インシデント・プロセス

事故(アクシデント)につながりかねない出来事(インシデント)に気づき、必要な情報を集めて処置をする。事例を基にした演習手法の一つで、教育訓練に利用されています。さまざまなバリエーションがあります。

インシデント・プロセス事例研究法
〔インシデント・プロセス事例研究法〕

■ケーススタディ的な訓練手法
インシデント・プロセス(Incident Process)とは事例演習の一つで、“問題が起こりつつある状態”または“ある発生した出来事”が知らされ、そこからさらに必要な情報を収集、分析して問題解決を行っていく手法です。一般のケーススタディのように背景事項などを含めた長い事例説明文が提示されて、じっくり読み込んでから解決策を探っていくという方法と違い、当初は「組織図と、半ページ程度の長さの事例文または画像やロールプレイ」だけで演習を開始します。必要な情報は(講師や当事者への)質問を通じて自ら探していくことが求められます。

少し前に「インバスケット・ゲーム」と呼ばれる演習を解説した専門書を当サイトの記事でご紹介しました(「管理能力開発のためのインバスケット・ゲーム」)。いずれも20世紀半ばに米国で開発されたケーススタディ的な教育・訓練法という位置付けから、インバスケット法とインシデント・プロセス法はよく並んで説明されます。

ちょっと変わった演習ですが、運用方法によっては事前準備が比較的少なく済むとともに、結構実践的で役立つものになりえます。一般には、中間管理職層のマネジメントスキルまたはヒューマンスキル向上を目的に用いられます。

原型は、この手法の開発者(Paul Pigors)の名をとり「ピゴーズ・インシデント・プロセス」(PIP)と呼ばれます。冒頭写真の書籍「インシデント・プロセス事例研究法」の著者がピゴース氏です(この書籍は絶版となっているので手に入りにくくなっています)。もっとも、元の手法をそのまま実際の演習形態に持ち込もうとしても今の時代に必ずしも合っていないところがあり、さまざまなバリエーションができています。

■PIP:5段階の事例分析
PIPは、次のような性質をもつとされています。
・体験学習であること
・扱うケースはすべて実際に起こったことでなければならない。事実でないことをわずかでもでっちあげない(フィクション不可)。推測を事実であるかのように言わない

分析は次の5段階で進めるとされています。
1) 事例が提示される(ささいなインシデントに気づく)
2) 必要と思われる事実を集めてまとめる(事実を補完して関連づける)
3) 処置すべき問題を決める(直ちに処理しなければならない課題を明確にする)
4) 決心と理由を述べる(代替案から適切なものを選び出し、意思決定をする)
5) 教訓を考える(全体を振り返る、長期の組織目標を考える)

最後の段階では、「今」処理すべき課題だけでなく、前提となっていた「方針」レベルで考えて根本的な対策を描くことが求められます。演習を繰り返すことで、長期的に社員の経営管理能力を開発できるとされます。

一方PIPの欠点としては、次のような点があるとされます。
・教育効果ははっきりしない部分が多いこと
・講師やリーダーの力量、受講生からの信頼度、受講生の学習意欲の盛り上がり方などに成果が左右されること

この演習には思いのほか“深さ”があり、とくに利用者が繰り返し経験することによって、教育の焦点が変わっていくことが特徴とされます。本書では次のように説明されています。
・第1期は題材となっているケースそのものへの興味
・第2期はPIP法の5段階テクニック(研究方法)を使うことへの興味
・第3期は事例研究そのものが一つのケースであるということの興味
・第4期は日常への適用

ようするに、個々の事象の問題解決から入った後、手法の使い方そのものに興味を持ちはじめ、ひいては研修という特殊な場から日常的な業務の場に応用できるということでしょう。

■特定のテーマに絞った応用ができないものか
私見ですが、演習の性質からすると、「一般的なマネジメント」といった内容より、限られた環境や特定のテーマを前提とした中での訓練に向いているのではないかとも思われます。技能・技術研修の一部としても有効なのではないでしょうか。ほんの一例にすぎませんが、
・専門的機械の運用技術の伝達
・航空機など乗り物の操縦技術の向上
・情報セキュリティ管理能力の向上
・熟練加工技能の可視化
など、目的を絞った研修に応用が利くかもしれません(あくまでもアイデアレベルの話です)。

なお、インバスケットと同様、インシデント・プロセスを(教育訓練ツールとしてではなく)アセスメント・テストとしての位置付けをもたせることもできます。ただしその場合、元祖PIPの枠組みでは不可能でしょう。たとえばフィクションの世界の中で題材を用意すること、さまざまな質問をあらかじめ想定して情報収集方法を組み立てること、グループ討議によらない個人単位での解答方式を用意すること、などの準備が必要になるでしょう。セミナー会社、人事アセスメント会社がさまざまな工夫をしていますので一概に結論付けることはできませんが、基本的には能力測定(アセスメント・テスト)より、能力向上のための訓練を主眼に置かれている場合が多いと考えられます。

■インシデントとアクシデント
余談かもしれませんが、ここで繰り返し出てくる「インシデント(Incident)」という言葉は、あらためておさえておきたい概念です。単純な表現をすると、明確な事故のことを「アクシデント(Accident)」と呼ぶのに対して、その一歩手前でアクシデントにつながりかねない出来事が「インシデント」です。

一般に、「1つの重大なアクシデント」の裏には「約30の軽微なアクシデント」があり、さらにその裏には「約300のインシデント」がある、という言い方がされます。大げさな組織マネジメントという立場の人だけでなく、ごく小規模なグループ(例えば家庭)でも、こうしたインシデントをとらえ、かつそれらのインシデントが重要なのか無視したほうが良いのかなどを判断できる力がある人こそが、危機対応能力のある人ということになるでしょうか。

私事ですが、以前あるビジネスパーソン向け原稿で「アクシデント」と「インシデント」の違いの説明を重要事項と思って入れたら、編集者にカットされてしまい残念に思ったことがあります。日本語では「インシデント」に相当するぴったりした言葉がないため、このあたりの概念はすぐに理解されないことがあるのかもしれません。

何をもってインシデントと判断すればよいのか…。状況や社会の価値観によっても変わってくる概念だと思います。インシデント・プロセスという訓練手法を実際に経験するか否かとは別に、こうした手法を知ることで、管理・技術・技能いずれの領域でも、危機や不良発生に対する意識を高めることができそうな気がします。