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「ドラゴンフライ」2-宇宙空間で危険な諍い

宇宙ステーションで起こるいくつもの争いを冷静に見てみると、それは現実社会(企業社会)で起こる人間関係の縮図のような気がしてきます。

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「ドラゴンフライ ― ミール宇宙ステーション悪夢の真実」(上)(下)
【ブライアン・バロウ(著)、北村道雄(訳)、寺門和夫(監)、筑摩書房、2000年】

「ドラゴンフライ」1-宇宙飛行士の“問題児”たち の続きとして、宇宙ステーションでの人間関係について少しご紹介します。

宇宙飛行士個人の諍いについてあげつらうつもりは毛頭なかったのですが、やはり気になる話題がたくさん出てきます。あらためてこの本を読んでみると、宇宙ステーションという特殊な閉鎖空間の話というより、我々のごく日常的な生活の中で起こる問題が分かりやすい形で切り出されたきた話のように思えます。

■問題に慣れると問題の存在を忘れるようになる
米側の宇宙飛行士は、ミールに入ってすぐ、船内が相当ひどく散らかっていたことに驚かされました。それまでの宇宙生活でたまった残骸(小型コンピュータ、事務用品、道具、音楽テープなど)が、無重力の部屋のあちこちにあったそうです。

また、ミールのモジュールとモジュールが何本もの太いケーブル(換気チューブとか通信ケーブルとか)で無造作に結んであるため、モジュールの間のハッチを閉めることができなくなっているところがありました。万が一あるモジュールで機体破損などの事故が起こった時、他のモジュールまで波及し全滅しないように、途中のハッチを完全に閉めて隔離しなければなりません。ハッチを閉めるためには、数多くのケーブルを無理やり切断することになります(事実、貨物船プログレス衝突事故でまさにその通りの事態が起こった)。

そんな安全上の不安を米側の宇宙飛行士が口にしても、ロシア側の反応はいつも同じで「一応耳を傾けはするが、結局そのまま無視」だったされています。NASAも結局は同じような反応でした。

このあたりの反応(一応耳を傾けはするが、結局そのまま無視)は、ビジネスパーソンなら、というより社会の中でなんらかの組織・グループで活動をした経験のある人なら誰でも、かなりはっきりイメージできるのではないでしょうか。問題を指摘しても、その問題に慣れてしまうと誰も解決しようとしなくなる…。

■優秀な飛行士も、時と場合により問題児になる
ミール・ミッション(フェイズ1)の米側飛行士7人のうち「問題を起こした数人は“問題児”」と前回書きましたが、ジェリー・リネンジャーなどと違い、ジョン・ブラハはNASAではかなり優秀な宇宙飛行士の一人だったようです。それでも彼のミール・ミッションの4カ月は、本書の記述をそのまま受け取れば失敗だったと思わざるを得ません。

ブラハは体力、精神力とも優れ、それ以前のスペースシャトルで船長まで務めたベテラン宇宙飛行士でした。話によると几帳面すぎるほどしっかりと仕事をするタイプの人だったようです。“でも”というべきなのか、“だから”というべきなのか、ミール・ミッションの混乱した仕事の進め方には耐えられませんでした。

彼自身、有能だとはいえ「他の人に、はなはだしく依存する性格がある」ことが、ロシア側が行った性格検査(アセスメント・テスト)から事前に見て取れたといいます。その詳細までは書かれていませんが、推察するに「箸の上げ下ろしも部下や秘書がやってくれるような条件の上で本来の力を発揮できる“お殿様”的リーダー」だったのかもしれません。

そんな人、我々のまわりにもたくさんいますね。「大企業の社長は務まるかもしれないが、実働メンバーの立場になると何一つできない」「公の場では威張っているが、家庭では家人なしにお茶さえ自分で入れることができない」なんていうタイプの人が…。

また、ちょっとしたコミュニケーションのミスで、ミールのロシア人船長ワレリー・コルズンと怒鳴りあいになったそうです。無駄に30分くらいの時間を費やすことになってしまい「あんたのせいで35分も時間を無駄にした…」などと怒り狂ったといいます。こんな人(先輩)も現実の企業世界にいますよね。とくに有能とされる人に多く…。

そんなブラハが、時にはワレリー船長から「アメリカ人なら幼い孫にしか使わないような口調で命令された」といいます。長い共同生活がずっとその調子では、自らのペースをつかみようもありません。

■「まさか私が鬱病になるなんて…」
そんなロシア人に悩まされるよりもっとブラハを苛立たせたのが、米側のサポート体制だったといいます。訓練期間中、ロシア語の習得に費やされた時間はわずか4カ月しかありませんでした。仕事のマニュアルをめぐって、出発前から繰り返しヒューストンと対立します。「何かを求めても結局実現されないやりとり」が繰り返されるとどうなるか。“被包囲心理”、つまり「周りは敵ばかりだから、何もかも自分でやらなければならない」という心理状態が強くなり、結果的に気持ちがどんどん内へ向かうことになります。

それでいて、ヒューストンはブラハを完全に自分たちのコントロール下に置くことを疑わず、運用管理者にそれを求めます。両者の認識の違いは広がるばかり。ついにブラハは、ミール内で鬱病にまで陥ってしまいました。

「つねづね自分のことを、物事を前向きに考え、ほかのクルーが気落ちしているときに元気づけてやるタイプの人間だと思っていた。その自分が鬱病にかかるなんて理解しがたいことだった」(上巻p.188。文面は多少変更)。そんな告白を他人事ではないと感じる方もまた、少なくないでしょう。

■現場を知らない本部管理職にコントロールされる恐怖
この経過を現実のビジネス社会になぞらえ、勝手に次のような喩え話にしてみました。

・本社が、支店の営業力向上のため、本社の有能な「幹部」を支店に派遣する
・その「幹部」は、支店では営業現場の最前線で力を揮うことが期待されている
・「幹部」は有能だが、周囲に部下の手足があってこそ力を機能するタイプの人である
・しかし実際には「幹部」に手足となる部下はなく、仕事の手順書もなく、支店の文化も非常に異なる
・「幹部」は支店の現場が頼れないと悟り、本社に手順書などの作成を要望する
・しかし本社はその要望の真の意味が分からず、本社の認識を基本に「幹部」に指示を出し続ける

・「幹部」は本社もあてにならないことを知り、自分流の仕事の進め方に頼る。そして1週間に7日懸命に働こうとする。いちいち細かい動きを本部に伝えても無駄と感じられて、報告も滞る
・しかし本社は、本社の方針に沿って「幹部」に成果をあげてもらわなければならないから、監視役をたてて「幹部」を完全なコントロール下に置こうとする
・せっかく苦労して「幹部」が支店の営業現場に即した仕事の進め方を実行しようとしても、本部は認めず足を引っ張るような結果となる。
・「幹部」は自らを否定されたような立場になる
・本社との溝も、支店の他のメンバーとの溝も、いずれも深まるばかり。しかしそれでも我慢して続けなければならない立場に追いやられる

真面目な人であればあるほど、精神に支障をきたすことになりそうです。そんな話も、この現実のビジネス社会でたくさんありますね…。

■短距離走のつもりで長距離走は走れない
NASAの地上管制官への不信感もあり、ブラハが次の“問題児”リネンジャーに引き継ぎをするとき「地上からの支援はあてにするな。ここで頼りになるのは自分だけだ」とか警告していたそうです。それが今度はリネンジャーの“唯我独尊”を助長してしまうのですから、まさに悪循環です。

ブラハについては、一緒に訓練を受け気心の知れたロシア人クルーたちとはむしろ良い人間関係を作ることができたとしています。ブラハがもとから“問題児”だったのでは決してなく、ミール・ミッションという仕事のシステムとか、与えられた職務内容とかが、とことんブラハに適合しなかったために生じた摩擦といったほうがよいのでしょうか。ブラハに限らず、ミール・ミッションに関するNASAの人選や育成方法は失敗続きでした(誰もミール・ミッションに参加したがらず、他に人選の余地がなかったという現実があったにせよ)。

少し違う視点から見ると、シャトルの1~2週間という「短距離走」と、ミールの3~4ヵ月という「長距離走」の違いということもできるようです。短距離走しか参加したことのない米宇宙飛行士が、同じ流儀で長距離走に参加しようとしてもだめでしょう。短距離走者の育成・コーチ・コントロールしかしたことのないNASAが、配下の選手を長距離走の選手になるべく無理やり選抜・コーチ・コントロールしようとしても失敗するでしょう。ペース配分や考え方自体が、相当に異なっていたのかもしれません。


それはそうと、今まさにスペース・シャトル(STS-115)によるISS(国際宇宙ステーション)組み立てミッションが進んでいます。
また、近い将来ISSに搭乗する予定の若田宇宙飛行士が、ISSでの滞在を念頭に、米国の潜水艦に滞在して閉鎖空間での長期間生活訓練を受けていると伝えられています。若田さんはすでに何度か閉鎖環境テスト(「中年ドクター 宇宙飛行士受験奮戦記」でもちらと書きました)を受けたはずですし、実際の宇宙飛行も経験済みです。さらにロシア語も習得済み。ロシアの星の街・訓練センターでの訓練も経験済み。なのになぜまた今さら閉鎖生活訓練を受けるのだろうと、初めは少し疑問を持ちました。

でも本書に書かれているようなスペースシャトルと宇宙ステーションの決定的な違いを読むと、あらためてはっきりその背景や意味が納得できるような気がします。

身体を測る 04-自宅でできる健康診断

身体測定サービスをコンビニなどで簡単に買う(受ける)ことができる時代が、近づいているような気がします。

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■測定サービスもパーソナル化
身体を測る 02-身体測定のパーソナル化」で簡単に触れましたが、体組成計だけでなくいろいろな身体測定装置が小型化、パーソナル化し、一般家庭にも広がっています。しかし血液検査など少し本格的な検査装置を必要とする特性となると、いちいち高価な測定器を購入するわけにはいきません。また、検査そのものに専門的知識が必要な場合は、当然ながら医師や検査機関の力を必要とします。

そんなニーズに応えてでてきたのが「在宅検診サービス」(遠隔測定サービス)です。生体測定 製品・サービス一覧に、(在宅・遠隔)検診サービスのごく一例を挙げました。

リストまたは提供元が公表しているweb上の情報などを見ていただければわかるように、一般的な健康診断にあるメニューが多数揃っています。ほんのわずかの血液サンプルを送って生活習慣病の検診をしてもらうとか、爪や毛髪から栄養状態を測定するといったことがかなり簡単にできるようです。機器の貸し出しで睡眠時無呼吸症の検査を行うものもあるようです。つい最近報道で注目されたものとして、爪のサンプルからDNAを検査するといったサービスがあります。

これらの検査キットの写真を見てみると、まるで昔「学研の科学」で付いてきた実験セットのような趣(?)もあり、なんとなくワクワクしてしまう…、なんて思うのは私だけでしょうか(笑)。

■身体測定の分類
身体測定(検査)を、上図のように分類してみました。専門性を横軸に、頻度(1回きり/複数回/連続的)を縦軸にしてあります。

いつものことながら少し雑な図式で申し訳ありません。これは「一般個人が自分の身体を測定したいと考えた時にどこにお世話になるのか」という観点で示してあります。たとえば、

(a1) 年に1回か2回、一般的な健康診断を受けるには、勤めている方はきっと職場で健康診断を受けるでしょうし、在宅の方などは保健所が無料またはごくわずかの費用で実施している健康診断を受けに行けばよいでしょう。

(a3) 日常的連続的に体脂肪率を測りたい場合は、おそらく普及型の体組成計を購入するのが便利でしょう。

(b2) 内臓の疾患があって定期的にその状態を監視しなければならない場合などは、一般の病院に何度も通院して検査を繰り返すことが望ましいのでしょう。

■どんな分野が在宅検診サービスに向いているのか
個人的な印象ですが、次のような見方ができます。

(a1)―基本的な血液検査や尿検査などを含む健康診断― は、さまざまな事情で必要とする方々が一定数いると思いますが、多くの人は何らかの機会を見つけて医師による検査を得られるでしょう(しかも直接的にはほとんど無料)。なので、わざわざ在宅検診サービスを受ける必要のある層は少ないような気がします。

(a3)―簡単に買える測定器で間に合うもの― つまり体組成計、血圧計、心拍計、歩数計、血糖値計などパーソナル化が進んだ測定機器で測れるものについては、必要とする方は購入してしまったほうがまず早くて安くて便利です。

(b3)―少し専門的な測定を連続的にしなければならない場合― たとえば心疾患を判定するために血圧の連続測定をするとか、睡眠状態を毎日測るとかいったものは、測定機器を簡単に購入できるものではないので、医療処置や研究事業といった位置づけの中で、測定機器のレンタルなどを受けて測るといったことになるのではないかと推測します

(c1)(c2)(c3)―専門的な検査や測定― については、さすがに専門医や研究者などの力を借りて測定する必要があるでしょう。

→ そしてそれ以外の部分、主に薄いグレーのアミカケをしたあたりが、在宅検査サービスに向いた領域なのではないかと思われいます。つまり、次のような領域です。

(b1) 定期健康診断では行わない少し専門的な領域(癌マーカーの検査、感染症の検査など)

(a2)(b2) 測定器を購入(レンタル)したり病院に相談したりするほどではないが、必要な時には手軽に何回も測定したいもの(さまざまな栄養状態の測定、心肺機能、睡眠状態など)

料金は、安いもので3000円~5000円くらい。高いものでは検査後のカウンセリング料金などを含んで1万5000円~2万円といったところでしょうか。もちろん、専門的な検査を選んだり複数のサービスの組み合わせを選んだりすると、結果的にはもう少し値が張ってしまうかもしれません。しかし、家庭で手軽にさまざまな「身体測定」ができるということは結構便利で、そこそこニーズがあると思われます。

こうしたサービスのメニューが、コンビニとかスポーツクラブなどに「カード」のような形で商品として並んでいてもおかしくありません。「おでんと栄養サプリメントを買いに寄ったついでに、ミネラル検査サービスを買ってきた」なんていうことができたらよさそうな気がしますが、どうでしょうか。

■動物の健康を守る検査サービス?
身体を測る 03-体組成計はまだまだ進化する?」の末尾で、「ペット用の体組成計はビジネスにならないか」といった余談をしましたが、健康診断サービスについても同じようなことがいえます。

そして驚くなかれ、すでに事業として成立しているようです。リストにある検診サービス業者のメニューを見てみると、たとえば「人間用のミネラル検査」(毛髪などのサンプルを切り取って送るスタイルのもの)と並び、「愛犬のミネラル検査」なんてものがあります。犬の被毛を採取して検査し「ワンちゃんの身体にたまっている有害なミネラル成分を測定」するそうです。

そんな商品があることに、なぜか非常に納得してしまいます…

銅板建築 1-“昭和元年”が消えていく

「銅板建築」というものをご存知でしょうか。古い店舗の建築様式ですが、今となっては希少価値もあり、ユニークな店作りに活かせるのではないかと予想します。

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■味のある深緑色の店舗兼住居
モルタルなどで作られた2階建てくらいの商店の外壁に銅板を貼ってある古いタイプの建物のことを「銅板建築」と呼びます。そのほとんどは店舗兼住宅で、主に東京周辺の古くからある商店街にみられます。銅板だから茶色か金色か、いわゆる真新しい銅の色をしているのかというと、さにあらず。長い間風雨にさらされて、写真のように深めの緑色をしているのが普通です。「ああ、そういえばそんな店が昔よくあったな」と記憶の中で思い至る方もいるのではないでしょうか。

銅板建築の店が建てられたのは例外なく昭和初期、それも昭和3年前後と決まっています。大正12年9月の関東大震災で東京の街が焼け、その後都市計画が整って盛んに新しい様式の商店が建てられた時期というわけです。

昭和初期に流行だったとはいえ、今となっては「古くさい建物」なのは否定しようもありません。戦争で焼け残り、高度成長時代にもとくに変化なく、バブルの荒波からも生き残ったとはいえ、いわば時代の流れから置いていかれた建築物です。今残っている銅板建築の店はおよそ“80歳”。老朽化により年々その数は減っているはずです。

しかし逆に今となってはその緑色と文様に風情があり“昭和レトロ”を感じませんか?

レトロ調の店舗設計が注目されつつある今、銅板建築の店がなくなっていくのはとてももったいない。希少価値を逆手にとって、ユニークな店作りに再活用したらよいではないかと切に思うのですが、いかがなものでしょう。

■また1軒、歴史になってしまうのか
冒頭の写真は都内南部、鉄道の駅の出入口真正面にある銅板建築の商店(タバコ店)ですが、見ての通り、店は完全に閉じられています。棟つながりの隣の店のシャッターに「永らくご愛顧いただきましたが、この度解体することになり…」といった意味の貼り紙がありました。この銅板建築も跡形がなくなってしまうのでしょうか。

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近づいてみると、文様の入った壁、コーナーの独特な模様、年季の入った黒ずんだ銅板、小さな天守閣のようにも見える3段目(木造住宅は原則2階建てで、3階とも見える部分は建前上“屋根裏部屋”のような位置づけが多かったそうです)。元の建物がそのまま残せないものならば、せめて表面と特徴のある部分だけ剥がして残しておき、新しい商店つくりに活かせばよいではないか~。

実際、古い建物を解体するときに建具や壁を保存しておき、新しい店作りで再活用するという手法は珍しくありません。資金力の乏しい中小商店を再生する一手法として、日本全国で(少しずつかもしれませんが)実現されているようです。それを専門に請け負っている建築家もいるみたいですね。

であれば、銅板のような年季の入った希少価値のあるパーツをみすみす捨ててしまってよいのか! 耐震設備も整ったしっかりした建物を建てて、その表面に古い銅板を貼るだけで、実に個性的な、いかにも伝統を引き継いだ雰囲気のある、でも庶民的な、経済的な、そんなレトロ調店舗が出来上がるではないですか。建築にド素人の私のような人間には、そんな気がしてなりません。

■見直されつつある看板建築
銅板建築に絞って話をしていますが、もう少し広い意味を持つ「看板建築」という用語があります。大正から昭和初期を中心に建てられた店舗兼住宅で、前面に屋号や看板を彫刻などで表現した店作りのことです。銅板のほか、レンガ、タイル、モルタルなどさまざまな素材で装飾がほどこされています。このテーマについては、次の書が有名です。

「看板建築」(藤森照信著、三省堂)

街並みウォッチャーや建築関係者にはそれなりに注目されていて、やはりそのユニークさや現存する建物の希少性から、価値が見直されているようです。

■銅板建築は何軒残っているか
看板建築のうち、とくに銅板建築に限ると、現存する建築物の数はどのくらいあるのでしょうか。一説によると80軒~100軒だとか、ある報道では50軒程度しかないとかされていました。でもちょっとわかる範囲で数えてみると、もう少し数は多いようです。

ここ1カ月くらい、都心(神田周辺)と都内南部(品川旧東海道地域など)で目に入る銅板建築の店を実見して数えてみた(写真を撮ってみた)のですが、すでに40軒ほど発見できています。文献や私の過去の記憶から(まだ実際に現場で改めて確認したわけではない)銅板建築の店を加えると70軒以上にはなるでしょうか。銅板建築は一般に集中して存在しており、目立つ1軒の近辺には文献などに載っていない銅板建築が結構存在しています。

まだ調査していない地域のことを勘案すると、都内だけでおそらく150軒~200軒はあるのではないかと推測しています。これまで撮影した銅板建築の写真の一部を一覧にして掲載しました。

銅板建築の写真一覧 (当website内)

まだ限定的に列挙しただけですが、いずれ少し説明も加えていく予定です。機会を見付けて銅板建築の写真を撮り、掲載数も増やすつもりです。

■希少価値に気付いて残してほしい
年々減りつつある銅板建築を保存して残せるのは、おそらく今が最後のチャンスでしょう。店舗作りのアイデアを探している専門家、再生を目指す中小商店の経営者、そしてなによりも今現在銅板建築に住んでいる方や家主。そうした関係者の方々には、その価値にぜひ気付いてほしいものです。

部分月食(2006/9/8東京)

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雲が多い東京で、雲間にわずかに見えた部分月食。
三脚も使わずコンパクト型デジカメでの一発シャッターなので、これが限界か。
2006/09/08 3:07:36 撮影
【撮影データ】
Panasonic DMC-FX7
ISO80, 露出補正:-2.00, Auto (SS:1/8秒, F5.0)
画像ソフトでトリミング
わずかに「シャープネス」をかけてある

「ドラゴンフライ」1-宇宙飛行士の“問題児”たち

あまり広く知られていませんが、宇宙飛行士同士の軋轢と宇宙機関の組織体質のひどさが、宇宙ステーション計画をぶち壊しそうにしたことが過去にありました。


「ドラゴンフライ ― ミール宇宙ステーション悪夢の真実」(上)(下)
【ブライアン・バロウ(著)、北村道雄(訳)、寺門和夫(監)、筑摩書房、2000年】

■宇宙ミッションをめぐるドロドロの物語
なぜこのblogは宇宙モノばかり採り上げるのかと言われそうですが、経営マネジメントの観点からも、当社の社名(ミール研究所)との関わりからも(笑)、やはりこの本に触れないわけにはいきません。この本には、NASA(アメリカ航空宇宙局)やRSA(ロシア宇宙庁)や宇宙飛行士個人の恥部とも受け取れる驚くべき告発が満載されています。あまりに生々しく、にわかに信じられないような(そのまま信じてしまっては物事の半面しかわからないだろうと感じられるような)記述もありますが、組織のあり方を考えるには良い題材となるノンフィクションです。

ミール・ミッション(正確に言えば「フェイズ1」)で実際にミールに滞在したNASAの飛行士は次の7人でした。

ノーマン・サガード  1995.3-1995.7
シャノン・ルシッド(女性) 1996.3-1996.9
ジョン・ブラハ  1996.9-1997.1
ジェリー・リネンジャー  1997.1-1997.5
マイケル・フォール  1997.5-1997.9
デビッド・ウルフ  1997.9-1998.1
アンディ・トーマス  1998.1-1998.6

■NASAはミール・ミッションを軽視していた
本書によると、このうちまともにロシア側クルーやNASAと良好な関係で仕事を継続できたのは、ベテラン女性宇宙飛行士のルシッドくらいだったのでしょうか(それでも相当に苦労したことが描かれていますし、次任者ブラハとの友情は完全に壊れてしまったようですが…)。フォールも相当良い適任といえる人材だったようですが、なにせその時期(1997年)は、貨物船プログレスのミール衝突などミールに危機的な事故が続きました。

最初のサガードは、ロシア側のキャプテン、デジュロフの権威主義と調子が合いません。プラハ、リネンジャー、ウルフは、それぞれとんでもない問題 ―人間関係上の問題― をミールの中で起こしています。しかも、それらは予測不可能な問題だったのではなく、ミッションに行く前から明確に懸念されていたことでした。

端的に言えば、
・彼らは宇宙飛行士としての資質に欠いた“問題児”ばかりだった
ということになるのでしょう。

もう少しその背景を挙げると、
・NASAはミール・ミッションを完全に軽視していた
・ミールに参加しようという飛行士はほとんどいなかった
・そのためNASAは他に使いようのない問題児飛行士ばかりを仕方なくあてがった
・しかもNASAとRSAでは、仕事の進め方や考え方、文化に大きな隔たりがあった
・それでいてNASAとRSAは責任分担の面で互いに譲らず、軋轢を招いた
などといったマイナス要因の数知れない積み重ねがあったようです。

■火災の危機に直面しても…
特にリネンジャーは相当に問題があったようです。彼はミール・ミッションの前にスペースシャトルSTS-64に搭乗していましたが、この時の仲間からもすでに「謙虚さがなく聴く耳を持たない。最悪の新米」と反発されていました。ロシア「星の街」(Звезда Город)の訓練センターでも、さんざん不満をぶちまけては周囲を困らせていたそうです。ロシアの環境不備に文句を言いまくり、仲間たちと交流を持つことも避け、サポートしてくれる医師や管制センターの担当者に一切感謝することもなく、時には敵意さえみせる。ロシア人医師に要求された検査を拒むようなことさえあったらしいです(リネンジャー自身が医師だったので、ロシア側のやっていることを「無意味」と判断し、かえって見下していたようだとのこと)。

そんな彼がミールに乗るとどうなるか。搭乗前から懸念されていたというレベルの話ではなく、ロシア側は「彼はチームプレーができないので、皆と一緒に働くのは無理だ」とはっきり表明し、リネンジャーを拒否しようとしていました。それでもNASAは「米側が飛べるといったら、ロシア側がなんと言おうと飛べるのだ」と言い張って受け入れません。「NASAの管理下にある者についてロシア側が口を出すな」「合意事項にない検査は受ける必要ない」といった主張を繰り返したとのことです。結局、リネンジャーはミールへと送り込まれることになりました。

結果は予想通り、「彼にとって」というより、「彼と一緒にすごさざるを得なかったロシア人宇宙飛行士にとって」とんでもなく大変なミッションと化してしまいました。あまりに醜くて、具体的な内容をいちいち挙げにくいほどです(詳細はぜひ本書を読んでみてください)。

悪いことに、リネンジャーがミールに滞在している間に、ミールの存亡に関わるような重大な危機、火災事故が起こっています。あわやミールそのものを捨てて脱出しなければならないか、もしくはクルーが全員死ぬことになるかといった大変な危機に直面するわけですが、それを寸でのところでロシア人クルー2人がなんとかくいとめます。しかしそんな危機にいたってさえも、リネンジャーは危機回避やその後の修理を手伝おうとしないばかりか、「問題の大きさをNASAは理解していない…」といった文句(抗議)を繰り返したとされています。

リネンジャーと宇宙空間で何カ月も同居するという“苦行”を強いられた2人のロシア人宇宙飛行士は疲労困憊し、帰還してからもその不満をロシア当局者にぶつけ、二度と宇宙に出ることはなくなってしまいました。人命が失われるような悲劇はぎりぎり回避できたかもしれませんが、やはり事の成り行き全体をみると“悲劇”に近いものだったのではないでしょうか。

■後のスペースシャトル事故にもつながる宇宙機関の体質
ここには、当事者であるリネンジャーのメンバーシップ(フォロワー・シップ)意識欠如はもちろん、NASAの組織としての臨機応変の判断もなかったことが明らかです。本書の物語のずっと後、スペースシャトル・コロンビア号の事故でNASAの官僚的組織体質が大きな原因だったという報告がされましたが、その組織体質に潜む問題点はこの時にはっきり表面化していたことがみてとれます(NASAの体質についてはいずれ別に記事に書く予定です)。

なお、リネンジャーは別の著書(自著)があり、タイトルはなんと「宇宙で気がついた人生で一番大切なこと 宇宙飛行士からの、家族への手紙」とのこと。コミュニケーションで問題があった彼がそんな本を書いていることに軽い驚きもあります。その本では「すでに、ヒーローなんかではなく一労働者に過ぎない」とか言い訳を言っているようです。

こんな本を読んでしまうと、別の記事「月の記憶 アポロ宇宙飛行士たちの『その後』」で触れたような、宇宙飛行士の人格や宇宙機関の持つ人材管理(Human Resource Management)システムのすばらしさは幻想だったのかとさえ感じそうです。

まあ、どんな組織もどんな人間も、いろいろな矛盾を抱えながら、進んだり後退したりしながら、長期的にみれば少しずつ進歩しているものだと信じていますが…。

それにリネンジャーのような状況に相応しくない言動についても、よく考えると一般人である私たちが仕事の場でつい口にしている文句のようにも思えます。我々自身が、そこに潜む危険に気付かなければならないのかもしれません。