ミール研究所 MIR МИР

3-3事例8 文書処理システムを自社開発

事例8の会社は、もともとコンピュータの世界から印刷に近い分野の技術をとりこんでいった例です。当時、マックDTP系のシステムとはまた別の流れとして、TeX(テフ)という文書整形システムが一部で注目されていました。


―― 事例8 文書処理システムを自社開発 ――I社(編集/制作プロダクション)

■コンピュータ技術に詳しい頭脳集団
 東京杉並に本社を持つI社は、コンピュータ関連書籍、雑誌の編集/制作を得意としているプロダクション。制作会社といえば一般的には印刷会社に仕事を発注するクライアント側ということになるるが、同社の場合は電子出版の技術では既存の印刷会社をはるかに凌駕し、逆に電子出版サービスを他社に提供している。特に「TeX」(「テック」または「テフ」と呼ぶ)という文書処理システムを用いた印刷物制作で高度な技術を持つ。写植版下制作を内製化だけでなく、電子出版のリーダーとして本来印刷会社の領域だったと思われる仕事の分野を侵食しているようなものだ。
 同社は業務内容として、編集制作業務以外にプロフェッショナルDTPシステムの開発やDTPコンサルティングを掲げている。もっと根源的にいえば、ドキュメント(文書)管理のあり方を研究し、コンピュータ・ネットワークによる構築および運用を技術面からコンサルティングする「ドキュメンテーション・エンジニアリング」がターゲットだ。「TeX」はドキュメンテーション・エンジニアリング分野を切り開く一つの道具である。こうしたサービスをしている企業は日本では他に例を見ないだろう。
 同社のサービス内容を観察してみると、印刷業界の屋台骨が揺るがすような水脈が地下で流れていることが分かる。

■TeXの技術に自信
 同社の設立はわずか4年前の1988年。H社長含めたった2人の旗揚げである。以後書籍、雑誌の編集、TeXやマックを用いた制作を行い、現在の社員は12人。1992年の年商は1億7000万円(予定)。得意先はアスキー、ビレッジセンター、ソフトバンク、オーム社などコンピュータ関連企業が多数並んでいる。
 この間、コンピュータ言語の解説書や「日本語TeXテクニカルブック」などパソコン技術書、入門書を数十冊手掛け、中には「勝手にMS-DOS」「健康ソフトハウス物語」など理工書ランキングで1位になる本も7冊程ものにした。マニュアルでは「informix」(アスキー)「MS-DOS」(日本電気)等の編集または版下作成を行った。雑誌でもLAN TIMES(ソフトバンク)誌の本文作成を完全にマックで処理することに成功したり、最近ではパソコン月刊誌「PC POWER」(ビレッジセンター刊)の編集を取り仕切っている。
 制作面ではTeX組版、マック組版を2本柱としている。出力機こそ持っていないが、TeXで組んだ本について「商業ベースでは日本でうちが最高水準の技術を持つ」(H社長)と自信を持っている。
 ところで「TeX」とは何か、と気になるところであろう。
 TeXとは、書籍のような大量文書を扱うページ物の制作に適した文書処理システムのことで、有名なコンピュータ科学の研究者として有名なスタンフォード大学のクヌース教授が開発したシステムである。複雑な数式を含む文書や大量の文字組版でもバッチ処理で組み上げられる。冒頭の図のように一種のコンピュータ・プログラムを記述すると、プログラム内容に応じて文字を配置し、美しく並んだ文書を作成する。当初英語の文章を対象に開発されたものだが、日本でも大手ソフトハウスのアスキーが中心となり日本語版処理系が開発された。現在は写研の電算写植機に出力が可能で、写研フォントも30種類以上対応している。
 要は、汎用のコンピュータで動く組版システムで、写研フォントを使った品質の高い印刷出力が可能である。ただし、WYSIWYGではなく組版プログラムの記述に専門性が要求される。国内ではまだまだマイナーだが、コンピュータ技術者を中心に注目されている。
 I社のようにTeXの処理システムを整備し、一般にサービスしている企業は非常に少ない。そのため、何とかTeXで処理しようとしているクライアントは、口コミで聞き付けて次々に同社に仕事を依頼する。同社では営業員を一人も置かずとも仕事は自然にやってくる。まだニッチ・マーケットかも知れないが、特定の分野で絶対の商品力を有しているわけだ。
 図3-39に、同社のTeXによる版下制作の流れを示した。一般のパソコンで書かれた文書フロッピーを受け取って、いったんMS-DOSの標準テキスト・ファイルに変換する。そこから同社内でTeX組版を行い、それをサン・ワークステーション上で処理し校正を出す。修正が終われば出力センターに依頼して写研出力をする。

(図3-39 TeXによる版下制作の流れ)
(図3-40 I社で扱う各システムの特徴紹介)

■汎用性のないシステムは選ばない
 なぜTeXなのか。組版の能力が高いこともあるが、それ以外に「汎用的であること」をH社長は挙げている。
 少しコンピュータに馴染んでいる人間にとって、自分の好きなシステムを好きな形に組み合わせようとするのは非常に自然なこと。ところが、例えば日本の電算写植システムのような専用機化されたコンピュータは汎用性に欠ける。専用ソフトはユーザーの批判にもまれることが少ないから使い勝手も悪い。一方、汎用のコンピュータ上で設計されたTeXのようなソフトは、他の標準的なソフトと組み合わせることが出来る。実際、同社のTeXの処理システムは、UNIXマシンの各種ツールを自分達で組み合わせ、プログラミングして最適なシステムを組み上げてしまったものだ。写植エミュレータもSUN上で自作した。
 こうした「オープン指向」は、印刷の情報処理を考えるうえで非常に重要である。他の印刷会社の事例でも触れたが、せっかくコンピュータを利用した「電算写植」なんだから、電算処理が出来ない電子出版システムなど不自然である。例えば、写植機メーカーが作った出来合いの印刷専用マシンを従来システムから置き換えただけで「電子化した」と満足してしまうようでは不十分である。電子出版システムをたんに「新しい機械」ととらえている限りにおいては、伝統的な印刷業の考え方から脱皮できないだろう。電子出版システムとは、これまでの印刷機械の延長というよりは、コンピュータ・システムという大枠の中で位置付けるべき存在なのである。
 I社のように、日曜大工感覚でコンピュータ・システムをつなぎ合わせる技能は今は誰でも持っているわけではない。だが、将来もう少しパソコンが進化したら、さほど困難を伴わずに個人用、部門用のシステム・インテグレーションができてしまう可能性がある。コンピュータのオープン指向が広がるに連れ、その中には当然、印刷システムが組み込まれてこよう。考えてみれば10年前にはごく専門的な技師でなければコンピュータが扱えなかったが、現在は子供から大人までワープロや計算ソフトを駆使している。あと10年たったら、組版システムや印刷ツールなどごく簡単に個人レベルで組み合わせて印刷をしているかもしれない。その時、閉鎖的な電算写植機を使っているだけなら、伝統的な印刷会社は不要となる。
 同社が扱っている書籍は理工書なので、既に手書きの原稿などほとんど来ない。若い世代では顧客環境も劇的に変わり、すべてワープロで書き電子処理すうることがあたりまえ。これを前提に書籍やマニュアル制作の打ち合わせを行う。足りないシステムがあれば自前で組んでいく。そんな高度なノウハウを一般企業が持ちはじめたら、どうして伝統的な印刷会社を頼るだろうか。I社のように、逆に「DTPコンサルテーション」や「DTPシステム・インテグレーション」という看板を掲げるのはごく自然の成り行きであろう。

■提携先とLAN間接続
 同社のシステムは、マックによる制作システム、TeX処理が中心となるSUNワークステーション(Sparc Stationを2台)、その他ソニーのワークステーションNEWS、日本電気のパソコンPC-9800がイーサネットというLANを軸にネットワーク化されている。外部に対して9600bpsの速さで通信できるモデムを常備し、外部ライターやスタッフの自宅とデータ送受信が簡単にできる(図3-41)。
 さらに、ネットワーク構成は高度になっている。
 まず、マックのLANシステムは、ISDN回線を使って外部のある出力サービス業者とLAN間接続を可能にしてしまっている。少し難しい言葉を使うと、ROUTE ONEというルータを互いに使って、LocalTalkというマックのLANシステムに直に飛び込むことができる。I社の社内から見れば、自分のマック画面に外部業者のマックの存在が映しだされる。通信速度は128Kbps(INS64を使い、64Kbpsで送れるBチャネルを2本併用する)という高速なので、公衆回線を使っている意識なしにメッセージやファイルの送受信を直接できる。まるですぐ隣に出力サービス業者がいるようなものだ。電算写植出力機を自前で持っていないとはいえ、こういう通信システムを実現していることでほぼ同等の環境を実現できている。
 また、UNIXワークステーションと出力サービス業者とのLAN間接続は、マックほど密接な接続を実現できていないが、ある時間間隔でファイル自動送信が行えるプログラムを組み合わせ、TeXの組み上がりデータを9600bpsの速さで自動的に出力サービスに送る仕組みが出来ている。同社のスタッフは通信を意識することなく、いつのまにかメッセージや文章データが出力サービス・センターに送られて、出力結果が届けられるようになっている。

(図3-41 社内ネットワーク図)

■自由な社風
 同社のような若い社員でできた組織を「コンピュータ・マニアの集団」だ
と特別視してしまう向きもあるかも知れない。だが、コンピュータにそこそこ詳しい集団は、制作プロダクションに限らずあちらこちらに出現している。
 すべての社員がコンピュータ利用を前提として仕事をしている企業は既に珍しくない。社員の意思疎通は主に電子メールで行い、パソコンでちょっとした道具を作っては仕事に役立ててしまう。いわゆる「コンピュータ・リテラシー」の高い集団だ。コンピュータ“技術”に詳しいというより、コンピュータ“利用術”に長けている。
 そういうコンピュータ・リテラシーの高い企業はどんな性質を持つか。一般には、やはり自由な社風を持つところが多い。例えば旧来型企業の目から見ると「上下の差があまりなくケジメがない」「ネクタイをしていない人が多い」「個人個人は結構自分勝手に仕事をしている」といった反感を持たれることもある。
 I社の場合も、良い意味で、自由な社風を持つ“新人類企業”に分類できるだろう。決まった勤務時間などもちろんなく、完全なフレックスタイム制をとっている。技術者は自我が強いが一方で非常に真面目。1日12時間くらい働くなど珍しくない。正社員もアルバイトも全く同じレベルの仕事が与えられ、責任も大きい。「アルバイトと社員の違いは単なる雇用形態の違いに過ぎない。区別してしまってはだめだ。コンピュータ・ネットワークのパスワードも与えるし、名刺を作る、急に大きな仕事も頼む」(H社長)。そもそもH社長は同社設立前、新人類企業の代表格ともいえるアスキーの社員だった。
 新人類企業なら電子出版も自社開発してしまうと短絡的に結び付けるつもりはない。だが、少なくともコンピュータ利用にこだわりなく、その延長として電子出版を当たり前のように受け入れる素地がある。そうした人達が印刷業を見た時、伝統的な印刷の姿があまりにも古すぎて、自分達が知っている電子出版の世界とは比較の対象にもならないくらい陳腐なものと感じられてしまうだろう。今後この傾向が強まるのは明らかである。
 となると、彼らに印刷業務が内製化されるどころの話ではなく、彼らの技術に伝統的印刷業は取って代わられると考えるのが自然である。I社はそのほんの一例に過ぎないのではなかろうか。

■技術力を見込まれ仕事は次々にくる
 同社は、マック、TeX、写研電算写植の3種類が制作の3本柱だが、うち電算写植についてはほとんど力を入れていない。「付き合っているクライアントがどうしても電算写植をと言われた時のために電算写植をやっているので、本当のところつきあいでしかない」(H社長)という。一般の印刷業で言えば写研の電算写植がどうしても主力になるであろうが、同社への仕事は「逆にTeXを指名してくるケースが多い」という。
 それでも、今年いっぱいの仕事量をすでにかかえているという。
 「仕事が次々来て、それをこなすために人を増やしてきたが、実はもうこれくらいであまり人数的な規模は大きくしたくない」とH氏は言う。TeXについては積極的にやっていくが、無理な企業拡大は望んでいない。
 書籍についても、クリエイティビティーの高い、変わり種の本を出していきたいとする。今後は、関連会社として設立した「メロン出版」ブランドで書籍を発売するという。

■狙いはドキュメンテーション管理
 それでは、H社長をはじめ同社が指向している「エンジニアリング・ドキュメンテーション」とは何か。結論を言うと、それは次世代の電子出版のあり方そのものに関わっている。
 ドキュメンテーション管理とは、様々な文書や書類を組織や個人がどのように管理し、利用していくかという広い概念を持っている。しかも紙という媒体にこだわらず、特にコンピュータ技術をベースにした文書作成、検索、利用ノウハウの確立が欠かせない。エンジニアリング・ドキュメンテーションとは、「コンピュータ技術を駆使した新たな情報提供の仕組み」と考えると分かりやすいかも知れない。
 例えば、技術文書は頻繁な情報の変更があって、印刷が出来上がってきたときには既に役に立たなくなっていることがある。リアルタイムで情報を変更できる必要があり紙への印刷そのものとタイムラグがある。今までのように紙にマニュアルを刷って、それを手でめくりながら情報を得るという文書利用ではなく、コンピュータ上で必要な情報を検索する。情報は印刷するのが目的ではなくて、使うのが目的である。もし紙で見たければ、ユーザーがその場で必要な部分だけを印刷すればよいわけだ。
 「ベースとなるドキュメントがあって、それをさまざまな形でも出せなければいけません。そのためには、文書全体を管理する技術、ネットワーク技術、データベース技術が欠かせません。これは、印刷の側からだけの発想では出来ないことでしょう」。
 H社長は、このように語っている。


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お知らせ他

この文章は、1992年にJICC出版(現・宝島社)より発刊した「プロフェッショナルDTP」(著者・松山俊一)から本文を抜粋してまとめたものです。内容に少し加筆編集を加えていますが、概ね原文のまま掲載しました。執筆時期が1992年なので、書かれている内容・情報はかなり古くなっていることにご注意ください

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