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かつての市場移転(「神田市場史」より)

神田多町(たちょう)にあった青物市場と日本橋にあった魚市場。移転計画が出てから実際に新市場に移るまで、なんと60年近くもかかっていました。

神田市場史
「神田市場史」(上・下刊)
【神田市場協会・神田市場史刊行会(編)、1968年(上巻)・1970年(下巻)、文唱堂】

■100年前の議論と今の議論が重なる
別の目的で寄った図書館でたまたま目にしたこの資料に目を通し始めたら面白くなって読み進めてしまいました。ちょうど都知事選で築地市場の豊洲移転問題が再燃している折、明治時代の市場移転問題や市場関係者の生の声が詳しく書かれていて、やけに現実味があるのです。100年以上前に議論されていた内容と、現代の議論とが相当重なるところがあり、なんとも興味深いものです。

上下刊合わせて約3000ページ。図書館で短時間に読めるわけもなく、つい借りてきてしまいました。重さにして4.5kg。資料を鞄に入れて持って帰るのは重かったです(笑)。

こんなレアな資料を「書評」とするのは相応しくないかもしれません。でも、これまで「豊洲卸売市場と財政問題」ほかいくつか、東京の中央卸売市場に関連する記事を書いてきた視点も踏まえ、この本にかこつけて少し雑談させてください。

■350年の歴史を編纂、その20年後に閉場
本書は、「今日(注:1970年時点)名実ともに最高最大の青果市場として全国に君臨している」神田市場について、江戸時代初期に発祥してから昭和の高度成長の時代までの記録を洗い、資料的にまとめることが目的で編纂されたものです。同時期に神田青物市場と並び発展していた日本橋魚市場と比べて資料が「天災戦災等で殆んど消失」してしまっているため、残存する資料があるうちにまとめて「栄誉ある市場の歴史を永久に保存し且将来の発展に備え」ようとした模様です。

17世紀に市場が形成されてから明治時代まで、神田市場は今の神田多町2丁目を中心に、神田須田町、神田鍛冶町、神田司町周辺にありました。この市場が今の秋葉原駅近くに移転したのが昭和3年(1928年)、本書が編纂されたのがその約45年後です。
しかしご存知のように、その後20年も経たない平成元年(1989年)に、神田市場は廃止されました。その機能は主に同年に開場した大田市場に引き継がれています。江戸時代から数えると350年もの歴史が、本書編纂後わずか20年で幕を閉じるとは、この書の編纂者は予想していたものでしょうか。

■「お上のお達しと言われてもねぇ!」
卸売市場といっても、江戸時代から明治時代は今のようにクローズドな施設内部で取引が行われていたのではなく、町の往来(ようするに道端)に広く商品を広げて商いを行っていた形でした。江戸が栄えるに従って交通の便利な場所に市場が自然発生的に発展したわけです。神田については、神田川の周辺に蜜柑などの荷が多く揚がるようになったことが市場形成の重要な要因だったといわれています。

しかし便利な地域にこそ市場ができるものの、町が大きくなると今度は交通往来の問題、景観の問題、衛生の問題などが発生します。明治初期でも神田多町周辺はかなり人や車(荷車や荷馬車)の往来があった様子が、本書などに掲載されている風俗画から窺われます。そして主に為政者、街づくりを計画する者から、市場を郊外に立ち退かせるほうがよいという意見がたびたび出てきます。

一方、長い間市場で商売をしていた人たちにとって移転は死活問題で、お上の一方的な移転計画をすぐに受け入れられる余地はもちろんありません。日常の食材を毎日提供する機能を持っているので、(そしてそれはすぐに代替が利かない複雑な経済的機能なので)為政者も強権一本で市場をどかせることがままならない…。市場移転の問題は、常にこうした構図で進んできたといえそうです。今の市場移転問題も、ほとんどこの構図が変わっていないのではないでしょうか。

■東京府知事の命令→すぐに取り消し
明治維新で幕藩体制下の特権が否定され、市場でも商売上もそれまであった古い株仲間は解散対象になりました。しかし現実には多くの妥協がとられ、それまでの商人が持っていた流通機能は当然のように引き継がれることになります。明治初年の時点で東京府内の市場の整理統合はかなり行われましたが、「青物は神田多町」「魚は日本橋」として両者の卸売機能の中心的役割を持ち続けます。

そして(以下、表現は少し脚色)…

〔明治5年(1872年)〕
<゜。゜> 東京府知事・大久保一翁:「神田多町(※1)の市場は交通に邪魔だ。首都の美観上も見栄えも悪い。近くに外神田の鎮火社境内という適当な空き地があるから(※2)、そこに移れや」
< ‘ヘ’ > 神田市場の問屋勢力:「やだ! 政治力に訴えて、そんな計画潰してくれよう」

実際、命令はすぐに「取り消し」と相成りました。本書では「その理由は明らかでないが、…中略…神田市場の問屋勢力というものが、当時の市政の中で相当な発言力を持っていたらしいことがうかがえる」と書かれています。

(※1 市場移転の対象は神田多町だけでなく、日本橋魚市場ほか他市場もセットになっていた。移転理由はどれもほとんど同じ)
(※2 明治2年に神田相生町から起こった火事が大火になったことがきっかけで、神田佐久間町に火除地と鎮火社が設立された。その鎮火社には遠州 ― 今の静岡 ― の秋葉大権現の分霊を祀った。ここから 秋葉の原→秋葉原 という地名が発生している)

■神田の卸売市場が移転するのに56年
その後、明治9年には神田多町市場が火事で消失するといったことまであったようですが、引き続き神田市場も日本橋魚市場も営業を続けます。

〔明治17年(1884年)〕
<゜。゜> 東京府知事・芳川顕正:「東京市区改正だ。まずは中心地区の日本橋や神田から一新する。市場移転は当然だ」
< ‘ヘ’ > 内務卿・山県有朋:「財政上の理由で却下!」

〔明治21年(1888年)3月、8月〕
<゜。゜> 政府:「東京市区改正条例案ができた。もちろん市場は移転せよ」
< ‘ヘ’ > 元老院:「廃案!」
<゜。゜> 政府:「もう一回、条例案出したる。元老院なんぞ無視じゃ!」

〔明治22年(1889年)〕
<゜。゜> 政府:「内務大臣訓令を出したぞ。決定だ。10年以内に移転せよ。移転費用は自前で持て」
< ‘ヘ’ > 市場関係者:「やだ! 200年以上も営んでいる場所を、しかも自分で費用負担して引き払えだと? ありえない!」

〔明治23年(1890年)〕
<゜。゜> 政府:「この抵抗の様子じゃ10年以内は無理かもしれん。『延期もありうる』とでもしておこう」

この時期、明治23年には上野から鉄道の線路が南に伸び、秋葉原に貨物駅が開かれました。24年には東北本線が青森まで全面開通。それまで主に船便で集荷または出荷されていた神田市場でしたが、ここで鉄道と船の両方が交わる交通の要所となります。多町から秋葉原への移転も、それを前提とした計画として進められたようです。

■移転期限延長の連続
さらに続きます。

〔明治32年(1899年)〕
<゜。゜> 政府:「10年の期限が来たぞ」
< ‘ヘ’ > 市場関係者:「知らんがな!」
<゜。゜> 政府:「5年延長してやろう」

その4年後の明治36年、東京市会は内務大臣向けに「市場移転廃止に関する意見書」なんぞというもの提出しているようです。

〔明治37年(1904年)〕
<゜。゜> 政府:「5年の期限が来たぞ」
< ‘ヘ’ > 市場関係者:「知らんがな!」
<゜。゜> 政府:「仕方ない、さらに5年延長してやろう」

〔明治43年(1910年)〕
<゜。゜> 政府:「もう期限は過ぎとる。移転する気はないのか~」
< ‘ヘ’ > 市場関係者:「ない!」
<゜。゜> 政府:「もう3年だけ延長してやろう」

面白いのは、この時の移転派、移転反対派どちらの言い分にも「衛生問題」が持ち出されていることです。移転派は「今のような状態じゃ衛生的に問題がある」。反対派は「衛生的な問題は施設を改良すればよいことだ」。まるで、現在の築地→豊洲移転問題の議論が100年前から続いているかのようです。

しかしこの間、日清戦争(1894)と日露戦争(1904)を経て、明治後期になると神田市場に集まる青果物はかなり増大し、市場の手狭感は強くなったようです。そして第一次世界大戦(1914-大正3年)の時期には水上輸送が減り、鉄道輸送が主力となるに至ります(このあたりの数字が本書に資料として掲載されている)。この時期になっても、市街地の中心に卸売市場が開かれているというのは、さすがに不自然とされるようになっていったようです。

・明治36年(1903年):万世橋が鉄橋となって新たに開通
・明治41年(1908年):昌平橋停車場(仮駅)開業
・明治45年(1912年):万世橋駅、東京のターミナルとして開業
(参考記事:「交通博物館閉館」)
・大正3年(1914年):東京駅開業(万世橋駅は単なる途中駅になった)

■市場法と関東大震災が市場移転を促した
第一次大戦戦後すぐの大正6年から7年に強烈なインフレーションが起こり、その後全国で米騒動が勃発します。この時期は、卸売市場は儲かって仕方がない業者も少なくなかったのでしょう。卸売業者にとっては一種のバブル景気だったのかもしれません。しかしこれを一つの契機として経済統制の方向が強まり、大正12年(1923年)に「中央卸売市場法」が成立します。

この「市場法」は物価安定策の一環という大目標があったわけですが、一方では言うことを聞かない卸売市場をなんとかコントロールしようという狙いもあったとのこと。本書によると、この法律は「市場を統制すること、特に神田市場の勢力をさくこと」を目的としたものだったとされています。政治的な側面から神田多町市場が制限を受けるとともに、同じこの年の9月、関東大震災で市場設備が壊滅的被害を受けるわけです。

これらがその6年後、昭和3年(1928年)の新しい神田市場への移転につながる決定打となったといえそうです。日本橋の魚市場についても、震災被害が決め手となって翌年に築地市場建設が議決されます。途中、芝浦の仮設市場を経由するなど時間はかかったものの、なし崩し的に日本橋の市場はなくなり、昭和10年(1935年)開場の築地市場へ受け継がれることになります。

■経済的メカニズムと為政者の意思決定
市場移転といっても、日本橋はともかく神田については多町から目と鼻の先の秋葉原に移動するだけです。たったそれだけで60年近くの年月がかかってしまっているのは驚かされます。わかるのは、

・こと食料品の流通機構については、お上の強権だけで問題は決して解決しないこと
・かといって市場関係者にとっても、物流などを含めた経済的メカニズムを無視して既得権益を守ることができないこと
・(良し悪しはともかく)悲しいかな、火事や震災などの災害がこうした大規模施設移転の重要なきっかけとなること
でしょうか。

今の築地→豊洲移転問題についても、無理やりこれらになぞらえて言えば、次のような仮説が成り立つかもしれません。

・たった1人の都知事の判断で市場移転の意思決定が決定的に左右されることはたぶんなく、いろいろな関係者の合意によってのみ移転は実現すること(移転のスピードは変わるかもしれませんが)
・移転の成否は経済状況に大きく依存すること。現代はすでに卸売市場が唯一の青果・鮮魚流通チャネルではないだけに、希望的観測(計画経済的な思想)だけで将来の卸売市場の経済規模を推し量ることはできないでしょう
・(問題のある言い方だと思いますが)次の東京大震災がいつくるかで、移転問題も豊洲新市場の成否も左右されるであろうこと。どう転んでもリスクがとれるよう考えておくのがよさそうです

大変無責任な感想を許してもらえば、
・豊洲移転を含めた市場の計画の内容は、いろいろなバリエーションを早めに練っておくのがよさそう
・でも、実際の移転は無理に急ぐ必要はまったくなく、柿が熟して落ちるのを待つ姿勢でよいのではないか
なんてことを、本書を読みながら感じました。

本書の情報量は膨大なので、“つまみ食い”したような読み方をしているだけです。短くまとめようと思っていたのですが、神田市場の移転についてだけでもずいぶん長くなってしまいました。この本に関連して、引き続き記事を書く予定です。

豊洲卸売市場と財政問題

施設を充実させれば費用がかかります。取扱高が右上がりで拡大する時代ではない今、どうしても利用料金に影響を与えざるを得ません。


豊洲中央卸売市場の第5街区予定地
(ここは青果卸が中心で、ほぼ2階建て。ゆりかもめから見て卸売市場の手前側に“千客万来施設”が入る)

■市場内の温度管理に万全を期す
前の記事「ららぽーと豊洲と新中央卸売市場の計画」では、卸売市場そのものではなく一般向け商業施設についての話ばかりしていました。でももちろんこの移転計画は、付帯される商業施設よりも卸売市場本体をいかに整備するかということが主眼です。

築地の中央卸売市場が豊洲に移転する理由は、大雑把にいえば次の3点といってよいでしょうか。
・施設老朽化への対応
・手狭感(敷地拡大の必要性)
・衛生面や運用面(保管、物流など)改善の必要性

もともと江戸時代から大正時代まで、主要な魚市場は日本橋にありました。関東大震災で日本橋の河岸が被害を受け昭和初期に築地に市場が移転したときも、その移転の理由は上の3点とほぼ同じだったと思います。一定の時代ごとに都が“遷都”されていくようなものかもしれません。

現時点では特に「温度管理のできる施設」を求める声が強く、そのため新市場では大がかりな空調設備が導入されることになるでしょう。衛生管理のために高床式も採り入れられるようです。その分、設備投資も膨むことは避けられません。

■東京オリンピックとも関係ある? 市場財政の行方
以下東京都に限った話ですが、昭和46年度以降、卸売市場の経常収支はほとんどずっと赤字続きでした。1990年代半ばからの赤字幅は大きく、2005年の段階で累積欠損金が約200億円まで膨んでしまいました。

ただしこの間、旧江東市場および旧神田市場の閉鎖に伴い土地などを民間に放出した後にだけ、一時的に黒字化しています。そのあたりの事情は東京都の次の資料で説明されています(読んだだけではどうも釈然としないところもありますが…)。

「市場財政白書(2002年)」http://www.shijou.metro.tokyo.jp/gyoei/02/02.html

旧神田市場といえば、「昭和レトロ(1) ― 昭和風の外食店増える」で触れた「秋葉原UDX」ビルなどが今あるところです。この飲食街の名「アキバ ICHI(市)」は、かつてあった神田「市」場から名付けられています。

結局、土地という自らの身体(財産)を切り売りすることで一時的にしのいできた市場財政ともいえます。今回も、がめつい言い方をすれば、できるだけ築地の土地を高値で売り抜けて、豊洲の土地・設備の整備もできるだけ民間にゆだね(投資支出を最小限にして)、あわよくば市場財政を立て直すきっかけにしたいという考え方も成り立ちそうです。

そんな背景を考えると、東京オリンピックで築地をプレスセンターにするという計画も、その後どこぞの放送局に入ってもらいたいとかいう都知事の希望的観測も、たんなる思い付きではない、東京都の中長期的な経営建て直しの一環だということに行き着きます(もちろん単純に市場財政のためだけではなく、いろいろな側面があるのでしょうが、ここでは触れません)。

■豊洲市場の使用料は高くなるらしい
累積欠損金という負のストックにどうケリをつけていくのか、資産切り売りだけで解決するとは思えませんが、同時にフロー(経常赤字)についても手を打たなければ結局また将来の市場財政はにっちもさっちもいかなくなります。そこで出てきたのが「市場使用料の値上げ」です。

いままで中央卸売市場の使用料は、全市場同額が基本でした。簡単にいえば、黒字市場(築地や大田)が赤字市場分を補ってきたということになります。そこで最近になって、たとえば赤字の市場では使用料を値上げできるよう法律改正が行われ、市場別に料金設定ができる制度へと変更されました。

ところが都内“値上げ第1号”が、どうも豊洲新市場になってしまいそうだと報道されています。「温度管理ができる近代設備を用意したのだから、つまり付加価値をつけた市場なのだから、そのコストも利用者が負担してください」、という理屈になるのでしょう。それはそれでもっともなことでしょう。

しかしその結果、築地から豊洲に移る中卸業者などは数が減ることになるでしょう。もっとも、赤字で今後経営的についていけない業者を振り落とす狙いがあるとも噂されていますので、市場を経営する側からするとそれも狙い通りかもしれません。

そこまでして新しい中央卸売市場が必要なのか、という素朴な疑問もあります。でも、官営の卸売市場がどんな厳しい立場にあるかなどは、もちろん関係者はよくわかっているはずです。市場整備計画に伴う資料を読むと、今後の生鮮品流通の仕組みがどうなっていくのかも、さかんに議論されているようです。専門家の方々の英知がぜひプラスの方向で現実になっていくことを期待したいところです。

豊洲市場はパラドックスを解けるか?

築地場外のテーマで2つエントリーを書きましたが、今度は卸売市場(場内)を少し考えてみます。築地市場、大田市場、豊洲市場(予定)の3者を比べてみます。

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手前が豊洲市場予定地(後方が晴海~都心)

今回あらためて確認してみたところ、東京都が築地市場の豊洲地区への移転の方向性を打ち出したのは平成11年度ということで、すでに7年も前のことでした。構想としてはもっと前から出ていたことでしょう。地元はもちろん当初から反対の立場が明確で、「築地市場移転に断固反対する会」というものもありました。

新市場のコンセプトがほぼ固まって構想が発表されたのは2003年頃。豊洲新市場の基本計画はここに資料があります。
http://www.shijou.metro.tokyo.jp/korekara/02/02.html
これによると、豊洲市場は概ね次の3ゾーンで構成されるとなっています。

1.流通ゾーン:温度管理された空間で取引と物流が完結するシステム
2.景観ゾーン:都民や地域住民が憩い散策できる快適な空間
3.賑わいゾーン:飲食・物販、オフィス等の商業・業務機能で構成する千客万来ゾーン

築地の今の場内市場は、言うまでもなく「狭くごちゃごちゃして猥雑」なイメージそのものの場です。しかしここには人と人の直接の取引がもたらす活気があります。そして築地場外とともに織り成す自然に出来上がった街の構造が賑わいをもたらしているといえるでしょう。

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築地市場

東京には、埋立地である大井埠頭の先、野鳥の住み着いている公園の隣に「大田市場」があります。ここは築地と反対に「広くシステマチック」と思わせる場です。商業地域とは場所的に完全に孤立しているため、一般の人が出入りすることはまずありません。築地に比べるとなんと空間に余裕があることか…(それでも大田市場の卸売業者の方に話を聴いたときは「手狭だ」といっていましたが)。もっとも、雑然としていない分、築地に比べると見た目の面白みは少ないと思われます。「人の賑わいがあふれる場」となることと「余裕を持ってプロが取引をする場」を作ることとは、一種のパラドックスのように思えます。

ただ、スペースは広くとも、有効な冷蔵ゾーンの少なさ(ようするに温度管理の難しさ)は、大きな問題のようです。また、業者が駐車場を荷物のより分けの場にしている(仕入れた品物を届け先別に分類したり店舗に納品しやすいように積み替えている)様子は、築地と共通な悩みといえそうです。このあたりの課題について、豊洲新市場の構想ではかなり配慮されているといえそうです。

ここで、豊洲新市場の3ゾーンの機能を築地と大田にあてはめて、無理やり評価してみました。

◆築地市場(場外含めた地域)
1.流通ゾーン:× …きちんと整備された機能は不十分
2.景観ゾーン:△ …整備された景観という意味では不十分だが「レトロ風」
3.賑わいゾーン:◎ …とくに場外や飲食店の賑わい、および銀座からの近さ

◆大田市場
1.流通ゾーン:○ …整備されています
2.景観ゾーン:× …個人的には野鳥公園はじめ大井埠頭は大変好きな場所だが、市場に限れば景観うんぬんの場所ではない
3.賑わいゾーン:× …プロ以外が来る場ではない

そして豊洲については、埋立地をこれから活用するという話です。大田型を踏襲してプロ向けに焦点を絞った市場を狙うという方向性もあったと思うのですが、結局
大田型の機能(1)+築地型の長所(3)+さらに景観も(2)
と、3つすべてを取り入れようというかなり欲張りな方向性を出しているように受け取れます。

構想の大きさは決して悪くないのでしょうが、個人的にはとくに(3)について、豊洲で受け入れられるものなのか懐疑的です。まだ具体的な形になっていないので言いすぎかもしれませんが、賑わいゾーンをここに「人工的に」作って成功するものなのでしょうか?

少し言い方を変えると、両者(築地と大田)の「良いとこ取り」を狙うものの、先に触れた「市場としての機能性」と「雑然としているからこその面白さ」が同居しにくいというパラドックスが解けずに一部失敗してしまうのではないか? とか思います。あえて無謀にも将来を予想してしまうと、

◆豊洲新市場
1.流通ゾーン:◎
2.景観ゾーン:△
3.賑わいゾーン:×

といった結果になっていくのではないか…、なんてことをちらりと考えます。

まだまだ今後情勢変化があると思います。が、たとえば築地周辺の商店街としては、とくに「3.賑わいゾーン」としての勝機は十分期待できそうです。

築地場外の半値市

雨にもかかわらず大変な人出でした。今回の半値市は、築地川公園の東側、“珍味店”が多数あるあたりや波除神社付近まで地域が広がっています。一部、人と傘に阻まれてしまいましたが、4年前(2002年2月)と現在(2006年5月)との差を比べられるような写真をいくつか撮ってみました。

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築地4丁目交差点の概観。左が4年前、右が現在です。

少しアングルが違いますが、交差点の角(真正面)にコンビニとファミレスができました。その分アーケード入り口にある商店街の「カンバン」の位置が画面右方向に移動していることがわかります。屋根の上の大きな看板も増え、派手になっています。

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商店街中ほどにあるカネシン水産さん(ちりめんじゃこ等)の店の様子です。数年前に高知県のアンテナショップ「コウチ・マーケット」を開き、ずいぶん様子が変わりました。

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牛肉の近江屋さんです。店の看板や牛の顔をした飾りなど店構えが洗練されただけでなく、商品も一般客が買いやすいものが増えたと思われます。

浜籐さんとか紀文さんとか、百貨店などでも小売展開している有名店も、築地場外の店を一般向けに改装しています。

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晴海通りの拡張のため、晴海通りに面している店が徐々に後方に移動してきましたが、最後まで残っていた昆布の吹田商店さんがある一画(築地4丁目交差点からすぐ東側)も近く工事に入るようです。吹田商店さんは5月末に一時移転(市場側の休憩所がある並び)し、晴海通りに戻るのは1年半後となるそうです。

脱皮を目指す?築地周辺の商店

築地周辺の商店が、ここ数年で大きく変化していきそうです。

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[築地場外市場商店街]

■市場移転がもたらす影響
東京の築地中央卸売市場といえば、水産物と青果物を取り扱う都心の“台所”ともいえる市場で、とくに魚・水産関連では国内最大の“魚河岸”です。その築地の市場は、早ければ6年後の2012年(実際にはもう少し後になりそうですが)に豊洲に移転することが決定しています。昭和初期からの古い歴史のある築地市場は、中央卸売市場としての役割を終えることになります。その跡地に、誘致を目指している東京オリンピックのプレスセンターを作るとか、いくつかの構想があるようですね。

築地の場内で営業している多数の卸業者にとって、市場の移転とともに豊洲についていくか、はたまた別の営業方法を模索するか悩ましいところですが、築地市場の周辺の店もまた、大きな岐路に立たされているといえましょう。

ご存知のように築地市場の外には“場外市場”が大きく発展し、プロだけでなく一般消費者や観光客などが多数訪れる場にもなっています。卸売だけではない、別の機能を併せ持ったユニークな商店街として成り立っています。その場外からみて“本体”であったはずの市場が、いずれ移転してしまうわけです。場内の卸業者とは違う意味で、今後の展開を慎重に考えなければなりません。

■土日の人手が確実に増加
市場の移転が正式に発表されたのはまだついこの間のことですが、計画については5年以上前から繰り返し検討されていました。表向き「移転反対」を口にしながらも、ここで商売されている方々はずっと次の手を考えてこられたようです。

「今後、場外商店街はどのような位置づけに変わればよいのか…」
「卸売と小売の両面について、どちらをどのように重視していけばよいのか…」
「そもそも今の業態を続けることができるのか…」

その結論が出るのはまだ先でしょうが、すでにさまざまな試みがされていることも事実です。この商店街を4~5年Watch! してきた者の目からすると、すでに次のような変化が生まれていることが感じ取れます。

・プロの買出しが集まる早朝だけでなく、昼の時間の人出が確実に増えている
・平日だけでなく、土曜の人出が確実に増えている
・一般客が入りやすい店作りをする店舗が確実に増えている

ようするに今、長い時間をかけて一つの巨大な商店街がゆっくりと、でも確実に舵を取って変わっていくその真っ只中にあるといえそうです。大きな流れからすれば「卸から小売へ」「プロ相手から一般客相手へ」マーケットの対象が移っているのでしょうが、一方で「卸売、プロ向け」の商売をいかにきちんと成り立たせるかが重要な課題となっています。他の一般の商店街とは違うユニークさこそが、築地場外商店街とその周辺の店を成功させる重要な要素となっているようです。

場外市場商店街では年2回、恒例となっている「半値市」が開かれます。その名の通り、いくつかの目玉商品が「通常の半値」で提供され、大変な活気があります。詳しくは
築地場外市場商店街 http://www.tsukiji.or.jp/

▽関連情報:
東京都中央卸売市場
▽追加記事:
築地場外の半値市
豊洲市場はパラドックスを解けるか?
豊洲卸売市場と財政問題