築地魚河岸のことを一般の人が理解するために適した書籍といえるでしょう。公式の資料や説明書では埋もれてしまって見えない、中央卸売市場の日常やシステムについて、実に読みやすく書かれています。
「築地」
【テオドル・ベスター(著)、2007年刊、木楽舎】
■著者の情報整理力
今年になって発刊された話題の本の一冊で、本当に興味深い本です。内容もそうですが、何といっても著者の情報整理能力に驚嘆します。
築地もしくは卸売市場システムというものは、喩えてみればジグソウパズルのようなもので、あれこれ関連資料を読んでみても複雑で今ひとつピンとこない場合が多いものです。特に公式の資料は、読み手におもねるほど平易な書き方をしていてさえも、結局わかったようなわからないような、隔靴掻痒の説明しかなかったりします。一方日常的に市場内で生きている人たちの言葉は、実感がこもって生き生きしているとはいえ、どうしても部分的なものになりやすく、ジグソウパズル全体のなかのどこに当てはまるピースを言っているのか、すぐにわかるとは限りません。
築地をはじめ日本の卸売市場システムについての説明は、「説明のしようがない」のではなくて、「説明のしようがありすぎて」かえって理解しがたい対象になってしまっているのではないかと思っています。ヒトやモノや土地や制度や法律や慣習…、などがそれぞれ関係性を持ちすぎているから、丁寧に説明しようとすればするほど、テーマがこんがらがってしまってわからなくなる。混沌とした説明を繰り返し浴び続けることで、やっとようやくぼやっとした全体像が見えてくる。そんな印象を持ちます。
ところがこの本の著者は、その“複雑すぎる関係性”を実にスマートに、かつ本質的な要素をわかりやすく説明しているような気がします。章単位で「軸」があり、その軸に沿って見事な解説をすることに成功していると思うのです。
〔目次〕
第1章 東京の台所
第2章 掘られた溝
第3章 埋立地が築地市場に変わるまで
第4章 生ものと火を通したものと
第5章 見える手
第6章 家族企業
第7章 取引の舞台
第8章 丸
■文化人類学者としての興味深い視点
たとえば「築地の1日は誰がどのように活動しているのか」を手っ取り早く、かつ的確に理解するためには、おそらく他のどの書よりも本書第2章を読むのがよさそうです。
「築地の過去、その前身である日本橋魚河岸、卸売市場の歴史」を江戸時代初期にさかのぼって手っ取り早く、かつ的確に理解するためには、他のどの書よりも本書第3章を読むのがよいかもしれません。
第4章では、魚をはじめとした動物に対する文化的な違いについて言及しています。鯨やイルカを擬人化する米国人の感覚に対する、鯉が食用にも高価な観賞用にもなる日本人の感覚など、生物の本質的性格とは関係のない「動物たちを想像しカテゴリー分けする方法」が国により違うのだということには納得させられます。そしてそれが日本の魚河岸の性格にもはっきり影響していることなど、著者の(経済学者でない)文化人類学者らしい記述がもっとも顕著に記されている章かもしれません。
そして卸売市場の主役の一人である「卸売業者」の話が第5章。もう一人の主役で同じ流通業でありながら卸売業者と相当に異なる「中卸業者」の話が第6章。制度の話が第7章。このあたりが本書で中心となる章でしょうか。そして“筆者なりの民族学的結論”が第8章、という具合です。
卸売市場、なかでも特に魚市場という非常に限られた範囲に対象を絞って解説された本ではありますが、読んでいくと他業界の仕組みや特質にも当てはまる事情が浮かんできます。日本経済に関連して永らく疑問だったことが、本書から突然納得できてしまうなんてこともありました。「文化」に根ざした視点からの説明があるからでしょうか。
本書の書評は他に多数あると思います。本サイトでは書評というより、少し本書に関連する話題について話を続けたいと思っています。