数字をスケープゴートにするな

新銀行東京への東京都からの追加出資が、すったもんだの末決まりました。この銀行が失敗した原因の一つに、財務など数字だけで融資の可否を半自動的に判断する、いわゆる「スコアリング・モデル」の導入が挙げられているようですが、マスコミなどの論調でどうしても解せないところがありました。

数字の補完方法
〔定量情報を補完する2つの方向〕

■数字が悪役?
この件(スコアリング・モデル)についての新聞・雑誌・テレビの反応は、判を押したような意見ばかりです。突き詰めていうと次のようになります。

「数字だけでは見えないことがたくさんあるのに、数字だけで融資判断できると考えたのが間違い。もっと物事の本質、融資対象企業の現状を把握して融資を決定すべきものだったはず…」

いわば“数字過信説”とでもいいましょうか。

耳にたこができるほどよく出てくるのは、企業への融資を判断するとき、
「銀行は、その企業のトイレがきれいに掃除されているかとか、経営者が豪華な車に無駄に費やしていないかとかいった、数字に現れないところから判断する」

といった例です。そうした基本的な判断をやっていないから新銀行東京がうまくいかなかったかのような説明は、一見納得できるものかもしれません。

しかしながら、この説明に違和感を持つ人も少なくないはずです。

■数字で見えない部分をどう補うのか
金融機関で使われるスコアリング・モデルに限らず、世の中にあるさまざまな「数字」(定量化されたデータ)は、その対象の持つ性質すべてを一言で表現できるものではありません。数字とは、いわば「鋭い切り口で切り取った一面の性質」を見せているからこそ意味があるのであって、数字の表面だけでは見えない定性的性質が別にあるのは当然。そんな当たり前のことをいまさらもっともらしく論評されたところで、何の解決につながるのでしょうか。

数字では見えないものがあるとき、そこから発生するリスクをどうやって補うのか。大きく異なる2つの方向性があるといえましょう。

(1) 「対象」となるもの1つ1つに間近に迫って詳しく観測し、定性的な性質(ようするに数字で見えない性質)を含めて掴み取り、個々のリスクを最小限に抑える
(2) 多数の対象の集合を全体として捉え、数学的(主として確率論的)に判断し、リスク分散させる

営業・マーケティング分野に置き換えて考えてみましょう。営業担当者が1件1件の得意先にきめ細かく営業をかけ、得意先の事情を十二分に判断したうえでそれぞれにカスタマイズされた提案をもちかける…、というのが(1)にあたります。「御用聞き営業」と呼ぶと少し語弊がありそうですが、まあ、その類の方法です。

一方(2)は、近年のCRMシステムやデータベース・マーケティングといった手法の中にみられるやり方です。例えば多数の顧客に対し、その属性や過去の購入履歴、頻度などの記録を顧客データベースとして備え、その情報を軸にして自動的にDMをうったり、購買につながりやすいシナリオを描いたりして、それに沿った定型的な提案をする…、というやり方です。

(1)はリスク管理の“王道”かもしれませんが、1つ1つの対象(ここでは取引先)の性質を観察、分析するための人的資源確保や教育システム維持にコストがかかります。一方(2)は、対象の数が多数であっても、いや多数であるからこそ、システマチックに低コストで一定の利益を確保できるという見込みを立たせることが可能になります。

■リレーションシップ・バンキングとスコアリング・モデル
金融機関に話を戻すと、上記(1)が多くの銀行の伝統的な手法として定着しています。時には銀行の担当者が、融資対象企業の経営者とともに資金だけでなく経営全般のやりくりに頭を悩まし、あるいはその会社の社員といっしょに汗をかいて問題解決を進める。そんな涙ぐましい努力を重ね、その企業の体力を見極めていこうというやり方です。こうした、地域の企業と密着してきめ細かく融資判断を行う伝統的な手法は、今は「リレーションシップ・バンキング」と呼ばれているようです。

そして問題の「スコアリング・モデル」が上記(2)に該当します。やり方からいってリテール・バンキングをある程度の規模で展開する際に有効な手法といえそうです。身近な例でいえば、消費者金融やクレジット会社の一般向け融資システムがこれに相当するのでしょう。米国系金融機関ではスコアリング・モデルが中小企業の貸し出し業務に力を発揮しているとされていますが、それを日本で実践しようとしたのが新銀行東京の一つのコンセプトだったと理解しています。企業からみても、銀行の担当者と無駄に付き合わなければならないようなステップを踏む必要がなく、合理的です。

ようするにスコアリング・モデルとリレーションシップ・バンキングとはそもそもの方針が逆なわけです。システム面からして異なるモデルです。なのに、金融庁や銀行関係者とかからも、両者の方向を混ぜ合わせるような提案、提言があったりします。逆方向のコンセプトを足して2で割れば、答はゼロ。失敗が約束されているようなものでしょう。

今回の新銀行東京の問題では、相当の識者や経済誌でさえ、上に書いたような「数字を過信して手抜きしてはいかんよ」といった“数字過信説”を唱えていました。問題は、数字を過信したとか数字がいかんとかいう話ではなく、むしろ「数字で十分に考えることができなかったところ」(きちんとしたスコアリング・モデルをビジネスとして確立できなかったこと)にあると思うわけです。

(…と思っていたら、専門家の立場から、「スコアリング方式の本質が、全く勘違いされている」という記事が日経ビジネス・オンラインに出ていました。
見当はずれの新銀行東京批判
まさにこれ。こういう解説がされるのを待っていました)

■実質的な精算に向かっている?
都民の税金400億円が出資金として注入されたことで新銀行東京は一応救済されたことになっているようです。しかし融資残高が大幅削減されることなどから、もはやスコアリング・モデルが成立する前提が崩れているように思われます。実質的に同銀行は清算に向かっていると考えるのが自然なのでしょう。

落とし前のつけ方として、今すぐ破綻させるのが良いのか、400億円をどぶに捨てても敗戦処理をするのがよいのかは、金融の専門家でない私には判断できません。でも、専門家の方々も予測しているように、今回の400億円はそのまま無駄になる可能性が高いと、都民の一人として今のうちからあきらめておくのが精神衛生上よさそうですね (苦笑)。

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なお、この銀行事業を推進した実質的なリーダーの言動と判断については、失望するばかりです。リーダーシップという観点から、これに関連した話題を次の記事で続けます。
(参考)
「新銀行東京調査委員会調査報告書(概要)」