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「ライディング・ロケット」

“ぶっとび宇宙飛行士”の軽快な自伝。企業経営の立場からは、NASA組織の問題点についての生々しい描写が特に気になります。宇宙飛行士を目指す方にとっては、宇宙飛行士という仕事の実像について触れられる良い材料だと思われます。

ライディング・ロケット
「ライディング・ロケット」(上下巻 概観)
【マイク・ミュレイン(著)、金子浩(訳)、2008年刊(原著は2006年刊)、化学同人】

■下ネタ満載、本音も満載
この2月にJAXA(宇宙航空研究開発機構)が10年ぶりの宇宙飛行士選抜を発表して以来、当サイトに「宇宙飛行士」をキーワードにしてアクセスされる方が増えました。特に宇宙飛行士の選抜について書いた記事「中年ドクター 宇宙飛行士受験奮戦記」をご覧になる方がどっと増えたのがここ数カ月の特徴です。その選抜時(10年前)の合格者である星出飛行士が乗り込むスペースシャトルSTS-124ミッションは、打ち上げがまもなくに迫っています。

本書「ライディング・ロケット」は、“著名な宇宙飛行士が書いた真面目な記録”というものからは程遠いユニークな本です。一言で言うと、下ネタ満載のとんでもない本(笑)。たとえば「コンドーム」という言葉が一体何回出てくるか、女性差別的発言が何回出てくるか…。さらには、宇宙空間でエイリアンと会って合体したとかいう冗談まで言い出す始末。真面目な記録の中にこうした下ネタが1つでもあると問題視されそうですが、上下巻で600ページ超(日本語訳版)、全42章にわたる長編の半分をこうした下ネタで確信犯的に埋め尽くしていれば、もうそこには違和感など持ちようがないのが面白いところです。

“ぶっとび”の理由は、物語の半分を占める下ネタばかりではありません。残りの半分には、下ネタと同じ軽いノリで書かれていながら、内容的にはNASAという組織内部の特定の人たちに向けた「辛辣な批判」が満載されています。しかし、辛辣な批判の数々も笑いの種と一緒くたになって語られていることが、これまた妙に悪い気分を読者に感じさせません。実にうまい味付けになっています。

■秘密主義が組織・メンバーの士気を損なう
1970年代から80年代にかけて、ジョンソン宇宙センターで絶大な権力を振るっていたジョージ・アビーという人物がいました(当時「搭乗員運用管理局長」)。この人については、宇宙ステーション・ミールを舞台にしたノンフィクション「ドラゴンフライ」でかなり辛辣に描写されていて、そのことを本サイトでも採り上げました(参考:「ドラゴンフライ」3-官僚組織化する宇宙機関)。しかしアビーを糾弾する度合いにかけては、本書の方がさらにスゴイ。著者ミュレインたちがアビーの命令の下で辛い思いをしていたときの、悲鳴のようなものが聞こえます。宇宙飛行士たちにとってNASAに棲息する元凶のような存在だったと…。

かいつまんで言うと、
・アビーは宇宙飛行士たちのミッションへの割り当てに関する権限を一人で持つなど、専制的に振る舞い、そのために多くの宇宙飛行士がアビーを蛇蝎のように嫌っていた
・アビーは自分がコントロールできないコミュニケーション・ルートが組織内に生まれることを極度に嫌い、結果として組織内に疑心暗鬼を生んだ
・アビーは飛行士割り当てのルールをほとんど示さず徹底した秘密主義をとり、その結果として宇宙飛行士の士気を損なっていった
などです。

著者については、宇宙飛行士になってから相当に長い間待たされた挙句、アビーからやっと初フライトの割り当てが言い渡されました。それはスペースシャトルの新しい機体ディスカバリー号の初フライトでした。そのときのことを、こんな風に表現しています。

「私たちは(アビーから)ディスカバリーの初飛行をまかせられた。ストックホルム症候群の人質のごとく、私たちは皆、平身低頭して(アビー)に感謝した」。

■問題解決の必要性がわかっていても、手をつけられない
こうした事例は、現代の企業組織でもときどき発生しているモデルとも言えるでしょう。

→トップが何らかの面(営業的な実績があるなど)で優秀な場合、権限を最大限発揮し、できる限り組織を自分の管理下で動かそうとしがちになります。
→多くの場合、組織内の横のコミュニケーションを(口ではともかく本心では)あまり好みません。
→これが組織に浸透してくると、トップ下の管理職までもがそれぞれ主導権を取り合い、権力のせめぎ合いが起こりがちになります。
→権力者に擦り寄り、おべんちゃらを言うメンバーが増える一方、互いに裏では悪口ばかり言う、ひねくれた組織風土ができてきます。
→仕事に対しても、本来の目的や効果より社内力学や諦めが前面に出てきて官僚化が進みます。

そんな事例は、いろいろな会社に関わっていると何度となく実際に目にされるものです。

本書および「ドラゴンフライ」のアビー評/NASA評はほぼ一致しています。つまりこの時代のNASA(少なくともジョンソン宇宙センターなどスペースシャトルのプロジェクトを企画・運営する組織)は、アビーの専制的管理体制の下、そんな危険な組織風土を持っていたことが確かなようです。きちんと問題点がしかるべきところに伝わらない、もしくは問題解決の必要性がわかっていても誰も手をつけられない…。本書からは、宇宙飛行士たちのそんなもどかしさと危機感が読み取れます。

そんな体制が1986年のチャレンジャー号事故と2003年のコロンビア号事故につながったことを、著者は、軽めのノリの文章でオブラートに包みながらも、“当事者として”説得力ある説明をしています。なにしろ、宇宙飛行士の割り当てが少し違っていただけで、著者自身が事故を起こしたチャレンジャーに乗り組んでいた可能性があったのです。現実は、著者の特に親しい同僚のうち何人かがこのチャレンジャー事故で亡くなっているのを目前に見ています。

さらに、チャレンジャー事故後再開されて間もなく著者が乗り組んだSTS-27ミッションでは、打ち上げ時に(後の)コロンビア事故と似たような損傷を受けていて、帰還時に700枚の耐熱パネルが剥がれていました。それを帰還前にクルーも地上も認識していたにも関わらず、“賭け”のようにして帰還(大気圏突入)を命令された経験がありました。後から考えると、このときコロンビア号のように空中分解せずにすんだのは、まさに幸運に助けられた結果だった模様です。

■優秀な人も、役職次第で害となる
アビーと並んでもう一人、著者を悩ましたとされるのが、アポロ時代のムーンウォーカーの一人ジョン・ヤングとのこと。ヤングは、ジェミニの時代から宇宙飛行の経験を積み、(失敗して命を失う危険がかなりあったとされる)スペースシャトルの初フライトにも船長として乗り組んだ、いわば全世界で最も経験を積んだ宇宙飛行士とも言える人です。本書が書かれたこの時期のヤングは「宇宙飛行士室長」で、現場を取りまとめる最高責任者のような役割を持っていたはずでした。

ヤングについては、「月の記憶」という本の中で、心をなかなか開かない気難しい男性であるような描写がありました(参考:「月の記憶 アポロ宇宙飛行士たちの『その後』」。「月の記憶」を読んだときはどうも腑に落ちないヤング評でしたが、本書を読むとさらに意固地な性格があったことがわかります。

ヤングの直接の命令で動いていた著者が、あまりのヤングの聴く耳の持たなさに閉口させられ、たびたびヤングの激怒の対象となり、敵視され、精神的に追い詰められてしまう…。本書にはそんな経緯がけっこう細かく描かれています。挙句、著者は理不尽なプレッシャーにより精神的にダメージを受け、意を決して精神科の医師を訪れるに至ります。
「ヤングとアビーのせいで頭がおかしくなりそうなんです」。

そこで精神科の医師からは、こんな言葉が返ってきました。
「同僚の宇宙飛行士のみなさんから(同じような話を)うかがってますよ」!

著者をはじめ宇宙飛行士の誰もが、ヤングの“宇宙船を操る技量や勇気”を高く評価してはいたのは事実のようです。しかし、管理職という役職としてのヤングの力量はかなり弱かったことがうかがえます。いくら優秀な人も、その人に合わない役職につけられると、本人も周囲も不幸になるという典型のようです。その他、組織やリーダーシップについて考えさせられるケースがいくつか紹介されていますので、興味のある方はぜひ本書を読んでみてください。

いずれヤングもアビーもそれぞれの役職を去ることになるのですが、それを惜しむものなどいないどころか、皆揃って祝杯をあげるほど喜んだそうです。アビーの送別パーティーが行われたときは、本人を前にしながら、暴君的振る舞いに対する痛烈な批判と皮肉が浴びせかけられるほどだったとのことです。

■宇宙飛行士としての条件?
それにしても、宇宙飛行士という仕事の先の見えなさ、NASA上層部に対する疑念…。

一方で、ほんの数回しか実経験できなくても、命を賭けた宇宙飛行ミッションという仕事の素晴らしさ…。

そのバランスの中で、著者のマイク・ミュレインは、時に危うい精神状態を保ちながら、時に許される範囲で精一杯の悪ふざけを興じながら、全体的には前向きの人生を送ってきたようです。

著者は、自分を含め、女性に対して失礼なことばかりする粗野なパイロット仲間たち全員を「惑星AD(Arrested Development:発育不全)出身」と表現しています。宇宙飛行士とはいえ人格者とはかけ離れたような存在と自覚しているようです。特に自分のことは「本当は落第生なのに間違って宇宙飛行士に選ばれてしまったに違いない」といった表現をするほどです。その前提の下で、下ネタを飛ばし、毒舌を飛ばし、自虐的ギャグを飛ばし、でも誇りを失わず、真正面から宇宙飛行士の実像を描いた本書は魅力的です。

しかもこれだけの下ネタも下品にならず、これだけの批判的意見にも悪意が感じられないのは、おそらく著者の人柄によるのでしょう。また、あけすけに表現しているにも関わらず、書かれていることはおそらくすべて公表して問題ないものと判断していることをうかがわせます(たとえばミュレインが飛んだ3回のミッションのうち2回は軍事機密に関わる任務についていたため、シャトルでの仕事内容はまったくといってよいほど語られていません)。さらに、自分が宇宙に行けたのは「NASAのチームの肩に乗せてもらったから」であり、数え切れないほどの人々に「心からの尊敬と称讃の念」を抱いていることも口にしています。

下品になる一歩手前、ブラックになる一歩手前まで突っ込んでも度を越えない絶妙のバランス感覚をみると、やはりこの人も宇宙飛行士としてのライト・スタッフ=正しい資質を持った人なのだろうと推測されます。だからこそ(自らの自虐的表現とは裏腹に)宇宙飛行士選抜のプロセスを通過したこと、そして3度もの宇宙ミッションに参加できたのだろうことを納得させられます。たんに“ぶっとんだ”だけの人物、シニカルなだけ人物では、万が一“間違って選ばれた”のが事実としても重要な任務に複数回つけるものではありません。相当の覚悟とプロ意識、さらには意に沿わぬ上司や組織の命令とも折り合いをつけてやっていくだけの見識を持っていることが、宇宙飛行士として選ばれるために必要な条件だったに違いありません。

■宇宙飛行士になるという、じつに特殊な覚悟
本書の記述からは、宇宙飛行士の間には、自分たちと同様に厳しい訓練をし、難しい仕事をしてきた仲間であれば、それが女性であろうが研究者出身であろうがどんな国籍であろうが差別せず、同じ仲間として認める意識が確実にあることがみてとれます。一方そうでない人、いわゆる“お客さん飛行士”(世間の注目を得たりスポンサーを満足させたりするために、主に政治的な思惑から搭乗させるパートタイム宇宙飛行士。宇宙に理解を示している顔して同乗を画策する政治家や有名人や一部のペイロード・スペシャリスト)に対しては、「我々が宇宙に行く機会を奪っている奴等」として反感を持つと、本書の中に何度か描かれています。

そのうちの一つにSTS-95ミッションで77歳のジョン・グレン(マーキュリー計画「オリジナル7」の一人、米国3人目の宇宙飛行士、後に上院議員)が飛ぶことになったことにも触れられています。曰く、「(グレンは)ミッションに不可欠ではない人物。老年医学研究うんぬんはたわごと。例によって有力な政治家のための口実。グレンの個人的満足のためリクスを犯すなど正気の沙汰ではなかった…」と。

こうしたドロドロした話を読むと、“お客さん宇宙飛行士”が周囲から受けたであろう冷たい視線が推測できます。また、当初はペイロード・スペシャリストであった毛利さんが後にミッション・スペシャリストとして厳しい訓練をして再挑戦したことの意味も、その後の土井さん、若田さん、野口さんが苦労して宇宙飛行士仲間の信頼を築いていったことの価値も、(あくまでも連想にすぎませんが)本書から間接的に感じることができるかもしれません。

これから1年近くかけて行われるJAXAの宇宙飛行士試験を目指す方々には、それだけの覚悟と責任感と、そして仮に宇宙飛行士に選ばれたとしても何もできず無為に人生が終わる可能性があるという覚悟さえも求められることでしょう。でも…………、

そんな覚悟を持つ方がたくさん発掘されることもまた、社会から期待されていることでしょう。

トップのあり方と新銀行東京

新銀行東京の経営に関する責任は曖昧なまま、追加出資が行われました。こうしたケースをみるたびに、経営者(トップに立つ者)の責任のとり方はどうあるべきなのかという文脈で、思い出す時代劇があります。

前回の記事「数字をスケープゴートにするな」に続き新銀行東京を俎板にあげましたが、テーマはまったく違い、リーダーシップに関する話です。

新銀行東京新聞記事

■トップに立つ者の責任のとり方
古いドラマを持ち出して恐縮ですが、だいぶ前にNHKで「戦国武士の有給休暇」というコメディ・タッチの時代劇がありました(※注)。このドラマの中で今でも強烈に覚えているシーンが1つあります。
「トップに立つ者の責任のとり方とはこういうものだ」
ということを示されたようなシーンでした。

主演の小林薫さんが演じるのは戦国時代のとある地方国の武士(役名忘れました)。“有能で頼りになる実務家”といったところです。

国を経営するトップ、つまり社長(殿…中村梅雀さん)は、思いつきのように新方針や命令を打ち出します。それをミドル層(というより“実行部隊長”)にあたる小林さんが実行に移すだけでなく、次々に発生する難しい問題を解決し、さらにはトップの失敗の尻拭いをしていきます…。持ち前の頭脳と行動力で殿様から“役に立つ部下”と信頼されているため、ずっと休みがとれません。働き詰めに働いたので「お願いだから、しばしのお休み(有給休暇)をください」と嘆き、社長(殿)も「この仕事が終わったら…」と約束するのですが、戦国の世はその猶予を許さず、仕事に追われていく…。そんな、現代の会社勤めにはっきりとなぞらえたやり取りを想像できる楽しいドラマでした。

(※注)「戦国武士の有給休暇」(1994年、NHK)
脚本:ジェームス三木。出演:小林薫、中村梅雀、若村麻由美、阿部寛、佐藤慶、河合美智子、蟹江敬三、清水紘治、斎藤晴彦、夏川結衣ほか。(役名は、清水紘治さんが明智光秀だった以外全く覚えていません)

■たとえ「勝負は時の運」であっても
物語の中盤、織田信長の天下の元で、社長(殿)は盟友(隣国の殿)とともに、
「この乱世で自国が生き延びるためには、誰か実力者に頼らなければならぬ」
と思い至ります。その候補として考えたのが、羽柴秀吉と明智光秀。

社長(殿)は、悩みつつも、秀吉ではなく光秀に与し傘下に入ることを選びます。
最終盤、本能寺の変から山崎の戦いを経て、光秀は秀吉に討たれます。

光秀に与してしまったが故にこの国も秀吉軍の攻撃を受け、落城間近、万事休す。そのとき

「どうして秀吉ではなく光秀(につくこと)を選んでしまったのだろうか」
と嘆く社長(殿)に対し、重役らは「誰も将来のこと(光秀が討たれること)など予測はつかない。勝負は時の運なのだから、殿(が秀吉でなく光秀を選んだこと)に責任はない」

と慰めようとします。

しかし小林さんはきっぱり、次のように社長(殿)に向かって言い放ちます。

「確かに勝負は時の運かもしれない。
しかし、国を率いるトップが下した経営判断ではないか。
その結果に対して、トップ以外の誰が責任をとるというのだ。
たとえどんな合理的な判断であったとしても、
社長(殿)、あんたが責任をとって辞めるのが正道というものだ」
(正確なセリフではありません。記憶は相当に私の頭の中で脚色されています)

その言葉を聞いた社長(殿)は観念し、城を明け渡すことを決めます。小林さん演じる武士はその後も殿に忠義を尽くし、殿が落ち延びるのに付き従い、殿を守ることを誓います。後に殿とともに落ち着いた土地で農民となり、小林さんもやっと実質的にやっと“有給休暇”をとれる…、といった内容だったと記憶しています。
(このあたりのストーリーも、正確さはかなりあやしいかもしれません)

■トップが逃げてしまってはいけない
長々と時代劇ドラマの話になってしまいましたが、新銀行東京のこと。

新銀行東京のコンセプトは決して悪くないことは、各方面から評価されていると思います。しかしビジネスモデルは成立しませんでした。前回の話で触れた融資の「スコアリング・モデル」は不十分、実務スタッフの編成も(おそらく)不十分だったのだと思います。

かりに「時の運がなかっただけだ」と仮定しても、その責任を誰がとるべきなのか。今回のような400億円追加出資(ひいては長期的な敗戦処理)を行うならば、それとともに、
「たとえどんな合理的な判断であったとしても、
知事、あんたが責任をとって辞めるのが正道というものだ」
ということになるのではなかろうかと…。

また、本サイトの以前の記事で築地卸売市場の豊洲移転に触れたとき、
「卸売市場の移転は、知事1人の思惑では動かない。さまざまな関係者や社会の動きがあって初めて成立する。だから知事が誰になろうと、そう違いはないだろう」
といった意味のことを書きました(「かつての市場移転(「神田市場史」より)」)。

今回新銀行東京問題では、なぜか件の知事が似たような言い回しをしています。
「私の一存で進めてきたかのような意見はまったくあたらない。膨大な組織の中で、私1人が発想して行政が動くわけではない」。

しかし築地の豊洲移転問題と新銀行東京とは質が全く異なるものです。生鮮品の卸売市場はすでに社会に根付いた欠くべからざるシステムの一端であり、多数の関係者が昔から動かしています。しかし新銀行東京は、3年ほど前に新たに生まれた(もともとなかった)一事業です。その事業を発案し、リーダーシップを発揮して作ろうとした知事が「自分だけの仕業ではない」という逃げ口上をうつのは、いくらなんでもありえない。

百歩譲って、かりに「膨大な組織が発想して初めて行政が動いたもの」だったとしても、その責任をとることこそがトップの仕事なのではないか。そのようにしか思えないのですが、いかがでしょうか。

■“反面教師”を目の当たりにして
本サイトの記事は、経営にまつわる一般的な話題を提供することを主眼においており、特定の人や組織に対する問題提起や、政治に関わる意見を表に出す意図はまったくありません。今回の記事はたまたま都政を例として出したので少しキナ臭い意味も含んだ内容を持ってしまいましたが、一般の企業経営においても、とるべき責任をとらないトップの事例は、相当数あるのではないかと推測します。

経営者・マネジャー・ビジネスパーソンにとってまさに「反面教師」が実例として目の前にあるわけです。トップとは何か、リーダーシップとは何かを考える際、東京都の事例も先にあげたNHK時代劇のセリフも、きっと参考になるのではないでしょうか。そんな意味でまとめさせていただきました。

「テスト・スタンダード」

日本テスト学会がとりまとめた「テスト基準」の詳しい解説と、関係者によるQ&A集です。企業の人事担当者なども含め、さまざまなテスト、人事測定に関わる関係者に広く読んでもらいたいような基本書なのですが…。

書籍「テスト・スタンダード」概観
「テスト・スタンダード -日本のテストの将来に向けて」
【日本テスト学会(編)、2007年、金子書房】

■テスト基準の詳細な説明
日本テスト学会というところが「テスト基準」をとりまとめ2006年に基本条項を公開したことを、以前の記事「テストの開発、実施、利用、管理にかかわる基準」で触れました。当時開発中だった「基本条項の解説」(ガイドライン)は2007年9月に公開されています。「基準」そのものも微調整され「ver1.1」となったようです。

本書は、その「基本条項の解説」本文(140ページほど)と、関連する「Q&A」(60ページ強)および「用語解説」(12ページ)をまとめて1冊にした本です。「テストの科学」という本を以前当サイトで紹介しましたが、本書もこの本と同様、さまざまなテスト関係者にとって基本書の一つと位置づけられるかもしれません。

なお「基本条項の解説」部分は、同学会のWebページでも公開されています。ただしダウンロードできるのは“印刷不可能”なpdfファイルです。

「Q&A」は、テスト基準をみて多方面からいろいろ出てくるであろう質問を37件とりあげ、それらに対する考え方、技術的な手法、現実的な対処法などをまとめています。同学会会長の池田央氏やテスト基準作成委員会委員長の繁桝算男氏ほか、この分野で著名な方々が丁寧に答えておられます。

■テストで数字化することに対する本質的な不審?
学校の入学試験・アチーブメントテストから、あまたある検定試験・資格試験、企業で行われる人事測定・心理測定、組織診断のための調査ツールなど、人や集団を測定するためにさまざまなテストがあります。なかには“深い考えがなくなんとなく開発した”だけのテストが多数あると思われますが、見識のないテストに対して「基準」は一種の“駄目出し”をしている側面があります。本書の解説やQ&Aが書かれた背景を深読みすると、「基準」に示されているさまざまな考え方や条件が、日本のテスト開発・利用の現場で“戸惑い”のような感覚をもって受け取られているのではないかとも思われます。

この“戸惑い”は、大きく2種に分類できそうです。1つは(主に客観式テストの)数値解析にまつわる技術的な方法論に関すること。たとえば「素点を標準化された尺度得点に置きかえるにはどうすればよいのか」「テストの信頼性はどうやって計算したらよいのか」といったあたりで、どうしても数値解析の専門知識が必要になってきます。

もう一つの“戸惑い”は、客観テスト(または評価結果の数値化、または主観評価のための前提条件)に対する根本的な疑念のようなものでしょうか。もちろんこの「基準」で説明されているテストには、多枝選択式のような客観式テストだけでなく、論文や面接試験のような主観的評定を伴わざるを得ないテストも含まれます。しかしそうした主観的評定を伴うテストにおいても、テスト開発や評価の考え方は客観式テストと共通する条件設定などが多々あるはずで、「基準」にその考え方が示されています。

しかし、なぜか現実には、日常的にテスト開発・実施に携わっている方々からも、なかなかこうした基本的な考え方について理解が得られない場面があります。たとえば「人間を数字で判定してはいけない」とか「多元的に要素が合わさったテスト問題こそ良問だ」といった“見識”を持つこと自体はよいのですが、その一見正論と思える“見識”が、本来あるべきテスト(測定)の前提条件を歪めてしまう例が多々あるわけです。

本書の副題「日本のテストの将来に向けて」に、「何とかして現状を変えたい」という関係者の意気込みが垣間見られます。でも一方で、本書の価格は4000円とちょっとお高め。「基準の説明」が(印刷できないとはいえ)Web公開されていることを考えると、ほんの70ページ強のQ&Aと用語解説の情報(+「基準の解説」の印刷代?)に、それだけの対価を払うことになります。

本当は広くさまざまな読者を獲得したいのでしょうが、出版社からするととても“広さ”(部数)は期待できず、「バリバリの専門書」として売らざるを得ない。そんな苦しい事情が価格から想像されます。それだけ、世間のテスト関係者の問題意識は喚起されていない(?) のかもしれません。

「NASAを築いた人と技術」

大規模組織の内部に切り込んだ、一種のマネジメント事例として読みました。NASAといっても構成するセンターごとに生い立ちも組織文化も違うなど、興味深い記述があります。一般の組織運営でも役立つヒントが多数あるのではないでしょうか。

本書付録の組織図
〔本書付録にある詳細な「組織図」(有人宇宙船センター)。クリス・クラフトなどの名が見える〕
【佐藤靖(著)、2007年刊、東京大学出版会】

■天下のNASAだって、ただの人の集まりじゃないかっ
本サイトでは、これまでも宇宙機関に関連する話題を組織・人事的な視点から記事にしてきました(月の記憶ドラゴンフライ-1同-2同-3日本企業はNASAの危機管理に学べなど)。本書は、まさにNASAという組織の分析がテーマです。ただし現在のNASAの話でなく、1950年代後半から1970年くらいまでのアポロに代表される時代が対象です。副題は「巨大システム開発の技術文化」。

遠くからNASAのような組織をぼやっとみている限りでは、一枚板の強固でシステマチックな組織だと思えてしまいます。しかし本書ではまず、NASAを構成する各センター間に相違があることが明確にされています。さらに、ワシントンのNASA本部から持ち込まれる技術手法や送り込まれる管理者が各センターと盛んに軋轢をもたらし、時に変化し、時に挫折する様が丁寧に描かれています。

ようするにNASAといえども、我々の身近にころがっているそこらの会社と同じ未成熟な組織に過ぎないのでしょう。歴史的事実を示して説明されることで、そんな当たり前のことに今さらながら気付かされます。

本書の第1章から第4章で、NASAの4つの異なるセンター(マーシャル宇宙飛行センター、有人宇宙船センター、ジェット推進研究所、ゴダード宇宙飛行センター)についてまとめられています。第5章は日本の宇宙開発機関の話題です。

〔目次〕
序章 未踏技術への陣容
第1章 フォン・ブラウンのチーム学
第2章 アポロ宇宙飛行船開発
第3章 大学人の誇りと試練
第4章 科学者たちの選択
第5章 人間志向の技術文化
終章 システム工学の意味

■あちこちで反発を浴びる「システム工学」
第1章を単純化してみると…
・ロケット技術者の第一人者でありマーシャル宇宙飛行センターをまとめるリーダーとしても長けた能力を持つヴェルナー・フォン・ブラウンらが、
・NASA本部から持ち込まれる「システム工学」の考え方と対峙し、時に猛反発しながらも、
・フォン・ブラウンの卓越した判断力とチームの団結力を背景に、サターンV型ロケット(アポロ打ち上げに使ったロケット)開発プロジェクトを大成功させる。
・ただしフォン・ブラウンが退いた後は、予算縮小の波の中でチームは縮小(消滅?)していく。

第2章については…
・有人宇宙船センターは、ロバート・ギルルース、クリス・クラフトといったリーダーの下で“徒党的”ともいえる組織に成長していたが、
・NASA本部から送り込まれたジョセフ・シェイによって、(それまでとは水と油のような考え方である)システム工学の手法がもたらされ、
・既存メンバーと頻繁に衝突しながらも、有人宇宙飛行のための業務体系化に成功していく。
・アポロ1号火災事故を機にシェイが去ったこともあり、「人的解決」も「システム工学的解決」の要素も持ち合わせた組織作りが進み、アポロの成功につながっていく。

うーむ、概略としては少し下手なまとめ方だったかもしれません。詳細はぜひ本書を読んでみてください。リファレンスが非常に充実していますので、英語の資料にあたることができる方は、もっとずっと多彩な情報にたどり着くかもしれません。他の章でも、それぞれ興味深い記述があります。

■「属人的なノウハウ」と「脱人格化したシステム」
我々もいろいろなチームやプロジェクトに関わっていると、仕事の進め方で大きな違いがあることを経験します。特定の人のリーダーシップに引っ張られるチーム、仲間内ではツーカーで自動的に意図が伝達し事がうまく運ばれるチーム、常に細かく明示的なドキュメントを作ってそれを軸に仕事を進行させるチーム…。チームの仕事の運び方を認識していないと、実力のある人でも全然役に立たなかったり、険悪なチーム構成になってしまったりします。

それでいて、特定の組織文化に染まったメンバーだけで仕事を続け異分子の参加を避けていると、組織そのものが衰退したり、大きな失敗につながったりします。某老舗食品会社の製造日偽装事件など名の知れた企業の不祥事がここのところ次々明らかになっていますが、外部からの異分子が経営に参画していればもっと早く手を打てた事例かもしれません。あるいは異分子にあたる存在が、昨今の事件発覚(ひいては正常化)に一役買っているのかもしれません。

また、プロジェクトの初期に取り決めた仕様や契約がいつのまにか変わっていくことはままあります。状況変化に柔軟に対応できる人がいたからこそ成功したプロジェクト、きっちりドキュメントをまとめることをしなかったために崩壊したプロジェクト、各人の責任範囲を明確化した故に相互補完できず特定の人にしわ寄せがいったプロジェクト…。本書を読みながら、自分の過去の失敗が思い浮かんでくることもありました。

「経営はアートかサイエンスか」は長く議論されているテーマです。本書で使っている用語と少し意味が違うかもしれないことを承知で単純な表現をすると、
「属人的(≒アート的)手法」と「脱人格的(≒サイエンス的)手法」の衝突
が本書の重要な視点といえそうです。

本書については、宇宙開発の分野で有名な技術ジャーナリスト、松浦晋也氏のblogでも紹介されています。ご参考まで。
「NASAを築いた人と技術 巨大システム開発の技術文化」

起業のいま、むかし(「企業診断」特集より)

1990年前後から現在までの労働環境・起業環境の変化をまとめた記事を「企業診断」2007年8月号に書かせていただきました。就職氷河期といわれる間に社会に出た世代が直面した過去と今後を概括することが主テーマです。

企業診断記事図2
【契約社員という就業形態を選択した理由】

※厚生労働省「就業形態の多様化に関する総合実態調査」より内容の一部を抜粋。グラフ化した項目や表題などの表現にはかなり編集を加えています。注釈は後述

■20代後半から30代前半の世代に向けて
タイトルは「起業のいま、むかし ― 起業環境の変化とロストジェネレーション世代の出現」。「企業診断」は同友館発行の月刊誌です。今回の特集「起業新時代 ロストジェネレーションたちのいま」で、総論にあたる部分を当社松山が担当しました。

現在20代後半から30代前半、いわゆる就職氷河期の間に社会に出た世代のことを「ロストジェネレーション」と呼ぶそうです。彼ら彼女らが“起業”を目指すときの指針となる統計的裏づけや、すでに起業した同世代の人たちの想いを紹介する特集になっています。縁あって、その世代より一回り上の年代にあたる私が、いわば“エール”を送る格好になりました。

あらためてバブル時代からの労働環境を整理してみると、なかなか面白いデータに突き当たるものです。

冒頭のグラフ(厚生労働省関連の調査)は記事中のグラフを抜粋し表現を変えたものです。これをみると、たとえば1994年調査では「自分の都合の良い時間に働けるから(正社員でなく)契約社員となった」という意味の答えを選んだ割合が、1999年調査や2003年調査に比べてかなり高くなっています。一方、「正社員にはなれなかったから(しかたがなく)契約社員になった」というネガティブな答えは、1994年調査ではその後と比べてかなり割合が低くなっています。

1990年代前半というと、それまでの日本的労働環境が若者の働く意識に“本当に”合わなくなってきたころだと認識しています。「終身雇用や年功序列に縛られた企業の正社員より、もっと柔軟な働き方を望んでいる」。多様な中小ベンチャー企業はともかく、大企業にもそんな風潮が影響し始め、保守的な労働システムがすこしづつ変化をはじめた時期といってよいのではないでしょうか。

また現在は非正規雇用が増えたことが“問題視”されていますが、少なくともバブルの余波が残っていたその頃、「正社員からのスピンアウト」はもう少し肯定的に捉えていたようにも思えます。しかしバブル後の長期の不況がそれを簡単に許さなかったのかもしれません。そんなこんなの“働き方の事情”を記事としてまとめさせてもらいました。

※冒頭のグラフについての注釈
出展は、厚生労働省「就業形態の多様化に関する総合実態調査」(労働政策研究・研修機構(JILPT)「労働政策研究報告書No.68」)です。記事中で元の統計データのごく一部のみを抜粋してグラフ化していますが、上記グラフはさらにそれを抜粋し、さらにタイトルも少し意訳し、見せ方(表現方法)も変更したものです。しかも、
・調査は複数回答
・選択肢はグラフに挙げた5項目以外にも多数ある
・各年の選択肢数や表現が異なる
といった事情があり、厳密には数値の推移を比較できないものといえます。ここではあくまでも傾向を“ざっくりと”紹介しているに過ぎないことをご了承ください。

■起業に向かう活力
前々回前回の当ブログの記事で、成果主義や長期雇用に関連したJILPTの統計データをご紹介しましたが、それらも今回の記事執筆に関連しています。今回ご紹介した統計データについても、正確で詳細な内容については元の出典を参照されてください。

「企業診断」の特集については、私の担当記事部分の見出しは次のとおりです。

1 日本の労働環境と企業の労働政策
(1) バブル前後の労働環境
1-1 ロストジェネレーションの位置づけ
1-2 非正規雇用を求めた新入社員
1-3 若手が望んだ労働環境の変化
(2) 企業の政策
2-1 中途半端だった人事政策
2-2 若手世代はワリを食った?
2 起業の歴史と若手の起業意識
(1) 起業意識
1-1 起業家年齢の上昇とLG世代
1-2 起業のタイプ別考察
1-3 起業に向かう活力
(2) 現代の起業環境
2-1 恵まれているか? 現代の起業家
2-2 「失われた世代」の強み

私の記事のほか、実際の起業家たちに対するインタビューが「若き起業家たちの群像」「ロストジェネレーションへの伝言」というタイトルで計6稿まとめられています。大上段に振りかざした起業論ではなく、身近な立場から起業について語られています。ご興味のある方はぜひ記事を読んで「起業に向かう活力」を感じてみてください。