園は、本当に良いところです。

■野鳥 Good Job!
以前の記事でも書きましたが、「国家100年の計」とかいいながら、新しい市場ができても30年も経つとまた新たな市場移転計画を作り出すという、なんだかちぐはぐな政策になってしまっていたことは否めません。高度経済成長があったから、計画が後追いになるのは仕方がないことかもしれませんが…。

昭和後期の築地市場移転失敗は、今となっては間違いでなかったような気がします。100年維持できるかわからない市場設備より、明らかにもっと長い期間、人々を和ませ、自然を保全するであろう野鳥の棲み処のほうが、長い目で見て社会に利益をもたらしていると思うわけです。埋立地が野鳥に占拠されたのは、想定外の僥倖だったのではないでしょうか。

新たに計画されている豊洲新市場の予定地は、もともと民間の土地だったこともあり、きちんと整備している様子が窺われます。例の土壌汚染問題のこともありますし、移転するにせよ移転しないにせよ放置しておくわけはないでしょう。しかし、ゆりかもめなどから俯瞰して見たとき、「今度こそ、予定地を野鳥には渡さないぞ」といった当局の意思があるかのように感じてしまうのは、私だけでしょうか…。

最後は、雑談になってしまいましたか。

▽関連情報
東京湾野鳥公園

▽追加記事:
変貌する東京湾の埋立地