事例3は、中堅の総合印刷会社が始めた新しい事業展開についての例です。
―― 事例3 伝統ある印刷所に新世代事業部が発展 ――D社ポストスクリプト系のデータを高度な製版につなげる可能性が注目されている。D社では、マックを中心としたDTPシステムで実績がある。グラフィック事業部という新しい部署を設け、電子製版やソフトウエア事業に意欲的に進出した。マック関連では業界で最先端の設備と人員体制を備えているといってよいだろう。
D社は東京品川区に本社を置く年商150億円、従業員430人の中堅印刷会社。創業は1932年(昭和7年)と古い。正式な社名は「D社印刷所」であるが、グラフィック事業部では通称として「印刷所」の名前を取り去って「D社グラフィック」と称している。既に意識の上では“印刷所”の範囲を超えているわけだ。
とはいえ同事業部は全社から見れば小さな組織に過ぎず、本体はトラディショナルな印刷会社として、一般の写植、組版から、製版、オフセット印刷、美術印刷、製本加工までこなす総合印刷会社である。神奈川県秦野市などに生産拠点としての工場を持つ。事例1、2のA社、B社に比べると企業規模も大きく、その分伝統的な印刷業者からどのように新たな芽を産み出していったのか興味が持たれる。■経営トップの海外体験
DTPを導入しグラフィックス関連の新規事業に踏み出したのはわずか4年前のこと。あるメーカーからの欧文マニュアルを請け負ったのを機に始まった。1988年、やっと日本でもDTPという言葉が使われるようになった頃のことである。
もちろん電算写植、電子組版の類はそれまでにも使われていたが、マック、ポストスクリプト、レーザライタ(アップルコンピュータの発売するポストスクリプト対応プリンター)という、DTPとして最も標準的な組み合わせでDTPを入れた。この時は「とりあえず」導入したに過ぎなかったが、まるで植物の種のように埋め込まれたシステムが今のグラフィック事業部を成立させていった。「当時はこういう事業部に成長するなどとても予想できなかった」というのが社員の素直な感想である。
この種を蒔き育てていった推進役は、現取締役グラフィック事業部長のF氏である。F氏は、創業社長から数えて三代目、現社長の跡継ぎにあたる。
F氏は、学生時代米国の大学で言語学を学んでいた。大学を卒業して就職活動をする際、DTPに触れた。米国では大学の近くにはどこにもタイピング・サービス、つまりプリント・ショップのような店舗が編集、出力サービスを行っている。一見おもちゃのようなパソコンで簡単に品質の高い印刷、版下作成をしてくれることに驚かされた。
この体験がきっかけとなり、帰国時にはマック(Macintosh Plus)を買って日本に持って帰ったという。後にD社に入社し、前述した欧文マニュアルを手掛けることになった時、F氏がパソコンDTPを提唱した。当時、周囲には反対もあったが、同氏が強力に主張して導入を図った。経営者に直接影響のあるトップの意見だから取り入れやすかったということはあるだろうが、実際にDTPの体験を語れたことが、伝統的な印刷会社に新たな技術を持ち込む説得材料になったことは想像に難くない。
88年9月にCPL(コンピュータ・パブリッシング研究所)という名称で新セクションを作り、欧文マニュアルの制作のみならず、将来の出版、印刷事業を研究する部署と位置付けた。マニュアルをはじめとした軽印刷の部分を徐々に取り入れ体制固めができたため、91年の4月に事業部に昇格した。現在の人員は事業部全体で40人になった。
91年8月には、サイテックスのレスポンスシステムを導入し、ハイレベルの製版が出来るようになった。もちろん、ライノタイプ、バリタイパーといったイメージセッターも導入されており、ミドルレベルの出力はこれらで行っている。■外国人スタッフの登用
新セクションが立ち上がっていく過程で忘れてはならないのが、外国人スタッフの登用だ。DTPを入れると言っても、日本では経験者がほとんどいない。そこで、立ち上げ当初にJAPAN TIMESで人材募集をかけた。英字新聞での人材募集は効を奏し、かなり質の高い応募があったという。その時採用した3人の外国人スタッフが、事業部の技術面、運用面のノウハウを切り開く主力となっていった。
もっとも、3人ともパソコンの経験がそれほどあったわけではない。デザイナーやタイポグラファーとしての専門知識がパソコンDTPでより大事と判断して採用に至った。ほかに別の部署から日本人スタッフをメンバーに加え、新たなセクションのスタートさせた。■専門職は必要ない
現在は、グラフィック事業部の制作スタッフは、大きくテキスト部隊、レイアウト部隊、デザイン部隊の3グループに別れている。テキスト部隊は、マックのワープロを使って文字入力を行う。もちろん、フロッピーで文章入稿された場合はその限りでない。レイアウト部隊は、テキストになったデータをレイアウト化する。この二つのグループはマニュアル関連の仕事が最も多い。デザイン部隊は、VIG(Visual Image Group)と呼ばれ、イラストレーション、イメージ処理からサイテックスへの製版処理を進める部隊。取り扱い商品としては美術書が多い。
スタッフには1人1台以上のパソコンやワークステーションが装備され、マックはすべてLAN(LocalTalk)でつながっている。
もっとも、スタッフはデザインならデザイン、テキスト処理ならテキスト処理とある専門業務に特化させるわけではなく、逆に一人ですべての工程を処理していくのが基本になっている。従来の印刷の考えで言うと、入力オペレーター、組版技術者、フィニッシャーといった役割分担が当然のように考えられるが、「パソコンがさまざまな処理をしてくれることでそれぞれの専門職はいらなくなり、一人で何役もこなせるようになった」(T営業企画課長)。
これは、機器の利用技術にかなりの習熟を必要とする時代には考えられなかったことだ。従来の電子組版システム、電算写植システムにおいても、やはりそれぞれの専用機の利用技術を一つ一つ修得していく必要があった。そのため、一つの工程を覚えるだけで数年の時間を必要としたし、業務ごとの専門家も必要であった。
しかし、パソコン、特にマックなら、統一した操作性を保ちながら各種の処理を行える。ソフトウエアごとにある程度の利用知識は必要だが、文字組みからデザイン、フィルム出力まで修得するのに従来ほどの時間は必要としない。同社によると、初心者がパソコンDTPの大体の操作を覚えるのに2週間、プロとして通用するまでに数カ月という。もちろんその間訓練は続ける。コンピュータに限らず組版や製版の工程については学ばねばならない。ただ、専用機のように複雑な操作技術を必要としない分、ずっと訓練の期間は短くなる。それなら、スタッフを専門職に閉じ込めておかなくて済むことになる(図3-13)。(図3-13 印刷工程の分担の変化)
一般論で言えば、これは社員にとっても歓迎すべきことだろう。作業工程の一部分だけを受け持つ歯車となるより、企画から成果物を作り出す流れ全体に責任持って取り組める方が社員の士気は上がる。組織への帰属意識が薄れつつある現代日本において、こうした“プロジェクトごとの責任体制”は若い社員を引きつける魅力となるであろう。経営側から見ても、人件費の節約につながり収益性の向上を見込める。
この組織構造の変革はコンピュータ技術あればこそできたものである。もちろん、従業員によっては専門分化を望む意見もあるだろうが、テクノロジーが組織構造変化や成員の意識変革をもたらすケースがありうることを見のがしてはならない。大げさに言えば、企業社会への従属を強要するような古い日本型組織が破綻しつつある現代において、新しい組織を実現するヒントになるのではなかろうか。■コンピュータならではの印刷ノウハウ
マニュアル制作は順調に増えていった。それにともない、デザイン力、コンピュータ技術力、ソフトウエア利用ノウハウなど、電子出版に欠かせない技術力を蓄えていった。他の事例でも同じだが、やはり実績が新たな評判を生み、新たな受注を増やしていくという構造になっている。
例えば、一種類のマニュアルを輸出用に各国の言語に合わせて制作する際、DTPシステムならではの処理手順を踏むことになる。パソコンのページ・レイアウト・ソフトで1つのレイアウトを定めておき、多国語に翻訳した文章を同じレイアウトに流し込むことで各国の言語に応じたマニュアルが出来上がる。ところが、言語によって同じ内容の文章が長くなったり短くなったりする。具体的に言うと、英語と日本語の文章で同じ内容を表現した時、文字づらの上で英語の方が長く、日本語の方が短いという現象が起きる。すると、同じレイアウトを基にしているとは言うものの、質の高い組版処理をするためにはデザイン上で工夫が必要になる(図3-14)。(図3-14 多国語版マニュアルを制作)
グラフィック・データを活用した制作物の例は図3-15に挙げた。こうした実績が増えるに連れ、グラフィック事業部の営業だけでなく、本体の印刷営業(従来型の印刷部門)からの仕事を受けるようになってきた。「デザイナーがマックのデータをよこしてきた。そっちの部門で何とかなるか」というように、ポスターやカレンダー、カタログの制作依頼がくる。逆に、グラフィック事業部でどうしても写研フォントによる出力が必要となる場合、本体の力を借りる。相互にシナジー効果が現われはじめたことになる。
(図3-15 1ページ弱)
ただ、以前は従来型の印刷・製版からオフセット印刷につなぐ仕事と、マックを利用した電子製版の仕事ははっきりクライアント層が分かれていたというが、マックのクライアントもかなり広がってしまった。そのため、受注体制にも工夫が必要になっている。
まず大事なのは、クライアントの知識レベルを確かめることだといわれる。顧客がどの程度電子出版を知っているかで対応の仕方が変わってくる。つまり、
電子出版で何が出来て何が出来ないかを発注者がどこまで理解しているかをふまえ、その上で発注者は印刷会社に何を求めるかを判断しなければならない。例えば、もともとマックを使っているクライアントなら、「イラストレーションは電子データで処理できるけど写真のようなイメージ・データを精密に扱うには荷が重い」ということをすぐに理解してくれる。だから、マックの限界をわきまえたサービスが提供出来る。
一方電子出版のメリットや限界をあまり持たないクライアントの場合、電子出版で「まさかこんな基本的なことが出来ないとは思わなかった」という行き違いが生じやすい。だから、たとえ相手がマックによる出力を望んでも、場合によってはトラディショナルな印刷方法を薦めることもある。
コンピュータに関する知識レベルだけでなく、印刷工程に対する知識にもかなり差が出ている。
例えば、クライアントが版下を自作し、どこかの出力サービス業者で出力したフィルムを持ち込んだとする。ところが、そのフィルムにはトンボ(印刷の目印)がなかったり、フィルムが伸びていたりと、そのままでは不十分なケースがよくあるという。
こんな持ち込みを防ぐには、やはり印刷会社が入力から出力まで全体をサービスできるような体制作りが必要だと同社では見ている。
ほかにも、電子出版の問題点には数多く遭遇する。
「最後の工程に入ってから修正が入り手間がかかった。直し代も請求できなかった」
「ポストスクリプト出力に時間がかかるにはまいってしまう。専用機なら5分で済むものがポストスクリプトでは30分もかかかってしまった」
「サイテックスの出力時間が読めない。バグにも遭遇した」
結局、スムーズに事業を伸ばしてきた言うよりは、走りながら勉強しながら、一つ一つコンピュータ印刷だからこそ必要となるノウハウを学んでいったと表現するほうが当たっているだろう。電子出版にはまだまだ問題点が多く、質の高い印刷物を効率良く生産できる体制が出来上がるには、同社に限らずまだ現時点では試行錯誤が必要な段階である。ただ、同社ではコンピュータ印刷の需要が本格的に立ち上がる時期が93年にも来ると見ている。「だから今からその需要に対応できるよう、DTP知識の修得や営業員育成を心掛けているわけです」(T氏)。■ソフトウエア事業に進出
他の新世代型印刷業者と同様、D社でも紙への印刷だけが印刷の将来像だとは思っていない。「コミュニケーション・ツールとして印刷があり、デジタルデータがのマルチメディアへ発展性すると考えている」(マーケティング課)。本社会議には、大型テレビとマッキントッシュを接続したマルチメディア・ルームを備え、プレゼンテーションに使える設備を整えている。
その一環として、グラフィック事業部では91年から画像データベース・システムやソフトウエア・パッケージの販売に踏み出した。
「FOLIO」は多数の画像データを効率的に管理するためのシステム。ユーザーが取り込んだデータまたは既存の画像データをデータベース化し、プレゼンテーションや集版に利用する。高解像度の画像データをD社で持つと同時に、低解像度のデータをキーワードを付けてFOLIOに入れておけば、図3-16のような画面で自由に検索できる。これをユーザーが手元のパソコンでデザインに利用し、デザイン情報を電話回線でD社に送れば、D社では画像データの部分を高解像度のデータに差し替え、サイテックス・レスポンスシステムで4色分解のフィルム出力ができる。
「W-ink」はオンライン・データサービスの一種。米国でKRTN社(Knight- Ridder /Tribune News)が報道機関向けに提供している画像ニュース・サービスで、D社が日本における代理店の役割を持つことになった。欧米で集められた新鮮なニュース映像がデジタル画像データで提供され、それを新聞、雑誌などの紙面に利用できるシステムだ。電子データのままマックなどで処理することが出来る。内容は、政治、経済、国際、文化、教養、芸能にわたるニュースを365日、24時間体制で提供する。ナイト・リッダーやトリビューン系の新聞に掲載された報道写真は、データベースにファイルされていく。ニューヨークタイムズの統計グラフやチャート、イラストレーションも提供されるという(図3-17)。
ほかに、CGソフト「Spcular-3D」などを流通パッケージの一つとして同社で販売している。グラフィック事業部内にDTP営業のほかソフトウエア営業を中心に行うスタッフも置いた。実際には、これらソフトウエア、システム販売事業はの本格化はこれからのことであるが、「確実に収益力のある事業として成り立たせる」(T氏)意気込みだ。(図3-16 FOLIO)
(図3-17 W-inkの通信画面例)■新事業展開のモデル的ケース
印刷会社に限らずどんな業種でも、新規事業展開を進めるには一般に次のような条件を備えることが望ましいとされている。
(1) 本業が順調なうちに新規事業を育成する。体力の余裕があればこそ積極的な投資に踏み込める
(2) 新規事業は本業と関連する。双方がシナジーを生むことが望ましい
(3) 慣習にとらわれず、アイデアを産み出しやすい土壌を育てておく
あくまでも外部から見た感想に過ぎないが、D社はこれらすべてを実践しているかのように見える。ターゲットとする市場(ここではDTP)の成長性や収益性の検討はもちろん大切だが、計算され尽くした新事業展開というより、おそらくF氏の米国体験で象徴されるような将来イメージを素直に組織に盛り込んでいけたことがキーポイントになったと思われる。
事例1、2のA社、B社がどちらかというと後発組であったことが新たな事業展開をスムーズに進める要因だった。D社の場合は、トラディショナルな印刷業本体が順調なうちに、シナジーを生みだす形でDTPのような新しい芽に投資をした。成功要因は経営幹部主導、推進役が社長の息子だったからこそ出来た、と言ってしまえばそれまでだが、むしろ現場ニーズを育てる土壌に成功要因があったと思えてならない。
自己レス:
D社2008年3月期の売上高は約75億円、従業員数200人強。ということは、記事を書いた頃と比べちょうど半減したことになる。2004年頃は赤字だったとのこと。
2009年2月、経営合理化により本業はなんとか黒字になったにもかかわらずキャッシュフローの悪化(投資の失敗?)により民事再生法の適用を申請した。
by: StartWatch | 2009年02月03日 00:10