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非関税障壁か、守るべき制度か(「築地」その3)

日本の流通システムは、かねてから閉鎖的と外部から指摘されてきました。しかし少なくとも生鮮品の流通に関しては、ローカルな制度が将来的にも高い価値を持ち続けるであろうことを、この本が示唆しているように思えます。

築地の挿絵
「築地」(挿絵)

テオドル・ベスター氏の著書についての話、「築地」「築地」その2の続きです。

■意図しない“非関税障壁”
またしても築地市場とは少し離れた話ですが、一昔前(1995年くらいまで)の日本のパソコン市場は、今と違って世界標準規格から逸脱した構造の商品が市場のほとんどを占めていました。なかでもNEC「PC-9800シリーズ」がその最大手で、国内でパソコンをまともな業務に使うには「98」以外の選択肢はなかったようなものでした。一方、日本を除くほぼすべての国では基本的に「IBM互換」タイプのパソコンが使われていました(さらに余談ですが、現在は携帯電話がこの状態―いわゆる「ガラパゴス化」―にあるようですね)。

その時代、海外(欧米やアジア)のパソコン業界関係者と話をしたときにときどき出てきた質問がありました。

「なぜ日本は世界標準に従わない? わざわざ独自の仕様を守り外国企業を締め出している。非関税障壁ではないか」

質問というより糾弾に近いニュアンスを含んでいたことを覚えています。そしてこの言葉の裏には、パソコンだけでなく、日本市場全般の閉鎖性に対する不信感があったととらえています。

日本のパソコン利用者という立場からすると、「わざと独自仕様を守る」意識など誰にもなく、ましてや国全体が一つの意思を持って外資の侵入を防いでいたというものでは決してありません。要因を列挙すれば、次のようになるでしょうか。

(1) IBM互換機の規格だけでは日本語処理機能(2バイト文字の扱いなど)が十分でなく、どうしても小手先の対応ではない、高いレベルでローカライズをする必要性があった
(2) メーカーも流通業者も、日本市場の特殊性やローカル色のある取引形態に対応することが商売上なにより有利だった
(3) 日本の主な電機メーカーは、(あえて海外の規格を持ってこなくても)独自規格と独自の商品を作り出すだけの実力があった
(4) ある時点で「98」がソフト資産を十分に蓄えてしまい、乗換えが難しくなった

その後パソコンの性能向上その他さまざまな条件が変化し、今は状況が完全に転換しました。「98」は姿を消しました。「IBM互換」という言葉さえ消滅したように、現在日本を含めた世界全域で使われているパソコンは、ほぼ共通したデファクト・スタンダードに沿った構造になっています(Macintoshは違うけど)。

そのほかさまざまな業種で、過去にあった非関税障壁はとりはらわれるか、少なくとも低いものとなってきました。金融、会計、その他の分野にまたがり閉鎖性が薄まってきたのが、1990年代後半から2000年代前半だったと認識しています。

■腐った魚は買い叩く!
この観点だけから見れば、築地のような生鮮品の流通機構は、外部からなかなか食い込めない閉鎖性を今でも持っていて、いずれなくなるべき対象といえなくありません。もし将来、卸売市場の制度が大きく変わり、強い外資ファンドが「築地」を乗っ取ろうとでもしたら、いったいどんな影響があるでしょう。

「未だに日本の流通システムは“変革すべき対象”なのだ」
「官営で市場を守るなど時代遅れだ」
「中にいる卸売業者も中卸業者も、自ら変わろうとする意思が弱い」
「旧来のやり方にこだわり、市場移転を何が何でも反対する勢力がいる」
「そんな腐った流通システムを買い叩く! 買い叩く! 買い叩く! 」(ドラマ「ハゲタカ」風……)

買い叩くのは「腐った魚」だけにしてください、とか言いたくなるかもしれません(笑)。

本書の著者も、築地を研究対象とした背景に次のような問題意識があったようです(少し意訳して表現)。
→政府の規制と政治的圧力が日本の独特な流通システムの原因と見る一派は、日本は故意に閉鎖経済を行っていると見ている
→日本経済は、その社会的・文化的生活の特性をなお保持しており、これは一夜にして消えるとは思われないと(その一派は)見ている
→本当なのか、その解を探りたい

■外部の変化が築地を消し去ることはない
日本の卸売市場システムの閉鎖性についても、かつてのパソコン市場と同様、「独自仕様を守る」という意識が先に立って出来上がったわけではないはずです。著者の問題意識から、本書のあちこちにその答が書かれていることを実感します(以下、パソコンの話の(1)~(4)と対応させて表現)。

(1′) 魚の食べ方や嗜好性には日本文化独自のこだわりがあるので、どうしても小手先の対応ではない、高いレベルで日本の食生活に対応した加工処理をする必要がある
…本書第4章「生ものと火を通したものと」などから納得できる。
(2′) 生産者も卸売業者も中卸業者も小売業者も、相互の特殊な取引ニーズに対応できることが商売上なによりも有利である
…縦横に編み上げられた「関係性」が強力すぎるということか
(3′) 築地の卸売人たちは、(あえて海外の取引システムを持ってこなくても)きめ細かい取引システムを自ら生み出せる資質があった
…著者は「築地は高度に秩序のとれた場所」と評している
(4′) ある時点で卸売市場のシステムが確立してしまい、乗換えが難しくなった
…これについては、市場法など中央集権的な政策が一役買っている

結論的に、築地魚河岸は一見伏魔殿のようでいても、
・開発途上国のバザールのようなものと異なるシステム性がある
・マグドナルドのようなシステムとも全く異質のシステムである
・決して非合理的というわけではなく、むしろ高度なものである
・だから、外部の変化が築地の社会的構造をきれいさっぱり消し去ることはないだろう
と著者は表現しています。

■築地移転問題にも一矢
他のブログや雑誌にある本書の書評に「それみろ、外国人だって築地の優秀さに言及している。だから築地の豊洲移転に絶対反対すべきなのだ」といった方向で感想が書かれているものをいくつか目にしました。本書に書かれている築地文化の“価値”が、移転反対派を勇気付けていると推測されます。

しかし、本書が築地移転反対論者の“バイブル”になるとも思えません。その理由は次のような点にあります。

・本書には“築地”の「功」は見事に描かれていても「罪」についてはわずかしか触れていない。「功」の部分だけを過大評価できない(前回記事の末尾参照)
・“築地”を成立させている文化的背景が堅固なものならば、それは豊洲に移転しても確実に受け継がれるはず(外部の変化が築地を消し去ることはない)
・素晴らしい仕組みがあったとしても、時には時代の変化に沿うように積極的に壊さなければ次に進めなくなるものもある(パソコン「98」のように…)

市場が移転しても移転しなくても、長期的に見るとどちらでもたいした違いではない気もします。

とりあえず、テオドル・ベスター著「築地」の書評(+α)はこれでおしまい。

日本的企業関係の生きた見本(「築地」その2)

築地の取引ネットワークは、上下左右に結ばれる市場のさまざまな関係性に支えられています。かつての縦の“ケイレツ”と横の同業者組合が織り成す日本産業界の特徴的サンプルが生きたまま現存しているかのようです。


〔水産物と自動車、それぞれ縦横の関係〕

テオドル・ベスター著「築地」(前記事参照)には、市場の関係性が具体的な事象から詳しく書かれています。たとえば卸→仲卸→買出人という縦の取引が日々繰り返されること。ここには有形無形の企業系列関係があること。加えて、たとえば多数の仲卸の間での競争と役割分担、さらには資本関係、姻戚関係作りといった横の交流が繰り返されること。そこに強い共同体意識が生まれたり消えたりすることなどが描かれています。

■各自動車会社が一工場の復活で助け合い?
突然話が変わるようですが、2007年7月に発生した中越沖地震で、新潟県柏崎にある自動車部品メーカー「リケン」の工場が被害を受けたことが大きなニュースになりました。リケンの部品を使っている自動車会社が揃って一時的な生産停止を強いられるなど、自動車産業全体に影響を与えました。

この件で、日本の自動車メーカー各社がリケンに人員を派遣し復旧に努めているという話を、関係者の方から聞きました。工場の復興支援に集まった人員は総勢数100人(?)だとか。リケンに自社の社員まで派遣する義務は本来ないし、あらかじめ支援策が準備できていたわけなどありません。なのに、工場の生産設備を1日も早く稼動させるためにこんな“共同プロジェクト”が突如できあがっていくとは、本当に驚きです。

もちろん、各自動車メーカーからすると、リケンという部品メーカーに有形無形の支援をすることで(主要な部品を優先してまわしてもらえるなど)結局は自社の利益を得られることを確信しているわけです。ライバルである他の自動車メーカーとは、なかには直接的な利害の衝突もあるのでしょうが、どちらかというと業界全体に関わる運命共同体的な関係が優先されていきます。

一方、自動車に限らず、かつて日本の産業を支えたといわれる企業系列が、一部新しい形で復活してきているといわれています。古い日本経済のケイレツ関係は「閉鎖的」「自己完結的」で、誤解を恐れずに言えば「醜い」ものだったと認識しています。でもバブル崩壊後、ケイレツは徐々に衰退しもっとグローバルで開放的な取引関係に変化していきました。だからといって企業系列的関係がなくなったわけではもちろんありませんし、技術やシステムを媒介とした新たな形のケイレツが現れているのは自然なことでしょう。

■「彼らのビジネスは頭の中と接触先に存在する」
結局は、冒頭の図に示したように、築地の水産物流通も、日本の自動車生産・流通も、複雑な縦横のネットワークが、“日本的文化の素地の元に”同じように縫い上げられていると感じます。本書に「ある日築地で火事が発生し、一部の仲卸店舗が焼けた。しかし縦横の関係者がいろいろな形で被災者を支援し、そのおかげで非常に短期間(例えば翌日)にも営業を再開し、その後まるで火事などなかったかのように日常業務が復活していた」といった事例が書かれています。リケン柏崎工場の被災復旧とイメージが重なります。

「取引関係の精巧な社会構造によって(火事などがあっても)立ち直ることができる。彼らのビジネスは頭の中と接触先に存在する」。そんな商人が“本当に”守りたいもの、絶対に失いたくないものとは、店舗という場所や物理的な資産ではなく、「特定の社会的コンテクストにおける自分の居場所なのである」と著者が表現していることに、なるほどと思います。これから連想すれば、リケンの工場復旧に他社がこぞって人を投入することができる背景にも合点がいくような気がします。

■一見非合理な流通システムも
概して日本の流通システムは、中間に入る卸業者が多く複雑で、そのために経済的な無駄があると信じられてきました。卸売市場の形態は、一見まさにその代表例です。生鮮食品の流通をぼんやりとしか認識していないと、卸売市場の非合理性は「悪の巣窟」のように映るかもしれません。

おそらく江戸時代から明治期までの卸売市場は、垂直統合の色合いも濃く、株仲間に代表される同業者組合としての掟ももっと厳しかったことでしょう。市場という限られた空間と権利を関係者が“ギルド”的に分け合い、その利権を上流(生産者)から下流(小売店)まで垂直につなぎ合わせる“ケイレツ”があったのでしょう。

しかしそれはにわかに捨ててよいものではなく、中長期的に見た合理性も内部に隠されていたわけです。さまざまな市場関係者が苦心して積み上げたり、壊したりしてきたことでしょう。その歴史の上に成り立っている現代築地の魅力的な姿を、当事者ではない我々読者が本書を通じて少しでも垣間見ることができることに、幸運を感じずにはいられません。

あえてそんな本書に少しだけ注文をつけるなら、築地システムの「功」と「罪」のうち、「罪」についてはほんの少ししか触れていない点でしょうか。背景にある文化や歴史や特性のプラスの部分は全編にわたって書かれていますが、本当に非合理なところとか、醜い悪習とかマイナス面についての記述はわずかです。このあたりもう少し分析してくれないかな、などと思うのは贅沢な注文でしょうか。

テオドル・ベスター著「築地」

築地魚河岸のことを一般の人が理解するために適した書籍といえるでしょう。公式の資料や説明書では埋もれてしまって見えない、中央卸売市場の日常やシステムについて、実に読みやすく書かれています。

つきじ
「築地」
【テオドル・ベスター(著)、2007年刊、木楽舎】

■著者の情報整理力
今年になって発刊された話題の本の一冊で、本当に興味深い本です。内容もそうですが、何といっても著者の情報整理能力に驚嘆します。

築地もしくは卸売市場システムというものは、喩えてみればジグソウパズルのようなもので、あれこれ関連資料を読んでみても複雑で今ひとつピンとこない場合が多いものです。特に公式の資料は、読み手におもねるほど平易な書き方をしていてさえも、結局わかったようなわからないような、隔靴掻痒の説明しかなかったりします。一方日常的に市場内で生きている人たちの言葉は、実感がこもって生き生きしているとはいえ、どうしても部分的なものになりやすく、ジグソウパズル全体のなかのどこに当てはまるピースを言っているのか、すぐにわかるとは限りません。

築地をはじめ日本の卸売市場システムについての説明は、「説明のしようがない」のではなくて、「説明のしようがありすぎて」かえって理解しがたい対象になってしまっているのではないかと思っています。ヒトやモノや土地や制度や法律や慣習…、などがそれぞれ関係性を持ちすぎているから、丁寧に説明しようとすればするほど、テーマがこんがらがってしまってわからなくなる。混沌とした説明を繰り返し浴び続けることで、やっとようやくぼやっとした全体像が見えてくる。そんな印象を持ちます。

ところがこの本の著者は、その“複雑すぎる関係性”を実にスマートに、かつ本質的な要素をわかりやすく説明しているような気がします。章単位で「軸」があり、その軸に沿って見事な解説をすることに成功していると思うのです。

〔目次〕
第1章 東京の台所
第2章 掘られた溝
第3章 埋立地が築地市場に変わるまで
第4章 生ものと火を通したものと
第5章 見える手
第6章 家族企業
第7章 取引の舞台
第8章 丸

■文化人類学者としての興味深い視点
たとえば「築地の1日は誰がどのように活動しているのか」を手っ取り早く、かつ的確に理解するためには、おそらく他のどの書よりも本書第2章を読むのがよさそうです。

「築地の過去、その前身である日本橋魚河岸、卸売市場の歴史」を江戸時代初期にさかのぼって手っ取り早く、かつ的確に理解するためには、他のどの書よりも本書第3章を読むのがよいかもしれません。

第4章では、魚をはじめとした動物に対する文化的な違いについて言及しています。鯨やイルカを擬人化する米国人の感覚に対する、鯉が食用にも高価な観賞用にもなる日本人の感覚など、生物の本質的性格とは関係のない「動物たちを想像しカテゴリー分けする方法」が国により違うのだということには納得させられます。そしてそれが日本の魚河岸の性格にもはっきり影響していることなど、著者の(経済学者でない)文化人類学者らしい記述がもっとも顕著に記されている章かもしれません。

そして卸売市場の主役の一人である「卸売業者」の話が第5章。もう一人の主役で同じ流通業でありながら卸売業者と相当に異なる「中卸業者」の話が第6章。制度の話が第7章。このあたりが本書で中心となる章でしょうか。そして“筆者なりの民族学的結論”が第8章、という具合です。

卸売市場、なかでも特に魚市場という非常に限られた範囲に対象を絞って解説された本ではありますが、読んでいくと他業界の仕組みや特質にも当てはまる事情が浮かんできます。日本経済に関連して永らく疑問だったことが、本書から突然納得できてしまうなんてこともありました。「文化」に根ざした視点からの説明があるからでしょうか。

本書の書評は他に多数あると思います。本サイトでは書評というより、少し本書に関連する話題について話を続けたいと思っています。

▽追加記事:
日本的企業関係の生きた見本(「築地」その2)
非関税障壁か、守るべき制度か(「築地」その3)

かつての市場移転(「神田市場史」より)

神田多町(たちょう)にあった青物市場と日本橋にあった魚市場。移転計画が出てから実際に新市場に移るまで、なんと60年近くもかかっていました。

神田市場史
「神田市場史」(上・下刊)
【神田市場協会・神田市場史刊行会(編)、1968年(上巻)・1970年(下巻)、文唱堂】

■100年前の議論と今の議論が重なる
別の目的で寄った図書館でたまたま目にしたこの資料に目を通し始めたら面白くなって読み進めてしまいました。ちょうど都知事選で築地市場の豊洲移転問題が再燃している折、明治時代の市場移転問題や市場関係者の生の声が詳しく書かれていて、やけに現実味があるのです。100年以上前に議論されていた内容と、現代の議論とが相当重なるところがあり、なんとも興味深いものです。

上下刊合わせて約3000ページ。図書館で短時間に読めるわけもなく、つい借りてきてしまいました。重さにして4.5kg。資料を鞄に入れて持って帰るのは重かったです(笑)。

こんなレアな資料を「書評」とするのは相応しくないかもしれません。でも、これまで「豊洲卸売市場と財政問題」ほかいくつか、東京の中央卸売市場に関連する記事を書いてきた視点も踏まえ、この本にかこつけて少し雑談させてください。

■350年の歴史を編纂、その20年後に閉場
本書は、「今日(注:1970年時点)名実ともに最高最大の青果市場として全国に君臨している」神田市場について、江戸時代初期に発祥してから昭和の高度成長の時代までの記録を洗い、資料的にまとめることが目的で編纂されたものです。同時期に神田青物市場と並び発展していた日本橋魚市場と比べて資料が「天災戦災等で殆んど消失」してしまっているため、残存する資料があるうちにまとめて「栄誉ある市場の歴史を永久に保存し且将来の発展に備え」ようとした模様です。

17世紀に市場が形成されてから明治時代まで、神田市場は今の神田多町2丁目を中心に、神田須田町、神田鍛冶町、神田司町周辺にありました。この市場が今の秋葉原駅近くに移転したのが昭和3年(1928年)、本書が編纂されたのがその約45年後です。
しかしご存知のように、その後20年も経たない平成元年(1989年)に、神田市場は廃止されました。その機能は主に同年に開場した大田市場に引き継がれています。江戸時代から数えると350年もの歴史が、本書編纂後わずか20年で幕を閉じるとは、この書の編纂者は予想していたものでしょうか。

■「お上のお達しと言われてもねぇ!」
卸売市場といっても、江戸時代から明治時代は今のようにクローズドな施設内部で取引が行われていたのではなく、町の往来(ようするに道端)に広く商品を広げて商いを行っていた形でした。江戸が栄えるに従って交通の便利な場所に市場が自然発生的に発展したわけです。神田については、神田川の周辺に蜜柑などの荷が多く揚がるようになったことが市場形成の重要な要因だったといわれています。

しかし便利な地域にこそ市場ができるものの、町が大きくなると今度は交通往来の問題、景観の問題、衛生の問題などが発生します。明治初期でも神田多町周辺はかなり人や車(荷車や荷馬車)の往来があった様子が、本書などに掲載されている風俗画から窺われます。そして主に為政者、街づくりを計画する者から、市場を郊外に立ち退かせるほうがよいという意見がたびたび出てきます。

一方、長い間市場で商売をしていた人たちにとって移転は死活問題で、お上の一方的な移転計画をすぐに受け入れられる余地はもちろんありません。日常の食材を毎日提供する機能を持っているので、(そしてそれはすぐに代替が利かない複雑な経済的機能なので)為政者も強権一本で市場をどかせることがままならない…。市場移転の問題は、常にこうした構図で進んできたといえそうです。今の市場移転問題も、ほとんどこの構図が変わっていないのではないでしょうか。

■東京府知事の命令→すぐに取り消し
明治維新で幕藩体制下の特権が否定され、市場でも商売上もそれまであった古い株仲間は解散対象になりました。しかし現実には多くの妥協がとられ、それまでの商人が持っていた流通機能は当然のように引き継がれることになります。明治初年の時点で東京府内の市場の整理統合はかなり行われましたが、「青物は神田多町」「魚は日本橋」として両者の卸売機能の中心的役割を持ち続けます。

そして(以下、表現は少し脚色)…

〔明治5年(1872年)〕
<゜。゜> 東京府知事・大久保一翁:「神田多町(※1)の市場は交通に邪魔だ。首都の美観上も見栄えも悪い。近くに外神田の鎮火社境内という適当な空き地があるから(※2)、そこに移れや」
< ‘ヘ’ > 神田市場の問屋勢力:「やだ! 政治力に訴えて、そんな計画潰してくれよう」

実際、命令はすぐに「取り消し」と相成りました。本書では「その理由は明らかでないが、…中略…神田市場の問屋勢力というものが、当時の市政の中で相当な発言力を持っていたらしいことがうかがえる」と書かれています。

(※1 市場移転の対象は神田多町だけでなく、日本橋魚市場ほか他市場もセットになっていた。移転理由はどれもほとんど同じ)
(※2 明治2年に神田相生町から起こった火事が大火になったことがきっかけで、神田佐久間町に火除地と鎮火社が設立された。その鎮火社には遠州 ― 今の静岡 ― の秋葉大権現の分霊を祀った。ここから 秋葉の原→秋葉原 という地名が発生している)

■神田の卸売市場が移転するのに56年
その後、明治9年には神田多町市場が火事で消失するといったことまであったようですが、引き続き神田市場も日本橋魚市場も営業を続けます。

〔明治17年(1884年)〕
<゜。゜> 東京府知事・芳川顕正:「東京市区改正だ。まずは中心地区の日本橋や神田から一新する。市場移転は当然だ」
< ‘ヘ’ > 内務卿・山県有朋:「財政上の理由で却下!」

〔明治21年(1888年)3月、8月〕
<゜。゜> 政府:「東京市区改正条例案ができた。もちろん市場は移転せよ」
< ‘ヘ’ > 元老院:「廃案!」
<゜。゜> 政府:「もう一回、条例案出したる。元老院なんぞ無視じゃ!」

〔明治22年(1889年)〕
<゜。゜> 政府:「内務大臣訓令を出したぞ。決定だ。10年以内に移転せよ。移転費用は自前で持て」
< ‘ヘ’ > 市場関係者:「やだ! 200年以上も営んでいる場所を、しかも自分で費用負担して引き払えだと? ありえない!」

〔明治23年(1890年)〕
<゜。゜> 政府:「この抵抗の様子じゃ10年以内は無理かもしれん。『延期もありうる』とでもしておこう」

この時期、明治23年には上野から鉄道の線路が南に伸び、秋葉原に貨物駅が開かれました。24年には東北本線が青森まで全面開通。それまで主に船便で集荷または出荷されていた神田市場でしたが、ここで鉄道と船の両方が交わる交通の要所となります。多町から秋葉原への移転も、それを前提とした計画として進められたようです。

■移転期限延長の連続
さらに続きます。

〔明治32年(1899年)〕
<゜。゜> 政府:「10年の期限が来たぞ」
< ‘ヘ’ > 市場関係者:「知らんがな!」
<゜。゜> 政府:「5年延長してやろう」

その4年後の明治36年、東京市会は内務大臣向けに「市場移転廃止に関する意見書」なんぞというもの提出しているようです。

〔明治37年(1904年)〕
<゜。゜> 政府:「5年の期限が来たぞ」
< ‘ヘ’ > 市場関係者:「知らんがな!」
<゜。゜> 政府:「仕方ない、さらに5年延長してやろう」

〔明治43年(1910年)〕
<゜。゜> 政府:「もう期限は過ぎとる。移転する気はないのか~」
< ‘ヘ’ > 市場関係者:「ない!」
<゜。゜> 政府:「もう3年だけ延長してやろう」

面白いのは、この時の移転派、移転反対派どちらの言い分にも「衛生問題」が持ち出されていることです。移転派は「今のような状態じゃ衛生的に問題がある」。反対派は「衛生的な問題は施設を改良すればよいことだ」。まるで、現在の築地→豊洲移転問題の議論が100年前から続いているかのようです。

しかしこの間、日清戦争(1894)と日露戦争(1904)を経て、明治後期になると神田市場に集まる青果物はかなり増大し、市場の手狭感は強くなったようです。そして第一次世界大戦(1914-大正3年)の時期には水上輸送が減り、鉄道輸送が主力となるに至ります(このあたりの数字が本書に資料として掲載されている)。この時期になっても、市街地の中心に卸売市場が開かれているというのは、さすがに不自然とされるようになっていったようです。

・明治36年(1903年):万世橋が鉄橋となって新たに開通
・明治41年(1908年):昌平橋停車場(仮駅)開業
・明治45年(1912年):万世橋駅、東京のターミナルとして開業
(参考記事:「交通博物館閉館」)
・大正3年(1914年):東京駅開業(万世橋駅は単なる途中駅になった)

■市場法と関東大震災が市場移転を促した
第一次大戦戦後すぐの大正6年から7年に強烈なインフレーションが起こり、その後全国で米騒動が勃発します。この時期は、卸売市場は儲かって仕方がない業者も少なくなかったのでしょう。卸売業者にとっては一種のバブル景気だったのかもしれません。しかしこれを一つの契機として経済統制の方向が強まり、大正12年(1923年)に「中央卸売市場法」が成立します。

この「市場法」は物価安定策の一環という大目標があったわけですが、一方では言うことを聞かない卸売市場をなんとかコントロールしようという狙いもあったとのこと。本書によると、この法律は「市場を統制すること、特に神田市場の勢力をさくこと」を目的としたものだったとされています。政治的な側面から神田多町市場が制限を受けるとともに、同じこの年の9月、関東大震災で市場設備が壊滅的被害を受けるわけです。

これらがその6年後、昭和3年(1928年)の新しい神田市場への移転につながる決定打となったといえそうです。日本橋の魚市場についても、震災被害が決め手となって翌年に築地市場建設が議決されます。途中、芝浦の仮設市場を経由するなど時間はかかったものの、なし崩し的に日本橋の市場はなくなり、昭和10年(1935年)開場の築地市場へ受け継がれることになります。

■経済的メカニズムと為政者の意思決定
市場移転といっても、日本橋はともかく神田については多町から目と鼻の先の秋葉原に移動するだけです。たったそれだけで60年近くの年月がかかってしまっているのは驚かされます。わかるのは、

・こと食料品の流通機構については、お上の強権だけで問題は決して解決しないこと
・かといって市場関係者にとっても、物流などを含めた経済的メカニズムを無視して既得権益を守ることができないこと
・(良し悪しはともかく)悲しいかな、火事や震災などの災害がこうした大規模施設移転の重要なきっかけとなること
でしょうか。

今の築地→豊洲移転問題についても、無理やりこれらになぞらえて言えば、次のような仮説が成り立つかもしれません。

・たった1人の都知事の判断で市場移転の意思決定が決定的に左右されることはたぶんなく、いろいろな関係者の合意によってのみ移転は実現すること(移転のスピードは変わるかもしれませんが)
・移転の成否は経済状況に大きく依存すること。現代はすでに卸売市場が唯一の青果・鮮魚流通チャネルではないだけに、希望的観測(計画経済的な思想)だけで将来の卸売市場の経済規模を推し量ることはできないでしょう
・(問題のある言い方だと思いますが)次の東京大震災がいつくるかで、移転問題も豊洲新市場の成否も左右されるであろうこと。どう転んでもリスクがとれるよう考えておくのがよさそうです

大変無責任な感想を許してもらえば、
・豊洲移転を含めた市場の計画の内容は、いろいろなバリエーションを早めに練っておくのがよさそう
・でも、実際の移転は無理に急ぐ必要はまったくなく、柿が熟して落ちるのを待つ姿勢でよいのではないか
なんてことを、本書を読みながら感じました。

本書の情報量は膨大なので、“つまみ食い”したような読み方をしているだけです。短くまとめようと思っていたのですが、神田市場の移転についてだけでもずいぶん長くなってしまいました。この本に関連して、引き続き記事を書く予定です。

「ドラゴンフライ」3-官僚組織化する宇宙機関

ある時期の成功の代償として、長い間に組織が官僚的になる。宇宙機関に限らず、一般の組織でよく起こる現象なのでしょう。

「ドラゴンフライ ― ミール宇宙ステーション悪夢の真実」(上)(下)
【ブライアン・バロウ(著)、北村道雄(訳)、寺門和夫(監)、筑摩書房、2000年】

本書で描かれている問題発生の背景を簡単な図で表してみました(説明後述)。
Dragonfly-org.gif

■「組織を牛耳る影の支配者」
これまで2回の記事(「ドラゴンフライ」1「ドラゴンフライ」2)で、ミール・スペースシャトル・ミッション(フェイズ1プログラム)に関わった宇宙飛行士たちの醜態を紹介しましたが、本書ではNASA上層部についても容赦していません。とくに「組織を牛耳る影の支配者」ジョージ・アビーという男の話がとくに“いやらしく”描かれています。

詳細は本書第2章を読んでいただくとして、概ね次のような成り行きがあったとされています。

・アビーは飛行士選抜に決定的な権限を持っていた
・アビーに気に入られるかどうかが飛行士たちにとって重大な問題となった
・アビーは陰険なやり方で気に入らない人や意見を排除していった
・スタッフは常にアビーの顔色を窺いながら仕事を進めるようになった

アビーはいったんNASAから排除されワシントンで職につきますが、そこでかえって政府中枢に取り入れられるチャンスを得ます。1992年にNASA長官の懐刀のような立場でNASAに戻り、政治的な力をさらに振るうようになります。

■“伝説の管制官”物申す!
アポロ時代のNASA地上管制官のジーン・クランツという名前をご存知の方は多いと思います。映画「アポロ13」ではエド・ハリスが演じていた実在の人物です。本書にもクランツの証言がところどころに出てきますが、とくに次の証言に注目できます。

「20年前に私たちが仕事をしていた頃、管理職についていたのは下からはいあがってきた者ばかりで、部下から尊敬されていた。問題を解決するためにときには激しい言葉の応酬もあったが、率直に議論ができた。でも今は雰囲気が違う。管理職をやっているのは誰かの都合のいいように選ばれた者たちで、下積みの経験もなく十分なコミュニケーションのもととなる健全な敬意も持ち合わせていない。もはや自由で率直な話し合いをできない」

そしてその元凶がアビーだとしています。アビー自身はアポロ時代の現場から昇進していった人間なのですが、結果としてはNASA官僚組織化の道を敷いてしまう主役を演じたのかもしれません。

■じゃあ、昔は本当によかったのか?
もっとも、ここではアビー1人が完全なヒール(悪役)のように描かれていますが、実際の責任の所在はもっと複雑だったと個人的には推測します。少なくとも、アビーのやり方はクランツをはじめとした先人たちを受け継いだ結果であることは明らかです。

例えば「宇宙飛行士の人選に強大な権限を持っていた」というのは、アポロ時代のディーク・スレイトンやアラン・シェパードのやり方そのものではないのでしょうか(参考:「月の記憶 アポロ宇宙飛行士たちの『その後』」)。また、成功者として位置づけられているジーン・クランツとスペースシャトル時代の管制官とで、プロとしての意識の差がそんなにあるとは思えません(“体育会的な熱意”には差があったかもしれませんが…)。

おそらく…。(アビー側からの釈明がないので)勝手な推測ですが、アビーは官僚組織の元凶と本書に書かれていることを相当に“的外れ”と受け取っているのではないでしょうか。あえてアビーの肩を持つと「あんたら先人の成功したやり方を踏襲し、かつ政府が指示する予算削減と折り合いをつけ、かつ属人的にならないシステム作りに尽力した結果なのだ」なんて反論したくなるかもしれません。

そしてこうした、当事者にとっては理不尽とも思える経緯こそが“官僚組織化”の本質なのではないかとも思います。過去の成功や安定は、長い時間をかけてシステマチックになるなかで、結局マイナス面をもたらしていくものなのでしょう。

■ロシア側にも多くの問題
ロシア宇宙局についてはNASAほど詳細に描かれていませんが、「NASAよりさらに強固な官僚的習慣があった」とされています。飛行士が目の前で大きな危険に遭遇したとき、管制側がその報告を「誇張した夢物語」としか受け取らず信じなかったなどいう、それこそ信じられないことが結構あったようです。そのほか、ロシアの官僚組織としての弱点、国の資本主義化に伴う問題点などが次のように語られています。

・ミールの技術的情報は必ずしもドキュメントになっておらず、関係者の頭の中だけに存在していたものが多かった。しかも、技術上の秘密を守ることに極めて用心深く、米側の問い合わせに応じないことも少なくなかった
・ロシアの宇宙服や宇宙ステーションの欠点は、矮小化されたり非公開だったりした
・予算が削られる中、ミール維持のためにさまざまな方法で商売をしなければならなかった。
→CMの撮影優先や“お客さん”の招待(例えば日本のテレビ局の記者搭乗)など
・ロシアでも宇宙に飛び立つための「契約書」を飛行士と交わすようになった。
→実験の回数、船外活動の回数、失敗をした場合の罰金の取り決めができた。
→その結果宇宙飛行士は宇宙で都合の悪い情報を地上に伝えなくなるようになったり、準備不足の船外活動を強行したりするようになった

そのほか、ソビエト連邦の崩壊と民主化が組織を取り巻く環境に大きな影響を与えていたことがわかります。ミールの技術を実質的に引き継いでいたエネルギア社は民間企業へと転換しました。それまで“国内”だったウクライナ(ミールの自動ドッキング・システムを作っていた会社がありました)やカザフスタン(ロケットの打ち上げがされるバイコヌール宇宙基地があります)が外国となり、それぞれ複雑な交渉を必要とするようになっていきました。

■米ロの文化の違い
遡って1960年代米ソ宇宙先陣合戦の頃から、ソ連の宇宙計画全体に流れる人命軽視の空気に対して、アメリカ側は常に不安を持っていたとされています。実際、NASAは何か重大な(とくに人命に関連する)問題であれば、きちんとその原因を追求しその対応策を施すという姿勢があります。成功しているかどうかは別にして、たしかにチャレンジャー事故後は3年間、コロンビア事故後は2年半、スペースシャトル計画を中断してでも問題解決に時間を割いています。

一方ロシアは、何か事故が発生しても、外から見た目では何かよくわからない程度の改良を施したようなイメージで、ケロリとした顔をしてまた宇宙に飛び立っていくかのようにみえます。これが、NASAの宇宙飛行士たちに「ロシアは人命を軽視している」という不安を常に持たせることとなったようです。

「双方の考え方に絶えず断絶があった」のは、容易に想像できます。そして米ロ双方の組織風土や環境の変化や文化の違いが、フェイズ1プログラムのいざこざにつながっていったといえそうです。原因の一つひとつは“遠因”かもしれませんが、かなり本質的な原因として位置づけられるでしょう。

■官僚化による現場サポート機能の不全
望ましいサポート体制として、冒頭の図のような流れが考えられます。

・クルーが(事前準備も含め)何か問題に直面したとき、地上スタッフへ素早く状況報告や問題解決の依頼をする
・管制官など地上スタッフは必要十分な情報をクルーに提供し、現場段階で処置できるものは対応する
・組織的な(上層部の判断が必要な)対応が必要な問題については、それを組織に素直に依頼する
・組織としては、なるべく現場の負担軽減につながるようサポートする

しかし本書に描かれている数々のアクシデントおよびインシデントからは、次のような構図が見て取れます。

・組織から地上スタッフに、方針徹底などの強い命令が下される
・それを受けた地上スタッフは、クルーにあれこれ指示する。結果的に現場(宇宙)での活動そのものを制約していく
・クルーは身動きが取れなくなっても、正確な状況を報告できない。または報告しても解決されなかったり、地上からの情報提供が不十分であることが続いたりして、状況報告そのものをあきらめてしまう(自ら解決するしかないと考えるようになる)
・地上スタッフも上下から板ばさみになり、責任逃れが先にたつなどして、組織に対して有効な働きかけができなくなる

結局、クルーと地上スタッフ、その後ろの組織の3者間で誤解を生じ、深刻な対立関係を生むことになります。本書ではこれについて、関係者の次のような証言が紹介されています。

「ほとんどの場合、問題の出所は組織だ。クルーや地上チームが組織の上層部にサポートしてもらえていない。問題の80%はこうしたことから起こる」

宇宙飛行プログラムに限らず、一般企業でよく発生する構図ですね。その意味でも、本書で描かれている組織問題の数々は、我々組織人にさまざまな示唆を与えてくれるような気がします。

この本が書かれた後の話になりますが、NASAの組織的な問題点は、スペースシャトル・コロンビア号の事故にも確実に関連しているでしょう。また、現在進められているISS(国際宇宙ステーション)では、日本をはじめ数カ国の共同ミッションとなっています。米ロ2カ国であってもそれぞれの責任範囲が定まっているとそこに他者が口を出しにくくなることが本書から読み取れますが、本書に描かれているような危機的経験をぜひ教訓にして、ISSで同じような深刻な問題が起きないよう期待したいところです。

「ドラゴンフライ」の書評(+α)を3回に分けて長々と書きましたが、書評としてはこれで終わりです。でも、ここで出てきたテーマ(組織、人材、宇宙など)について、今後もいろいろ触れるつもりでいます。