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トップのあり方と新銀行東京

新銀行東京の経営に関する責任は曖昧なまま、追加出資が行われました。こうしたケースをみるたびに、経営者(トップに立つ者)の責任のとり方はどうあるべきなのかという文脈で、思い出す時代劇があります。

前回の記事「数字をスケープゴートにするな」に続き新銀行東京を俎板にあげましたが、テーマはまったく違い、リーダーシップに関する話です。

新銀行東京新聞記事

■トップに立つ者の責任のとり方
古いドラマを持ち出して恐縮ですが、だいぶ前にNHKで「戦国武士の有給休暇」というコメディ・タッチの時代劇がありました(※注)。このドラマの中で今でも強烈に覚えているシーンが1つあります。
「トップに立つ者の責任のとり方とはこういうものだ」
ということを示されたようなシーンでした。

主演の小林薫さんが演じるのは戦国時代のとある地方国の武士(役名忘れました)。“有能で頼りになる実務家”といったところです。

国を経営するトップ、つまり社長(殿…中村梅雀さん)は、思いつきのように新方針や命令を打ち出します。それをミドル層(というより“実行部隊長”)にあたる小林さんが実行に移すだけでなく、次々に発生する難しい問題を解決し、さらにはトップの失敗の尻拭いをしていきます…。持ち前の頭脳と行動力で殿様から“役に立つ部下”と信頼されているため、ずっと休みがとれません。働き詰めに働いたので「お願いだから、しばしのお休み(有給休暇)をください」と嘆き、社長(殿)も「この仕事が終わったら…」と約束するのですが、戦国の世はその猶予を許さず、仕事に追われていく…。そんな、現代の会社勤めにはっきりとなぞらえたやり取りを想像できる楽しいドラマでした。

(※注)「戦国武士の有給休暇」(1994年、NHK)
脚本:ジェームス三木。出演:小林薫、中村梅雀、若村麻由美、阿部寛、佐藤慶、河合美智子、蟹江敬三、清水紘治、斎藤晴彦、夏川結衣ほか。(役名は、清水紘治さんが明智光秀だった以外全く覚えていません)

■たとえ「勝負は時の運」であっても
物語の中盤、織田信長の天下の元で、社長(殿)は盟友(隣国の殿)とともに、
「この乱世で自国が生き延びるためには、誰か実力者に頼らなければならぬ」
と思い至ります。その候補として考えたのが、羽柴秀吉と明智光秀。

社長(殿)は、悩みつつも、秀吉ではなく光秀に与し傘下に入ることを選びます。
最終盤、本能寺の変から山崎の戦いを経て、光秀は秀吉に討たれます。

光秀に与してしまったが故にこの国も秀吉軍の攻撃を受け、落城間近、万事休す。そのとき

「どうして秀吉ではなく光秀(につくこと)を選んでしまったのだろうか」
と嘆く社長(殿)に対し、重役らは「誰も将来のこと(光秀が討たれること)など予測はつかない。勝負は時の運なのだから、殿(が秀吉でなく光秀を選んだこと)に責任はない」

と慰めようとします。

しかし小林さんはきっぱり、次のように社長(殿)に向かって言い放ちます。

「確かに勝負は時の運かもしれない。
しかし、国を率いるトップが下した経営判断ではないか。
その結果に対して、トップ以外の誰が責任をとるというのだ。
たとえどんな合理的な判断であったとしても、
社長(殿)、あんたが責任をとって辞めるのが正道というものだ」
(正確なセリフではありません。記憶は相当に私の頭の中で脚色されています)

その言葉を聞いた社長(殿)は観念し、城を明け渡すことを決めます。小林さん演じる武士はその後も殿に忠義を尽くし、殿が落ち延びるのに付き従い、殿を守ることを誓います。後に殿とともに落ち着いた土地で農民となり、小林さんもやっと実質的にやっと“有給休暇”をとれる…、といった内容だったと記憶しています。
(このあたりのストーリーも、正確さはかなりあやしいかもしれません)

■トップが逃げてしまってはいけない
長々と時代劇ドラマの話になってしまいましたが、新銀行東京のこと。

新銀行東京のコンセプトは決して悪くないことは、各方面から評価されていると思います。しかしビジネスモデルは成立しませんでした。前回の話で触れた融資の「スコアリング・モデル」は不十分、実務スタッフの編成も(おそらく)不十分だったのだと思います。

かりに「時の運がなかっただけだ」と仮定しても、その責任を誰がとるべきなのか。今回のような400億円追加出資(ひいては長期的な敗戦処理)を行うならば、それとともに、
「たとえどんな合理的な判断であったとしても、
知事、あんたが責任をとって辞めるのが正道というものだ」
ということになるのではなかろうかと…。

また、本サイトの以前の記事で築地卸売市場の豊洲移転に触れたとき、
「卸売市場の移転は、知事1人の思惑では動かない。さまざまな関係者や社会の動きがあって初めて成立する。だから知事が誰になろうと、そう違いはないだろう」
といった意味のことを書きました(「かつての市場移転(「神田市場史」より)」)。

今回新銀行東京問題では、なぜか件の知事が似たような言い回しをしています。
「私の一存で進めてきたかのような意見はまったくあたらない。膨大な組織の中で、私1人が発想して行政が動くわけではない」。

しかし築地の豊洲移転問題と新銀行東京とは質が全く異なるものです。生鮮品の卸売市場はすでに社会に根付いた欠くべからざるシステムの一端であり、多数の関係者が昔から動かしています。しかし新銀行東京は、3年ほど前に新たに生まれた(もともとなかった)一事業です。その事業を発案し、リーダーシップを発揮して作ろうとした知事が「自分だけの仕業ではない」という逃げ口上をうつのは、いくらなんでもありえない。

百歩譲って、かりに「膨大な組織が発想して初めて行政が動いたもの」だったとしても、その責任をとることこそがトップの仕事なのではないか。そのようにしか思えないのですが、いかがでしょうか。

■“反面教師”を目の当たりにして
本サイトの記事は、経営にまつわる一般的な話題を提供することを主眼においており、特定の人や組織に対する問題提起や、政治に関わる意見を表に出す意図はまったくありません。今回の記事はたまたま都政を例として出したので少しキナ臭い意味も含んだ内容を持ってしまいましたが、一般の企業経営においても、とるべき責任をとらないトップの事例は、相当数あるのではないかと推測します。

経営者・マネジャー・ビジネスパーソンにとってまさに「反面教師」が実例として目の前にあるわけです。トップとは何か、リーダーシップとは何かを考える際、東京都の事例も先にあげたNHK時代劇のセリフも、きっと参考になるのではないでしょうか。そんな意味でまとめさせていただきました。

数字をスケープゴートにするな

新銀行東京への東京都からの追加出資が、すったもんだの末決まりました。この銀行が失敗した原因の一つに、財務など数字だけで融資の可否を半自動的に判断する、いわゆる「スコアリング・モデル」の導入が挙げられているようですが、マスコミなどの論調でどうしても解せないところがありました。

数字の補完方法
〔定量情報を補完する2つの方向〕

■数字が悪役?
この件(スコアリング・モデル)についての新聞・雑誌・テレビの反応は、判を押したような意見ばかりです。突き詰めていうと次のようになります。

「数字だけでは見えないことがたくさんあるのに、数字だけで融資判断できると考えたのが間違い。もっと物事の本質、融資対象企業の現状を把握して融資を決定すべきものだったはず…」

いわば“数字過信説”とでもいいましょうか。

耳にたこができるほどよく出てくるのは、企業への融資を判断するとき、
「銀行は、その企業のトイレがきれいに掃除されているかとか、経営者が豪華な車に無駄に費やしていないかとかいった、数字に現れないところから判断する」

といった例です。そうした基本的な判断をやっていないから新銀行東京がうまくいかなかったかのような説明は、一見納得できるものかもしれません。

しかしながら、この説明に違和感を持つ人も少なくないはずです。

■数字で見えない部分をどう補うのか
金融機関で使われるスコアリング・モデルに限らず、世の中にあるさまざまな「数字」(定量化されたデータ)は、その対象の持つ性質すべてを一言で表現できるものではありません。数字とは、いわば「鋭い切り口で切り取った一面の性質」を見せているからこそ意味があるのであって、数字の表面だけでは見えない定性的性質が別にあるのは当然。そんな当たり前のことをいまさらもっともらしく論評されたところで、何の解決につながるのでしょうか。

数字では見えないものがあるとき、そこから発生するリスクをどうやって補うのか。大きく異なる2つの方向性があるといえましょう。

(1) 「対象」となるもの1つ1つに間近に迫って詳しく観測し、定性的な性質(ようするに数字で見えない性質)を含めて掴み取り、個々のリスクを最小限に抑える
(2) 多数の対象の集合を全体として捉え、数学的(主として確率論的)に判断し、リスク分散させる

営業・マーケティング分野に置き換えて考えてみましょう。営業担当者が1件1件の得意先にきめ細かく営業をかけ、得意先の事情を十二分に判断したうえでそれぞれにカスタマイズされた提案をもちかける…、というのが(1)にあたります。「御用聞き営業」と呼ぶと少し語弊がありそうですが、まあ、その類の方法です。

一方(2)は、近年のCRMシステムやデータベース・マーケティングといった手法の中にみられるやり方です。例えば多数の顧客に対し、その属性や過去の購入履歴、頻度などの記録を顧客データベースとして備え、その情報を軸にして自動的にDMをうったり、購買につながりやすいシナリオを描いたりして、それに沿った定型的な提案をする…、というやり方です。

(1)はリスク管理の“王道”かもしれませんが、1つ1つの対象(ここでは取引先)の性質を観察、分析するための人的資源確保や教育システム維持にコストがかかります。一方(2)は、対象の数が多数であっても、いや多数であるからこそ、システマチックに低コストで一定の利益を確保できるという見込みを立たせることが可能になります。

■リレーションシップ・バンキングとスコアリング・モデル
金融機関に話を戻すと、上記(1)が多くの銀行の伝統的な手法として定着しています。時には銀行の担当者が、融資対象企業の経営者とともに資金だけでなく経営全般のやりくりに頭を悩まし、あるいはその会社の社員といっしょに汗をかいて問題解決を進める。そんな涙ぐましい努力を重ね、その企業の体力を見極めていこうというやり方です。こうした、地域の企業と密着してきめ細かく融資判断を行う伝統的な手法は、今は「リレーションシップ・バンキング」と呼ばれているようです。

そして問題の「スコアリング・モデル」が上記(2)に該当します。やり方からいってリテール・バンキングをある程度の規模で展開する際に有効な手法といえそうです。身近な例でいえば、消費者金融やクレジット会社の一般向け融資システムがこれに相当するのでしょう。米国系金融機関ではスコアリング・モデルが中小企業の貸し出し業務に力を発揮しているとされていますが、それを日本で実践しようとしたのが新銀行東京の一つのコンセプトだったと理解しています。企業からみても、銀行の担当者と無駄に付き合わなければならないようなステップを踏む必要がなく、合理的です。

ようするにスコアリング・モデルとリレーションシップ・バンキングとはそもそもの方針が逆なわけです。システム面からして異なるモデルです。なのに、金融庁や銀行関係者とかからも、両者の方向を混ぜ合わせるような提案、提言があったりします。逆方向のコンセプトを足して2で割れば、答はゼロ。失敗が約束されているようなものでしょう。

今回の新銀行東京の問題では、相当の識者や経済誌でさえ、上に書いたような「数字を過信して手抜きしてはいかんよ」といった“数字過信説”を唱えていました。問題は、数字を過信したとか数字がいかんとかいう話ではなく、むしろ「数字で十分に考えることができなかったところ」(きちんとしたスコアリング・モデルをビジネスとして確立できなかったこと)にあると思うわけです。

(…と思っていたら、専門家の立場から、「スコアリング方式の本質が、全く勘違いされている」という記事が日経ビジネス・オンラインに出ていました。
見当はずれの新銀行東京批判
まさにこれ。こういう解説がされるのを待っていました)

■実質的な精算に向かっている?
都民の税金400億円が出資金として注入されたことで新銀行東京は一応救済されたことになっているようです。しかし融資残高が大幅削減されることなどから、もはやスコアリング・モデルが成立する前提が崩れているように思われます。実質的に同銀行は清算に向かっていると考えるのが自然なのでしょう。

落とし前のつけ方として、今すぐ破綻させるのが良いのか、400億円をどぶに捨てても敗戦処理をするのがよいのかは、金融の専門家でない私には判断できません。でも、専門家の方々も予測しているように、今回の400億円はそのまま無駄になる可能性が高いと、都民の一人として今のうちからあきらめておくのが精神衛生上よさそうですね (苦笑)。

*   *   *

なお、この銀行事業を推進した実質的なリーダーの言動と判断については、失望するばかりです。リーダーシップという観点から、これに関連した話題を次の記事で続けます。
(参考)
「新銀行東京調査委員会調査報告書(概要)」