銅板建築 4-洋品店からギャラリーへ変身

銅板建築の代表例として知られている築地の洋品店「若松屋」がギャラリーに変身しました。時代に応じて商売の形を変えることはビジネスの大原則の一つ。歴史のある銅板建築が、商売の変遷とともに活き活きと生き残ってほしいものです。

ぎゃらりー若松屋概観
〔生まれ変わった若松屋〕

■時代に応じた商売替え
東京築地にある銅板建築の店「若松屋」が、昨年12月に洋品店からギャラリーに衣替えしました。店名は「つきじTASSギャラリー若松屋」。店が生まれ変わってもう半年になります。先日訪れたときには銅板建築の建物の絵画などが展示されていて、店主の佐藤昌弘氏が暖かく話をしてくれました。

佐藤さんの説明およびいただいた説明書きによると、この店は江戸時代にできてから、
藍染屋→手甲脚絆屋→足袋屋→駄菓子屋→足袋屋→荒物屋→洋品店→ギャラリー
と展開していったそうです。銅板建築になったのはもちろん昭和のはじめですが、戦時中焼夷弾の被災を受けたとき、近所の人とパケツリレーをして被害を防いだとか。

この店に限らず、きちんと残っている銅板建築の家はどれも「歴史的建造物」です。そして、単なる見世物として残るのではなく、実用的な店舗(または住宅)として残ることに大きな意味があることでしょう。

※つきじTASSギャラリー若松屋:〒104-0045 中央区築地6-12-3
(同店のwebサイトはありませんが、web上には多数の記事があがっているようです)

■「所有権と使用権の分離」の仕組みを
銅板建築に限らず住宅兼店舗の場合、そこに居住している家族が商売(店舗)と一体になっているところが多いだけに、店を継ぐ方がいなくなると「商売替え」が難しくなります。閉店したままひっそりとしてしまったり、家ごと取り壊されたりします。商店街の衰退の一因も、こうしたところにあります。

しかし、時代に応じた商売は常に必要とされています。また、古い歴史を持ったヨーロッパの街によくみられるように、建物は何百年も利用され続けることでその街が豊かに感じられます。商売の中身は変わっても生き続ける“芯”のようなものが価値を高めているのでしょう。

そのためにも、店(建造物)とそれを運営する商売人が、ある意味「分離」される仕組みが必要かと思われます。つまり、「住んでいる人がそこで商売をする」ばかりでなく、「住んでいる人(または所有している人)が、商売人に店舗を貸す」という仕組みがもっと働けば、建築物や歴史が継承されながら商売も時代に応じて続いていく。そして街全体の価値が高まっていく…。

実際に「所有権と使用権の分離」を仕組みとして推進していることで有名なのが香川県の丸亀商店街です。空き店舗が増えることを防ぐため、商店街振興組合が地権者から預かった土地を管理し、街全体の再開発コンセプトのもとで新たなテナントの誘致に成功しています。

参考:
にぎわい商店街 丸亀町商店街(中小企業ビジネス支援サイト)
高松丸亀町商店街 再開発について:事業スキームの特徴

■銅板建築でメイド喫茶を!
東京の場合は、地震という名の破壊神ゴジラが時々現れるだけに、「歴史的」と呼ばれるまで生き残る市井の建造物は少ないのかもしれません。でもそれだけに、生き残った粋な建造物には長生きしてもらいたいものです。

たとえば銅板建築の店でメイド喫茶を開くとかいうのも、なかなかオツなものではないですか(笑)。

▽関連記事:
銅板建築 1-“昭和元年”が消えていく
銅板建築 2-古い店舗を活用し地元活性化
銅板建築 3-また1軒消えた!

「ライディング・ロケット」

“ぶっとび宇宙飛行士”の軽快な自伝。企業経営の立場からは、NASA組織の問題点についての生々しい描写が特に気になります。宇宙飛行士を目指す方にとっては、宇宙飛行士という仕事の実像について触れられる良い材料だと思われます。

ライディング・ロケット
「ライディング・ロケット」(上下巻 概観)
【マイク・ミュレイン(著)、金子浩(訳)、2008年刊(原著は2006年刊)、化学同人】

■下ネタ満載、本音も満載
この2月にJAXA(宇宙航空研究開発機構)が10年ぶりの宇宙飛行士選抜を発表して以来、当サイトに「宇宙飛行士」をキーワードにしてアクセスされる方が増えました。特に宇宙飛行士の選抜について書いた記事「中年ドクター 宇宙飛行士受験奮戦記」をご覧になる方がどっと増えたのがここ数カ月の特徴です。その選抜時(10年前)の合格者である星出飛行士が乗り込むスペースシャトルSTS-124ミッションは、打ち上げがまもなくに迫っています。

本書「ライディング・ロケット」は、“著名な宇宙飛行士が書いた真面目な記録”というものからは程遠いユニークな本です。一言で言うと、下ネタ満載のとんでもない本(笑)。たとえば「コンドーム」という言葉が一体何回出てくるか、女性差別的発言が何回出てくるか…。さらには、宇宙空間でエイリアンと会って合体したとかいう冗談まで言い出す始末。真面目な記録の中にこうした下ネタが1つでもあると問題視されそうですが、上下巻で600ページ超(日本語訳版)、全42章にわたる長編の半分をこうした下ネタで確信犯的に埋め尽くしていれば、もうそこには違和感など持ちようがないのが面白いところです。

“ぶっとび”の理由は、物語の半分を占める下ネタばかりではありません。残りの半分には、下ネタと同じ軽いノリで書かれていながら、内容的にはNASAという組織内部の特定の人たちに向けた「辛辣な批判」が満載されています。しかし、辛辣な批判の数々も笑いの種と一緒くたになって語られていることが、これまた妙に悪い気分を読者に感じさせません。実にうまい味付けになっています。

■秘密主義が組織・メンバーの士気を損なう
1970年代から80年代にかけて、ジョンソン宇宙センターで絶大な権力を振るっていたジョージ・アビーという人物がいました(当時「搭乗員運用管理局長」)。この人については、宇宙ステーション・ミールを舞台にしたノンフィクション「ドラゴンフライ」でかなり辛辣に描写されていて、そのことを本サイトでも採り上げました(参考:「ドラゴンフライ」3-官僚組織化する宇宙機関)。しかしアビーを糾弾する度合いにかけては、本書の方がさらにスゴイ。著者ミュレインたちがアビーの命令の下で辛い思いをしていたときの、悲鳴のようなものが聞こえます。宇宙飛行士たちにとってNASAに棲息する元凶のような存在だったと…。

かいつまんで言うと、
・アビーは宇宙飛行士たちのミッションへの割り当てに関する権限を一人で持つなど、専制的に振る舞い、そのために多くの宇宙飛行士がアビーを蛇蝎のように嫌っていた
・アビーは自分がコントロールできないコミュニケーション・ルートが組織内に生まれることを極度に嫌い、結果として組織内に疑心暗鬼を生んだ
・アビーは飛行士割り当てのルールをほとんど示さず徹底した秘密主義をとり、その結果として宇宙飛行士の士気を損なっていった
などです。

著者については、宇宙飛行士になってから相当に長い間待たされた挙句、アビーからやっと初フライトの割り当てが言い渡されました。それはスペースシャトルの新しい機体ディスカバリー号の初フライトでした。そのときのことを、こんな風に表現しています。

「私たちは(アビーから)ディスカバリーの初飛行をまかせられた。ストックホルム症候群の人質のごとく、私たちは皆、平身低頭して(アビー)に感謝した」。

■問題解決の必要性がわかっていても、手をつけられない
こうした事例は、現代の企業組織でもときどき発生しているモデルとも言えるでしょう。

→トップが何らかの面(営業的な実績があるなど)で優秀な場合、権限を最大限発揮し、できる限り組織を自分の管理下で動かそうとしがちになります。
→多くの場合、組織内の横のコミュニケーションを(口ではともかく本心では)あまり好みません。
→これが組織に浸透してくると、トップ下の管理職までもがそれぞれ主導権を取り合い、権力のせめぎ合いが起こりがちになります。
→権力者に擦り寄り、おべんちゃらを言うメンバーが増える一方、互いに裏では悪口ばかり言う、ひねくれた組織風土ができてきます。
→仕事に対しても、本来の目的や効果より社内力学や諦めが前面に出てきて官僚化が進みます。

そんな事例は、いろいろな会社に関わっていると何度となく実際に目にされるものです。

本書および「ドラゴンフライ」のアビー評/NASA評はほぼ一致しています。つまりこの時代のNASA(少なくともジョンソン宇宙センターなどスペースシャトルのプロジェクトを企画・運営する組織)は、アビーの専制的管理体制の下、そんな危険な組織風土を持っていたことが確かなようです。きちんと問題点がしかるべきところに伝わらない、もしくは問題解決の必要性がわかっていても誰も手をつけられない…。本書からは、宇宙飛行士たちのそんなもどかしさと危機感が読み取れます。

そんな体制が1986年のチャレンジャー号事故と2003年のコロンビア号事故につながったことを、著者は、軽めのノリの文章でオブラートに包みながらも、“当事者として”説得力ある説明をしています。なにしろ、宇宙飛行士の割り当てが少し違っていただけで、著者自身が事故を起こしたチャレンジャーに乗り組んでいた可能性があったのです。現実は、著者の特に親しい同僚のうち何人かがこのチャレンジャー事故で亡くなっているのを目前に見ています。

さらに、チャレンジャー事故後再開されて間もなく著者が乗り組んだSTS-27ミッションでは、打ち上げ時に(後の)コロンビア事故と似たような損傷を受けていて、帰還時に700枚の耐熱パネルが剥がれていました。それを帰還前にクルーも地上も認識していたにも関わらず、“賭け”のようにして帰還(大気圏突入)を命令された経験がありました。後から考えると、このときコロンビア号のように空中分解せずにすんだのは、まさに幸運に助けられた結果だった模様です。

■優秀な人も、役職次第で害となる
アビーと並んでもう一人、著者を悩ましたとされるのが、アポロ時代のムーンウォーカーの一人ジョン・ヤングとのこと。ヤングは、ジェミニの時代から宇宙飛行の経験を積み、(失敗して命を失う危険がかなりあったとされる)スペースシャトルの初フライトにも船長として乗り組んだ、いわば全世界で最も経験を積んだ宇宙飛行士とも言える人です。本書が書かれたこの時期のヤングは「宇宙飛行士室長」で、現場を取りまとめる最高責任者のような役割を持っていたはずでした。

ヤングについては、「月の記憶」という本の中で、心をなかなか開かない気難しい男性であるような描写がありました(参考:「月の記憶 アポロ宇宙飛行士たちの『その後』」。「月の記憶」を読んだときはどうも腑に落ちないヤング評でしたが、本書を読むとさらに意固地な性格があったことがわかります。

ヤングの直接の命令で動いていた著者が、あまりのヤングの聴く耳の持たなさに閉口させられ、たびたびヤングの激怒の対象となり、敵視され、精神的に追い詰められてしまう…。本書にはそんな経緯がけっこう細かく描かれています。挙句、著者は理不尽なプレッシャーにより精神的にダメージを受け、意を決して精神科の医師を訪れるに至ります。
「ヤングとアビーのせいで頭がおかしくなりそうなんです」。

そこで精神科の医師からは、こんな言葉が返ってきました。
「同僚の宇宙飛行士のみなさんから(同じような話を)うかがってますよ」!

著者をはじめ宇宙飛行士の誰もが、ヤングの“宇宙船を操る技量や勇気”を高く評価してはいたのは事実のようです。しかし、管理職という役職としてのヤングの力量はかなり弱かったことがうかがえます。いくら優秀な人も、その人に合わない役職につけられると、本人も周囲も不幸になるという典型のようです。その他、組織やリーダーシップについて考えさせられるケースがいくつか紹介されていますので、興味のある方はぜひ本書を読んでみてください。

いずれヤングもアビーもそれぞれの役職を去ることになるのですが、それを惜しむものなどいないどころか、皆揃って祝杯をあげるほど喜んだそうです。アビーの送別パーティーが行われたときは、本人を前にしながら、暴君的振る舞いに対する痛烈な批判と皮肉が浴びせかけられるほどだったとのことです。

■宇宙飛行士としての条件?
それにしても、宇宙飛行士という仕事の先の見えなさ、NASA上層部に対する疑念…。

一方で、ほんの数回しか実経験できなくても、命を賭けた宇宙飛行ミッションという仕事の素晴らしさ…。

そのバランスの中で、著者のマイク・ミュレインは、時に危うい精神状態を保ちながら、時に許される範囲で精一杯の悪ふざけを興じながら、全体的には前向きの人生を送ってきたようです。

著者は、自分を含め、女性に対して失礼なことばかりする粗野なパイロット仲間たち全員を「惑星AD(Arrested Development:発育不全)出身」と表現しています。宇宙飛行士とはいえ人格者とはかけ離れたような存在と自覚しているようです。特に自分のことは「本当は落第生なのに間違って宇宙飛行士に選ばれてしまったに違いない」といった表現をするほどです。その前提の下で、下ネタを飛ばし、毒舌を飛ばし、自虐的ギャグを飛ばし、でも誇りを失わず、真正面から宇宙飛行士の実像を描いた本書は魅力的です。

しかもこれだけの下ネタも下品にならず、これだけの批判的意見にも悪意が感じられないのは、おそらく著者の人柄によるのでしょう。また、あけすけに表現しているにも関わらず、書かれていることはおそらくすべて公表して問題ないものと判断していることをうかがわせます(たとえばミュレインが飛んだ3回のミッションのうち2回は軍事機密に関わる任務についていたため、シャトルでの仕事内容はまったくといってよいほど語られていません)。さらに、自分が宇宙に行けたのは「NASAのチームの肩に乗せてもらったから」であり、数え切れないほどの人々に「心からの尊敬と称讃の念」を抱いていることも口にしています。

下品になる一歩手前、ブラックになる一歩手前まで突っ込んでも度を越えない絶妙のバランス感覚をみると、やはりこの人も宇宙飛行士としてのライト・スタッフ=正しい資質を持った人なのだろうと推測されます。だからこそ(自らの自虐的表現とは裏腹に)宇宙飛行士選抜のプロセスを通過したこと、そして3度もの宇宙ミッションに参加できたのだろうことを納得させられます。たんに“ぶっとんだ”だけの人物、シニカルなだけ人物では、万が一“間違って選ばれた”のが事実としても重要な任務に複数回つけるものではありません。相当の覚悟とプロ意識、さらには意に沿わぬ上司や組織の命令とも折り合いをつけてやっていくだけの見識を持っていることが、宇宙飛行士として選ばれるために必要な条件だったに違いありません。

■宇宙飛行士になるという、じつに特殊な覚悟
本書の記述からは、宇宙飛行士の間には、自分たちと同様に厳しい訓練をし、難しい仕事をしてきた仲間であれば、それが女性であろうが研究者出身であろうがどんな国籍であろうが差別せず、同じ仲間として認める意識が確実にあることがみてとれます。一方そうでない人、いわゆる“お客さん飛行士”(世間の注目を得たりスポンサーを満足させたりするために、主に政治的な思惑から搭乗させるパートタイム宇宙飛行士。宇宙に理解を示している顔して同乗を画策する政治家や有名人や一部のペイロード・スペシャリスト)に対しては、「我々が宇宙に行く機会を奪っている奴等」として反感を持つと、本書の中に何度か描かれています。

そのうちの一つにSTS-95ミッションで77歳のジョン・グレン(マーキュリー計画「オリジナル7」の一人、米国3人目の宇宙飛行士、後に上院議員)が飛ぶことになったことにも触れられています。曰く、「(グレンは)ミッションに不可欠ではない人物。老年医学研究うんぬんはたわごと。例によって有力な政治家のための口実。グレンの個人的満足のためリクスを犯すなど正気の沙汰ではなかった…」と。

こうしたドロドロした話を読むと、“お客さん宇宙飛行士”が周囲から受けたであろう冷たい視線が推測できます。また、当初はペイロード・スペシャリストであった毛利さんが後にミッション・スペシャリストとして厳しい訓練をして再挑戦したことの意味も、その後の土井さん、若田さん、野口さんが苦労して宇宙飛行士仲間の信頼を築いていったことの価値も、(あくまでも連想にすぎませんが)本書から間接的に感じることができるかもしれません。

これから1年近くかけて行われるJAXAの宇宙飛行士試験を目指す方々には、それだけの覚悟と責任感と、そして仮に宇宙飛行士に選ばれたとしても何もできず無為に人生が終わる可能性があるという覚悟さえも求められることでしょう。でも…………、

そんな覚悟を持つ方がたくさん発掘されることもまた、社会から期待されていることでしょう。

トップのあり方と新銀行東京

新銀行東京の経営に関する責任は曖昧なまま、追加出資が行われました。こうしたケースをみるたびに、経営者(トップに立つ者)の責任のとり方はどうあるべきなのかという文脈で、思い出す時代劇があります。

前回の記事「数字をスケープゴートにするな」に続き新銀行東京を俎板にあげましたが、テーマはまったく違い、リーダーシップに関する話です。

新銀行東京新聞記事

■トップに立つ者の責任のとり方
古いドラマを持ち出して恐縮ですが、だいぶ前にNHKで「戦国武士の有給休暇」というコメディ・タッチの時代劇がありました(※注)。このドラマの中で今でも強烈に覚えているシーンが1つあります。
「トップに立つ者の責任のとり方とはこういうものだ」
ということを示されたようなシーンでした。

主演の小林薫さんが演じるのは戦国時代のとある地方国の武士(役名忘れました)。“有能で頼りになる実務家”といったところです。

国を経営するトップ、つまり社長(殿…中村梅雀さん)は、思いつきのように新方針や命令を打ち出します。それをミドル層(というより“実行部隊長”)にあたる小林さんが実行に移すだけでなく、次々に発生する難しい問題を解決し、さらにはトップの失敗の尻拭いをしていきます…。持ち前の頭脳と行動力で殿様から“役に立つ部下”と信頼されているため、ずっと休みがとれません。働き詰めに働いたので「お願いだから、しばしのお休み(有給休暇)をください」と嘆き、社長(殿)も「この仕事が終わったら…」と約束するのですが、戦国の世はその猶予を許さず、仕事に追われていく…。そんな、現代の会社勤めにはっきりとなぞらえたやり取りを想像できる楽しいドラマでした。

(※注)「戦国武士の有給休暇」(1994年、NHK)
脚本:ジェームス三木。出演:小林薫、中村梅雀、若村麻由美、阿部寛、佐藤慶、河合美智子、蟹江敬三、清水紘治、斎藤晴彦、夏川結衣ほか。(役名は、清水紘治さんが明智光秀だった以外全く覚えていません)

■たとえ「勝負は時の運」であっても
物語の中盤、織田信長の天下の元で、社長(殿)は盟友(隣国の殿)とともに、
「この乱世で自国が生き延びるためには、誰か実力者に頼らなければならぬ」
と思い至ります。その候補として考えたのが、羽柴秀吉と明智光秀。

社長(殿)は、悩みつつも、秀吉ではなく光秀に与し傘下に入ることを選びます。
最終盤、本能寺の変から山崎の戦いを経て、光秀は秀吉に討たれます。

光秀に与してしまったが故にこの国も秀吉軍の攻撃を受け、落城間近、万事休す。そのとき

「どうして秀吉ではなく光秀(につくこと)を選んでしまったのだろうか」
と嘆く社長(殿)に対し、重役らは「誰も将来のこと(光秀が討たれること)など予測はつかない。勝負は時の運なのだから、殿(が秀吉でなく光秀を選んだこと)に責任はない」

と慰めようとします。

しかし小林さんはきっぱり、次のように社長(殿)に向かって言い放ちます。

「確かに勝負は時の運かもしれない。
しかし、国を率いるトップが下した経営判断ではないか。
その結果に対して、トップ以外の誰が責任をとるというのだ。
たとえどんな合理的な判断であったとしても、
社長(殿)、あんたが責任をとって辞めるのが正道というものだ」
(正確なセリフではありません。記憶は相当に私の頭の中で脚色されています)

その言葉を聞いた社長(殿)は観念し、城を明け渡すことを決めます。小林さん演じる武士はその後も殿に忠義を尽くし、殿が落ち延びるのに付き従い、殿を守ることを誓います。後に殿とともに落ち着いた土地で農民となり、小林さんもやっと実質的にやっと“有給休暇”をとれる…、といった内容だったと記憶しています。
(このあたりのストーリーも、正確さはかなりあやしいかもしれません)

■トップが逃げてしまってはいけない
長々と時代劇ドラマの話になってしまいましたが、新銀行東京のこと。

新銀行東京のコンセプトは決して悪くないことは、各方面から評価されていると思います。しかしビジネスモデルは成立しませんでした。前回の話で触れた融資の「スコアリング・モデル」は不十分、実務スタッフの編成も(おそらく)不十分だったのだと思います。

かりに「時の運がなかっただけだ」と仮定しても、その責任を誰がとるべきなのか。今回のような400億円追加出資(ひいては長期的な敗戦処理)を行うならば、それとともに、
「たとえどんな合理的な判断であったとしても、
知事、あんたが責任をとって辞めるのが正道というものだ」
ということになるのではなかろうかと…。

また、本サイトの以前の記事で築地卸売市場の豊洲移転に触れたとき、
「卸売市場の移転は、知事1人の思惑では動かない。さまざまな関係者や社会の動きがあって初めて成立する。だから知事が誰になろうと、そう違いはないだろう」
といった意味のことを書きました(「かつての市場移転(「神田市場史」より)」)。

今回新銀行東京問題では、なぜか件の知事が似たような言い回しをしています。
「私の一存で進めてきたかのような意見はまったくあたらない。膨大な組織の中で、私1人が発想して行政が動くわけではない」。

しかし築地の豊洲移転問題と新銀行東京とは質が全く異なるものです。生鮮品の卸売市場はすでに社会に根付いた欠くべからざるシステムの一端であり、多数の関係者が昔から動かしています。しかし新銀行東京は、3年ほど前に新たに生まれた(もともとなかった)一事業です。その事業を発案し、リーダーシップを発揮して作ろうとした知事が「自分だけの仕業ではない」という逃げ口上をうつのは、いくらなんでもありえない。

百歩譲って、かりに「膨大な組織が発想して初めて行政が動いたもの」だったとしても、その責任をとることこそがトップの仕事なのではないか。そのようにしか思えないのですが、いかがでしょうか。

■“反面教師”を目の当たりにして
本サイトの記事は、経営にまつわる一般的な話題を提供することを主眼においており、特定の人や組織に対する問題提起や、政治に関わる意見を表に出す意図はまったくありません。今回の記事はたまたま都政を例として出したので少しキナ臭い意味も含んだ内容を持ってしまいましたが、一般の企業経営においても、とるべき責任をとらないトップの事例は、相当数あるのではないかと推測します。

経営者・マネジャー・ビジネスパーソンにとってまさに「反面教師」が実例として目の前にあるわけです。トップとは何か、リーダーシップとは何かを考える際、東京都の事例も先にあげたNHK時代劇のセリフも、きっと参考になるのではないでしょうか。そんな意味でまとめさせていただきました。

数字をスケープゴートにするな

新銀行東京への東京都からの追加出資が、すったもんだの末決まりました。この銀行が失敗した原因の一つに、財務など数字だけで融資の可否を半自動的に判断する、いわゆる「スコアリング・モデル」の導入が挙げられているようですが、マスコミなどの論調でどうしても解せないところがありました。

数字の補完方法
〔定量情報を補完する2つの方向〕

■数字が悪役?
この件(スコアリング・モデル)についての新聞・雑誌・テレビの反応は、判を押したような意見ばかりです。突き詰めていうと次のようになります。

「数字だけでは見えないことがたくさんあるのに、数字だけで融資判断できると考えたのが間違い。もっと物事の本質、融資対象企業の現状を把握して融資を決定すべきものだったはず…」

いわば“数字過信説”とでもいいましょうか。

耳にたこができるほどよく出てくるのは、企業への融資を判断するとき、
「銀行は、その企業のトイレがきれいに掃除されているかとか、経営者が豪華な車に無駄に費やしていないかとかいった、数字に現れないところから判断する」

といった例です。そうした基本的な判断をやっていないから新銀行東京がうまくいかなかったかのような説明は、一見納得できるものかもしれません。

しかしながら、この説明に違和感を持つ人も少なくないはずです。

■数字で見えない部分をどう補うのか
金融機関で使われるスコアリング・モデルに限らず、世の中にあるさまざまな「数字」(定量化されたデータ)は、その対象の持つ性質すべてを一言で表現できるものではありません。数字とは、いわば「鋭い切り口で切り取った一面の性質」を見せているからこそ意味があるのであって、数字の表面だけでは見えない定性的性質が別にあるのは当然。そんな当たり前のことをいまさらもっともらしく論評されたところで、何の解決につながるのでしょうか。

数字では見えないものがあるとき、そこから発生するリスクをどうやって補うのか。大きく異なる2つの方向性があるといえましょう。

(1) 「対象」となるもの1つ1つに間近に迫って詳しく観測し、定性的な性質(ようするに数字で見えない性質)を含めて掴み取り、個々のリスクを最小限に抑える
(2) 多数の対象の集合を全体として捉え、数学的(主として確率論的)に判断し、リスク分散させる

営業・マーケティング分野に置き換えて考えてみましょう。営業担当者が1件1件の得意先にきめ細かく営業をかけ、得意先の事情を十二分に判断したうえでそれぞれにカスタマイズされた提案をもちかける…、というのが(1)にあたります。「御用聞き営業」と呼ぶと少し語弊がありそうですが、まあ、その類の方法です。

一方(2)は、近年のCRMシステムやデータベース・マーケティングといった手法の中にみられるやり方です。例えば多数の顧客に対し、その属性や過去の購入履歴、頻度などの記録を顧客データベースとして備え、その情報を軸にして自動的にDMをうったり、購買につながりやすいシナリオを描いたりして、それに沿った定型的な提案をする…、というやり方です。

(1)はリスク管理の“王道”かもしれませんが、1つ1つの対象(ここでは取引先)の性質を観察、分析するための人的資源確保や教育システム維持にコストがかかります。一方(2)は、対象の数が多数であっても、いや多数であるからこそ、システマチックに低コストで一定の利益を確保できるという見込みを立たせることが可能になります。

■リレーションシップ・バンキングとスコアリング・モデル
金融機関に話を戻すと、上記(1)が多くの銀行の伝統的な手法として定着しています。時には銀行の担当者が、融資対象企業の経営者とともに資金だけでなく経営全般のやりくりに頭を悩まし、あるいはその会社の社員といっしょに汗をかいて問題解決を進める。そんな涙ぐましい努力を重ね、その企業の体力を見極めていこうというやり方です。こうした、地域の企業と密着してきめ細かく融資判断を行う伝統的な手法は、今は「リレーションシップ・バンキング」と呼ばれているようです。

そして問題の「スコアリング・モデル」が上記(2)に該当します。やり方からいってリテール・バンキングをある程度の規模で展開する際に有効な手法といえそうです。身近な例でいえば、消費者金融やクレジット会社の一般向け融資システムがこれに相当するのでしょう。米国系金融機関ではスコアリング・モデルが中小企業の貸し出し業務に力を発揮しているとされていますが、それを日本で実践しようとしたのが新銀行東京の一つのコンセプトだったと理解しています。企業からみても、銀行の担当者と無駄に付き合わなければならないようなステップを踏む必要がなく、合理的です。

ようするにスコアリング・モデルとリレーションシップ・バンキングとはそもそもの方針が逆なわけです。システム面からして異なるモデルです。なのに、金融庁や銀行関係者とかからも、両者の方向を混ぜ合わせるような提案、提言があったりします。逆方向のコンセプトを足して2で割れば、答はゼロ。失敗が約束されているようなものでしょう。

今回の新銀行東京の問題では、相当の識者や経済誌でさえ、上に書いたような「数字を過信して手抜きしてはいかんよ」といった“数字過信説”を唱えていました。問題は、数字を過信したとか数字がいかんとかいう話ではなく、むしろ「数字で十分に考えることができなかったところ」(きちんとしたスコアリング・モデルをビジネスとして確立できなかったこと)にあると思うわけです。

(…と思っていたら、専門家の立場から、「スコアリング方式の本質が、全く勘違いされている」という記事が日経ビジネス・オンラインに出ていました。
見当はずれの新銀行東京批判
まさにこれ。こういう解説がされるのを待っていました)

■実質的な精算に向かっている?
都民の税金400億円が出資金として注入されたことで新銀行東京は一応救済されたことになっているようです。しかし融資残高が大幅削減されることなどから、もはやスコアリング・モデルが成立する前提が崩れているように思われます。実質的に同銀行は清算に向かっていると考えるのが自然なのでしょう。

落とし前のつけ方として、今すぐ破綻させるのが良いのか、400億円をどぶに捨てても敗戦処理をするのがよいのかは、金融の専門家でない私には判断できません。でも、専門家の方々も予測しているように、今回の400億円はそのまま無駄になる可能性が高いと、都民の一人として今のうちからあきらめておくのが精神衛生上よさそうですね (苦笑)。

*   *   *

なお、この銀行事業を推進した実質的なリーダーの言動と判断については、失望するばかりです。リーダーシップという観点から、これに関連した話題を次の記事で続けます。
(参考)
「新銀行東京調査委員会調査報告書(概要)」

「テスト・スタンダード」

日本テスト学会がとりまとめた「テスト基準」の詳しい解説と、関係者によるQ&A集です。企業の人事担当者なども含め、さまざまなテスト、人事測定に関わる関係者に広く読んでもらいたいような基本書なのですが…。

書籍「テスト・スタンダード」概観
「テスト・スタンダード -日本のテストの将来に向けて」
【日本テスト学会(編)、2007年、金子書房】

■テスト基準の詳細な説明
日本テスト学会というところが「テスト基準」をとりまとめ2006年に基本条項を公開したことを、以前の記事「テストの開発、実施、利用、管理にかかわる基準」で触れました。当時開発中だった「基本条項の解説」(ガイドライン)は2007年9月に公開されています。「基準」そのものも微調整され「ver1.1」となったようです。

本書は、その「基本条項の解説」本文(140ページほど)と、関連する「Q&A」(60ページ強)および「用語解説」(12ページ)をまとめて1冊にした本です。「テストの科学」という本を以前当サイトで紹介しましたが、本書もこの本と同様、さまざまなテスト関係者にとって基本書の一つと位置づけられるかもしれません。

なお「基本条項の解説」部分は、同学会のWebページでも公開されています。ただしダウンロードできるのは“印刷不可能”なpdfファイルです。

「Q&A」は、テスト基準をみて多方面からいろいろ出てくるであろう質問を37件とりあげ、それらに対する考え方、技術的な手法、現実的な対処法などをまとめています。同学会会長の池田央氏やテスト基準作成委員会委員長の繁桝算男氏ほか、この分野で著名な方々が丁寧に答えておられます。

■テストで数字化することに対する本質的な不審?
学校の入学試験・アチーブメントテストから、あまたある検定試験・資格試験、企業で行われる人事測定・心理測定、組織診断のための調査ツールなど、人や集団を測定するためにさまざまなテストがあります。なかには“深い考えがなくなんとなく開発した”だけのテストが多数あると思われますが、見識のないテストに対して「基準」は一種の“駄目出し”をしている側面があります。本書の解説やQ&Aが書かれた背景を深読みすると、「基準」に示されているさまざまな考え方や条件が、日本のテスト開発・利用の現場で“戸惑い”のような感覚をもって受け取られているのではないかとも思われます。

この“戸惑い”は、大きく2種に分類できそうです。1つは(主に客観式テストの)数値解析にまつわる技術的な方法論に関すること。たとえば「素点を標準化された尺度得点に置きかえるにはどうすればよいのか」「テストの信頼性はどうやって計算したらよいのか」といったあたりで、どうしても数値解析の専門知識が必要になってきます。

もう一つの“戸惑い”は、客観テスト(または評価結果の数値化、または主観評価のための前提条件)に対する根本的な疑念のようなものでしょうか。もちろんこの「基準」で説明されているテストには、多枝選択式のような客観式テストだけでなく、論文や面接試験のような主観的評定を伴わざるを得ないテストも含まれます。しかしそうした主観的評定を伴うテストにおいても、テスト開発や評価の考え方は客観式テストと共通する条件設定などが多々あるはずで、「基準」にその考え方が示されています。

しかし、なぜか現実には、日常的にテスト開発・実施に携わっている方々からも、なかなかこうした基本的な考え方について理解が得られない場面があります。たとえば「人間を数字で判定してはいけない」とか「多元的に要素が合わさったテスト問題こそ良問だ」といった“見識”を持つこと自体はよいのですが、その一見正論と思える“見識”が、本来あるべきテスト(測定)の前提条件を歪めてしまう例が多々あるわけです。

本書の副題「日本のテストの将来に向けて」に、「何とかして現状を変えたい」という関係者の意気込みが垣間見られます。でも一方で、本書の価格は4000円とちょっとお高め。「基準の説明」が(印刷できないとはいえ)Web公開されていることを考えると、ほんの70ページ強のQ&Aと用語解説の情報(+「基準の解説」の印刷代?)に、それだけの対価を払うことになります。

本当は広くさまざまな読者を獲得したいのでしょうが、出版社からするととても“広さ”(部数)は期待できず、「バリバリの専門書」として売らざるを得ない。そんな苦しい事情が価格から想像されます。それだけ、世間のテスト関係者の問題意識は喚起されていない(?) のかもしれません。

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