ここから3社が、印刷物を発注する一般企業側の事例です。この事例7は、求人広告紙の発行の内製化をいち早く進めた例です。
3-3 一般企業の意識変化 ―― 事例7 印刷内製化から全社情報システムへ発展 ――H社(求人広告紙発行)■写植外注を全廃、内製化
印刷業者の業態変革の例を数多く見てきたが、今度は印刷業者にとってはクライアント側、一般企業から電子出版を取り込んでいく実例を研究してみよう。
ここで紹介するH社は、大手新聞社系列の広告代理店の子会社で、求人情報紙「求人ガイド」の企画、制作を手掛ける。「求人ガイド」はタブロイド版程度の大きさで、一般家庭に届けられる新聞に折り込みまれている。この種の求人広告紙を手掛ける代理店は地域ごとに何社もあるが、同社は関東地方においてエリアを確実に拡大し、この業界で中堅どころの企業である。年商は約20億円、従業員は正社員が約120人、アルバイトを含めて170人規模になった。
こうした折り込み広告は、当然ながら時間との勝負が厳しい。従来は写植から製版まですべて外注していたが、外注では限界があるし費用がかかる。そこで制作工程にDTPシステムを導入し、写植、版下作成を内製化してしまった。さらに、原稿作成で自動的に生じる得意先データをデータベース化し、請求書発行の合理化を目指している。将来はマーケティング・データにも応用できないか研究をしている。
同社は一般企業における文書の内製化促進の好例と言える。システム導入により利益率も大幅に改善された。だがよく見てみると、電子化を軌道に乗せるまでは山あり谷ありで、決してすんなりと導入されたわけではなかった。■発行部数増加で事務量も急増
H社の設立は10年ほど前。現在の業態になって約5年になる。扱っている求人広告紙は地域性が強く、例えば東京都内では「東横沿線版」とか「品川・大田区版」とかエリア別に細かく版が分れている。そのエリアを数多く持つことが折り込み広告の発行部数に直結する。同社はここ数年、売り上げを伸ばすために積極的なエリア拡大を行った結果、現在のエリア数は以前の約3倍まで増えた。今後もエリア拡大に向けて邁進していくという。
取引先エリアを急速に拡大してきたが、それに伴い原稿処理や請求関係の事務量が急速に増大した。
従来は、営業員が取ってきた広告の原稿を社内でもう一度書き直す作業を行っていた。この作業は制作部員の仕事だが、とても手間がかかり、エリア拡大によって仕事が増加すると原稿を写す作業も膨大な量となってしまう。また、本社営業部(東京錦糸町)のほかに支社が6カ所あり、それぞれで営業、制作を行っている。複数の支社にまたがる原稿もあるが、支社ごとに制作部員を配置して制作しており、それぞれが懇意にしている業者に写植や印刷を外注するため全体としてムダも多い。受注の情報をとりまとめ請求書の発行をするにも、営業が分散しているから正確な事務処理には手間がかかる。時間に追われながらすったもんだしているような状態では、当然ミスも発生した。
これまで事務スタッフを増やして事務量増加に対応してきたが、内勤者を増やす方法のみで対応することは、経営の観点から見ても人件費という経費の増大を招き限界がある。DTPシステムを取り入れることになったきっかけは、こうした業務の効率化と制作費低減を何としても果たさなければならないという、同社幹部の危機感にあった。■テスト導入で社内を説得
まず91年の8月、テスト的にキヤノンのDTPシステムEZPSを導入した。導入の旗振り役は媒体部のA主任。A主任は作業量の増大が招いた危機を乗り切るにはコンピュータ化が不可欠と以前から考えていた。導入に先立つこと1年から2年前からシステム導入を主張し続け、やっと経営者を口説き落とした。
A氏自身はコンピュータに詳しかったわけではない。優秀な営業員として営業活動を続けていく過程で事務効率化が必要と実感する。しかし社内にコンピュータ・システムを組んでいくためのスタッフがいたわけでもないため、自ら必要に迫られてシステム構築に乗り出したと表現したほうがよいだろう。もっとも、DTPシステムの導入を実現するまでには、A氏が何度も繰り返し必要性を訴えて社内にアピールする必要があった。最初にEZPSをテスト導入する際にも「山のようなレポートを書いて」社内を説得したという。その後の運用やシステム展開も、この人がいたからこそ推進していけたと思われる。
少し話はそれるが、一般論で言うと、大企業に限らず急速に事業を拡大している成長企業でも、日常業務に追われがちな組織では意外と成員のアイデアが硬直化する傾向がある。DTPシステム導入のような新しいチャレンジを試みた時それを社内的にオーソライズするには、H社に限らずどの組織でもそれなりの根気が必要のようだ。
さて、EZPS導入でとにかくテスト・ケースとして「求人ガイド」を一度制作した。そして、出来栄えが今までのものと比べ大きく劣るものでないことが判明する。これで本当に社内的な方針が固まっていった。とにもかくにも実例を作り出したところに、同社がDTPを本格活用に乗り出せた要因があったことになる。■DTPに合わせ原稿様式も変更
本格導入に当たっては、EZPSとは別にPC-9800と「WAVE:商印」のシステムを選んだ。EZPSは操作は比較的やさしいが定常業務に流すには、フォント数など制約があった。一方、WAVEは印刷用データをデータベースとして管理して他のコンピュータ処理に応用できる。H社で四苦八苦していた請求業務と原稿データをなんとか結び付けられないかという期待から、このソフトを選んだ。WAVEにより徐々に版下作成を内製化し、既に5システム導入した。決まった版下がある定型的なものをWAVEでこなし、非定型でフォントが少なくて済むものはEZPSを使うという使い分けをしている。
制作では、文字原稿のほか、図版はWAVEで直に作成していく。イラストや会社のロゴマークは当初貼り込みだったが、後にスキャナー(POLUX)を導入し、電子データとしてWAVEに持ってくることを可能にした。いずれも、それほど質の高い印刷を必要としない限りは十分実用化できている。写真については、今は貼り込みで処理している。(図3-34 組み上げた現在のDTPシステム)
図で分かるように、5台のパソコンはLAN(企業内ネットワーク)でオンライン化され、さらにデータ・サーバー(大量のデータを一括して蓄えておけるコンピュータのこと)としてサン・マイクロシステムズのUNIXワークステーションを入れた。また、WAVEから普通紙でプリントアウトできる写研のプリンターSAGOMESを購入し、普通紙のよる版下作りまで一気に実現させていった。印画紙出力や写真イメージの取り込み、他支店との連動はこれからだが、一応ハード的には電子出版のメドはついたことになる。
■導入には社内の反発も
問題は運用面、それも“人”をどう動かすかがポイントになる。
このシステムを稼働させる前提として、営業が取ってきた原稿、すなわち求人情報が何らかの方法で電子化されていなければならない。しかも、パソコン上で統一的に求人情報を扱おうとしているため、原稿フォーマットにある一定の制限を加えている。従来のように、与えられた枠を顧客や営業員、制作部員が自由自在にレイアウトすることはできず、図3-35のような受注のための原稿用紙に原稿内容をあてはめる作業が必要なのだ。
理想的に言えば、営業員がこの原稿用紙を持ち歩き、顧客の前で「これはこうですね、ここはこうしましょう」と原稿を完成させてしまえばよい。いったんラフで書いた原稿を後で制作部員が書き直して…、という従来型の制作方法に比べ、受注時に最終的な原稿イメージが一応完成するのだから、顧客(発注者)にとっても喜ばしいことである。これこそ、電子出版の最大のメリットと言える。さらに原稿を書いた営業員がパソコンに向かい、正しく入力すれば完成する。実際、A氏もこのような運用方法を想定しているし、そのように指導している。
だが、原稿フォーマットに制限があるということは、顧客や営業の要望を完全に呑めないことを意味する。例えば、社名と電話番号、住所については、原稿の最下部に位置することが取り決めてある。しかも、営業員が自分の手で面倒くさい原稿に文字を並べなければならない。ましてやパソコンを使えない営業員がキーボードに向かうなど苦痛となる。クライアントが作成済みの版下を用意することもあるが、それでは標準フォーマットに合わない。「原稿は原則として営業員がお客さんのところで書き込む」という規則を作ってはいるものの「現実にこれを守っているケースは20%~30%しかない」(A氏)。あとの大半は、営業員が社に戻ってから渋々原稿作成する。あるいは、結局内勤の制作部員が、従来とそれほど変わらない方法でラフレイアウトを書き写している。違うのは、手作業がパソコンに変わったこと、もう一つは標準フォーマットで原稿例アウトすることが義務づけられていることだけだ。(図3-35 原稿用紙の画面説明図)
DTP導入に異論はなくても、このあたりの運用がうまくいかなければ社内から反発されかねない。
A氏によると、制作部員からはほとんど反発はなかったという。営業員が入力する分、原稿に書き写す単純作業は減ったわけだ。顧客にも、原稿フォーマットの制約についてそれなりに理解してもらっているという。だが、営業からは文句も出てきた。「昔は枠がなかったから原稿は自由だったが、社名の入る位置が決まってしまうのではやりにくい」。「制作部員がやってくれていた原稿作成を自分達がやる分時間を取られてしまう」。営業員をどう納得させるかが、DTP運用を円滑にするための最大の課題と言えそうだ。
でも、推進しているA氏自身、同社では営業の出身である。このシステム自体「制作のためのシステムではなくて、最終的には営業のためのシステムである」ことを訴えている。将来的には、営業員が“原稿集稿用機器”として、小型で手書き入力が出来るようなハンディ・ターミナルかノートパソコンを持ち歩き、クライアントの目の前で原稿作りをしてしまうことを想定している。会社に戻ったら、そのデータをデータベースに流し込むだけで版下作成の一歩手前まで出来上がる。あるいは電話回線を介してその場で会社のコンピュータに入稿してしまってもよい。この段階なら修正も出来る。入力データはそのまま請求書発行データにもなる。全部がまとまり、タイムリミットがきたら一気にデータをDTPソフトに割り付けて版下を作成すればよいわけだ。
要は、入力が出力に直に反映させることを狙っている。単に内勤の制作作業そのものをなくして人員削減をするということでなく、顧客の要望やイメージがそのまま製品になることで質的向上や合理化を図るわけである。「営業員に車が必要だと言っても一人一人に運転手を付けないでしょう。それと同じように、パソコンへのデータ入力は当然営業員の役割ととらえて欲しい」とA氏は営業員を説得するのだと言う。■メディアの意味をよく考える
ところで、印刷物の仕上がり面では十分な品質を得られるのだろうか。
現在印画紙出力の出来る電算写植器までは持たないため、社内だけでは普通紙版下しか作れない。以前から印画紙出力を版下に使っていたことを考えると、品質面で疑問が残る。同社も当初は、普通紙プリンターは校正用に使い、本番の版下は外部に出力を頼んで印画紙出力を用いることを考えていた。A氏はある印刷業者から「普通紙の版下ではロクなものが出来ませんよ。うちで印画紙出力をすればいいじゃないですか」と諭されたこともある。
ある時、その印刷業者が訪れ、たまたまその場にあった「求人ガイド」の出来上がりを見ながらA氏に言った。「やっぱり普通紙ではだめでしょう?」。ところがその手に取っていた「求人ガイド」こそが、実は普通紙を版下で作ったものにほかならなかった。その後普通紙を版下に使うことにあまり戸惑いはなくなった。
折り込み求人紙だから、高度なカラー製版や文字質といったクオリティーはそれほど高いものを求められているわけではない。だから、DTPシステムで若干の制限が生じても、版下作成を普通紙にしても、見かけ上それほど質は落ちない。メディアがどのような情報を伝えるか、メディアとしての意味をお客さんに納得してもらえれば大丈夫だとしている。
DTPの功罪のうち、版下は印画紙から普通紙に変えてしまっては質が落ちるとか、コンピュータ上の制限が印刷物の自由度を落とすとか、“罪”の部分が一般論として表面に出てくる。だが、その印刷物がどんな意味を持った媒体であるのかを考慮しなければ結論は出ないのだろう。美術書のようにちょっとした手抜きが大問題になるケースもあれば、ほとんど問題にならない媒体もたくさんある。そのことをH社の事例が教えてくれる。■輪転まで内製化したい
さらに「もし可能なら、輪転機まで購入して印刷まで内製化してしまいたい」とA主任は語っている。一見無謀な考えとも思われる。だが、一般企業でリソグラフ(理想科学工業)のような簡易印刷機が普及していることを考えると、もう少し印刷品質が高く、しかも大量印刷が可能な「簡易輪転機」のような印刷機が将来登場することは十分に考えられる。同社の求人広告紙のように、「高度な印刷品質までは必要としない」かつ「製本を必要としない」ならば、組版や版下作成はもちろん、輪転による印刷まで完全に内製化してしまっても決して不思議でない。■経理へのデータ受け渡し
当初の目論見通り、原稿入力時に顧客企業の住所、電話番号などを入力しておくことにより、請求書の発行や経理データへの連動が出来るようになる。経理処理を電子化するには、先に触れたように原稿すべてが規則に乗っ取って電子化されている必要があるため、現時点ではテスト段階である。だが、エリアによってはほとんど電子化が完成するので、そのエリアだけでもフロッピーで経理データを渡すことを予定している。
ただ、経理との連動についてはコード番号がネックになっている。得意先は多岐にわたるし、次から次へと新規顧客を取り込んでいくには経理上の得意先コードをその度に付けなければならない。これではコードのメンテナンスのためだけにかなりの手間と時間を費やさねばならなくなるので効率化にならない。そこで、今のところ得意先が出るごとにコード付けなどせず、その会社の電話番号をコードに転用してしまうことを考えている。商品コードについては20種類くらいあれば十分なので問題はない。■顧客情報のデータベース化
経理への連動より、営業員にとってのメリットは、原稿入力がそのまま顧客情報データベースを成長させていけることだろう。A氏は次のように自分の体験を説明している。
「うちの仕事は住所録商売だ。DMやFAX、訪問で仕事を取ってくる。だが、これまで顧客リストは必ずしも整備されていなかった。そこで私は自分でリストを整備し、保険会社のように定期的にDM資料を完備して送ることを始めた。それで私自身は他の営業部員と比べケタ違いに良い営業成績を達成した。得意先は、常時人材採用を必要としている企業以外は、訪問営業に時間をかけても効率的でない。“足しげく通う”より“必要な時に顔を出す”ことの方がよっぽど顧客にも嫌われなくて営業成績も上がる」。
A氏が繰り返しDTPシステムを推した背景に、こうした顧客データベースの必要性を身を持って感じていたことも大きい。■組織風土の改善
同社がDTPを導入する直接のきっかけとなったのはエリア拡大に伴う事務量増加に対応するため。さらに経理や顧客データ・システムへの応用に至った。だが、間接的に組織風土の改善を狙っている点を見逃してはならない。
もう一度、同社の従来の方法の問題点を整理してみよう。
1.営業員が顧客から取ってきた原稿のラフスケッチを、制作部員が手作業で書き直す必要がある。たんに原稿を写し直すだけの仕事では社員はやりがいを感じなくなっており、仕事が面白くないという状況が起こった
2.原稿を写植業者や印刷業者に外注する際、その外注先は支社や制作部員ごとに懇意のところに頼むためバラバラである。
3.受注量が増えても工程の見直しがされていないため、請求処理業務は増大する一方である。内勤者を大幅に増加しない限り、勤務体制に不満が出る
これでは勤労意欲の低下を招き、企業風土にも悪影響が出る。
3つの問題点は、DTPシステムの導入により解決可能なものばかりだ。もちろん、コンピュータ化に伴う新たな問題はあり、それをうまくコントロールできればという仮定の上での話だが、それさえ乗り切れば、職務内容を改善し、組織風土の活性化をもたらすことができる。■段階を追ってシステムを拡充
今後は、図3-36に示すステップでシステムアップを計画している。
「STAGE I」が現在構築を進めているレベル。普通紙版下を作り出すまで。普通紙プリンターのSAGOMES、UNIXデータ・サーバー、LANが本格稼働すればこのステージが終わる。
「STAGE II」は、支社とのネットワーク実現だ。池袋支店にWAVEとEGPS、スキャナーを入れ、電話回線で本社のLANと結ぶことを考えている。支社に版下作成用の出力機を入れるかどうかは未定である。
「STAGE III」は、写真イメージを電子化する段階。Macintosh(マック)と1200dpi程度のスキャナーを導入し、画像電子化を実現する。さらにイメージ・セッターのパリタイパーとカラーコピアのPIXEL DiOを導入、ポストスクリプト系データの印画紙出力とカラー・ゲラ出力を可能にする。
「STAGE IV」で印画紙出力が出来る写研の電算出力機SAPLS導入を目指している。これでフィルム出力までのすべての工程が内製化できることになる。
「STAGE X」は、全支社にEZPSとWAVE(PC-9800)、スキャナーを導入。全社統合処理ができる環境を整える。
そして処理量も増えればゆくゆくはメインフレーム・クラスのサーバーが必要になるかも知れない。「STAGE Z」までくると、原稿の加工、割付情報や経理との連係を全社的にできるシステムを想定している。(図3-36 システムの未来像)
この本の第II章2節で作成した「業務分担表」をH社を例にして作成してみた(図3-37)。営業員からの反発、制作部員の消滅、内製化の段階的進行、情報処理への応用といった各種のメリット、デメリットが図からも読み取ることが出来る。
段階が先まで進むと、内部に印刷業者的機能を内包する。となると、こんなアイデアも出てくる。「本業で出力機を使うのは1週間に1回木曜日だけあればよいわけだから、例えば木曜定休の出力センターとして看板を掲げれば、ある程度の印刷サービスもできますよね」。Aさんは本気とも冗談とも付かぬ口ぶりだった。(図3-37 H社の業務分担表)