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非関税障壁か、守るべき制度か(「築地」その3)

日本の流通システムは、かねてから閉鎖的と外部から指摘されてきました。しかし少なくとも生鮮品の流通に関しては、ローカルな制度が将来的にも高い価値を持ち続けるであろうことを、この本が示唆しているように思えます。

築地の挿絵
「築地」(挿絵)

テオドル・ベスター氏の著書についての話、「築地」「築地」その2の続きです。

■意図しない“非関税障壁”
またしても築地市場とは少し離れた話ですが、一昔前(1995年くらいまで)の日本のパソコン市場は、今と違って世界標準規格から逸脱した構造の商品が市場のほとんどを占めていました。なかでもNEC「PC-9800シリーズ」がその最大手で、国内でパソコンをまともな業務に使うには「98」以外の選択肢はなかったようなものでした。一方、日本を除くほぼすべての国では基本的に「IBM互換」タイプのパソコンが使われていました(さらに余談ですが、現在は携帯電話がこの状態―いわゆる「ガラパゴス化」―にあるようですね)。

その時代、海外(欧米やアジア)のパソコン業界関係者と話をしたときにときどき出てきた質問がありました。

「なぜ日本は世界標準に従わない? わざわざ独自の仕様を守り外国企業を締め出している。非関税障壁ではないか」

質問というより糾弾に近いニュアンスを含んでいたことを覚えています。そしてこの言葉の裏には、パソコンだけでなく、日本市場全般の閉鎖性に対する不信感があったととらえています。

日本のパソコン利用者という立場からすると、「わざと独自仕様を守る」意識など誰にもなく、ましてや国全体が一つの意思を持って外資の侵入を防いでいたというものでは決してありません。要因を列挙すれば、次のようになるでしょうか。

(1) IBM互換機の規格だけでは日本語処理機能(2バイト文字の扱いなど)が十分でなく、どうしても小手先の対応ではない、高いレベルでローカライズをする必要性があった
(2) メーカーも流通業者も、日本市場の特殊性やローカル色のある取引形態に対応することが商売上なにより有利だった
(3) 日本の主な電機メーカーは、(あえて海外の規格を持ってこなくても)独自規格と独自の商品を作り出すだけの実力があった
(4) ある時点で「98」がソフト資産を十分に蓄えてしまい、乗換えが難しくなった

その後パソコンの性能向上その他さまざまな条件が変化し、今は状況が完全に転換しました。「98」は姿を消しました。「IBM互換」という言葉さえ消滅したように、現在日本を含めた世界全域で使われているパソコンは、ほぼ共通したデファクト・スタンダードに沿った構造になっています(Macintoshは違うけど)。

そのほかさまざまな業種で、過去にあった非関税障壁はとりはらわれるか、少なくとも低いものとなってきました。金融、会計、その他の分野にまたがり閉鎖性が薄まってきたのが、1990年代後半から2000年代前半だったと認識しています。

■腐った魚は買い叩く!
この観点だけから見れば、築地のような生鮮品の流通機構は、外部からなかなか食い込めない閉鎖性を今でも持っていて、いずれなくなるべき対象といえなくありません。もし将来、卸売市場の制度が大きく変わり、強い外資ファンドが「築地」を乗っ取ろうとでもしたら、いったいどんな影響があるでしょう。

「未だに日本の流通システムは“変革すべき対象”なのだ」
「官営で市場を守るなど時代遅れだ」
「中にいる卸売業者も中卸業者も、自ら変わろうとする意思が弱い」
「旧来のやり方にこだわり、市場移転を何が何でも反対する勢力がいる」
「そんな腐った流通システムを買い叩く! 買い叩く! 買い叩く! 」(ドラマ「ハゲタカ」風……)

買い叩くのは「腐った魚」だけにしてください、とか言いたくなるかもしれません(笑)。

本書の著者も、築地を研究対象とした背景に次のような問題意識があったようです(少し意訳して表現)。
→政府の規制と政治的圧力が日本の独特な流通システムの原因と見る一派は、日本は故意に閉鎖経済を行っていると見ている
→日本経済は、その社会的・文化的生活の特性をなお保持しており、これは一夜にして消えるとは思われないと(その一派は)見ている
→本当なのか、その解を探りたい

■外部の変化が築地を消し去ることはない
日本の卸売市場システムの閉鎖性についても、かつてのパソコン市場と同様、「独自仕様を守る」という意識が先に立って出来上がったわけではないはずです。著者の問題意識から、本書のあちこちにその答が書かれていることを実感します(以下、パソコンの話の(1)~(4)と対応させて表現)。

(1′) 魚の食べ方や嗜好性には日本文化独自のこだわりがあるので、どうしても小手先の対応ではない、高いレベルで日本の食生活に対応した加工処理をする必要がある
…本書第4章「生ものと火を通したものと」などから納得できる。
(2′) 生産者も卸売業者も中卸業者も小売業者も、相互の特殊な取引ニーズに対応できることが商売上なによりも有利である
…縦横に編み上げられた「関係性」が強力すぎるということか
(3′) 築地の卸売人たちは、(あえて海外の取引システムを持ってこなくても)きめ細かい取引システムを自ら生み出せる資質があった
…著者は「築地は高度に秩序のとれた場所」と評している
(4′) ある時点で卸売市場のシステムが確立してしまい、乗換えが難しくなった
…これについては、市場法など中央集権的な政策が一役買っている

結論的に、築地魚河岸は一見伏魔殿のようでいても、
・開発途上国のバザールのようなものと異なるシステム性がある
・マグドナルドのようなシステムとも全く異質のシステムである
・決して非合理的というわけではなく、むしろ高度なものである
・だから、外部の変化が築地の社会的構造をきれいさっぱり消し去ることはないだろう
と著者は表現しています。

■築地移転問題にも一矢
他のブログや雑誌にある本書の書評に「それみろ、外国人だって築地の優秀さに言及している。だから築地の豊洲移転に絶対反対すべきなのだ」といった方向で感想が書かれているものをいくつか目にしました。本書に書かれている築地文化の“価値”が、移転反対派を勇気付けていると推測されます。

しかし、本書が築地移転反対論者の“バイブル”になるとも思えません。その理由は次のような点にあります。

・本書には“築地”の「功」は見事に描かれていても「罪」についてはわずかしか触れていない。「功」の部分だけを過大評価できない(前回記事の末尾参照)
・“築地”を成立させている文化的背景が堅固なものならば、それは豊洲に移転しても確実に受け継がれるはず(外部の変化が築地を消し去ることはない)
・素晴らしい仕組みがあったとしても、時には時代の変化に沿うように積極的に壊さなければ次に進めなくなるものもある(パソコン「98」のように…)

市場が移転しても移転しなくても、長期的に見るとどちらでもたいした違いではない気もします。

とりあえず、テオドル・ベスター著「築地」の書評(+α)はこれでおしまい。

日本的企業関係の生きた見本(「築地」その2)

築地の取引ネットワークは、上下左右に結ばれる市場のさまざまな関係性に支えられています。かつての縦の“ケイレツ”と横の同業者組合が織り成す日本産業界の特徴的サンプルが生きたまま現存しているかのようです。


〔水産物と自動車、それぞれ縦横の関係〕

テオドル・ベスター著「築地」(前記事参照)には、市場の関係性が具体的な事象から詳しく書かれています。たとえば卸→仲卸→買出人という縦の取引が日々繰り返されること。ここには有形無形の企業系列関係があること。加えて、たとえば多数の仲卸の間での競争と役割分担、さらには資本関係、姻戚関係作りといった横の交流が繰り返されること。そこに強い共同体意識が生まれたり消えたりすることなどが描かれています。

■各自動車会社が一工場の復活で助け合い?
突然話が変わるようですが、2007年7月に発生した中越沖地震で、新潟県柏崎にある自動車部品メーカー「リケン」の工場が被害を受けたことが大きなニュースになりました。リケンの部品を使っている自動車会社が揃って一時的な生産停止を強いられるなど、自動車産業全体に影響を与えました。

この件で、日本の自動車メーカー各社がリケンに人員を派遣し復旧に努めているという話を、関係者の方から聞きました。工場の復興支援に集まった人員は総勢数100人(?)だとか。リケンに自社の社員まで派遣する義務は本来ないし、あらかじめ支援策が準備できていたわけなどありません。なのに、工場の生産設備を1日も早く稼動させるためにこんな“共同プロジェクト”が突如できあがっていくとは、本当に驚きです。

もちろん、各自動車メーカーからすると、リケンという部品メーカーに有形無形の支援をすることで(主要な部品を優先してまわしてもらえるなど)結局は自社の利益を得られることを確信しているわけです。ライバルである他の自動車メーカーとは、なかには直接的な利害の衝突もあるのでしょうが、どちらかというと業界全体に関わる運命共同体的な関係が優先されていきます。

一方、自動車に限らず、かつて日本の産業を支えたといわれる企業系列が、一部新しい形で復活してきているといわれています。古い日本経済のケイレツ関係は「閉鎖的」「自己完結的」で、誤解を恐れずに言えば「醜い」ものだったと認識しています。でもバブル崩壊後、ケイレツは徐々に衰退しもっとグローバルで開放的な取引関係に変化していきました。だからといって企業系列的関係がなくなったわけではもちろんありませんし、技術やシステムを媒介とした新たな形のケイレツが現れているのは自然なことでしょう。

■「彼らのビジネスは頭の中と接触先に存在する」
結局は、冒頭の図に示したように、築地の水産物流通も、日本の自動車生産・流通も、複雑な縦横のネットワークが、“日本的文化の素地の元に”同じように縫い上げられていると感じます。本書に「ある日築地で火事が発生し、一部の仲卸店舗が焼けた。しかし縦横の関係者がいろいろな形で被災者を支援し、そのおかげで非常に短期間(例えば翌日)にも営業を再開し、その後まるで火事などなかったかのように日常業務が復活していた」といった事例が書かれています。リケン柏崎工場の被災復旧とイメージが重なります。

「取引関係の精巧な社会構造によって(火事などがあっても)立ち直ることができる。彼らのビジネスは頭の中と接触先に存在する」。そんな商人が“本当に”守りたいもの、絶対に失いたくないものとは、店舗という場所や物理的な資産ではなく、「特定の社会的コンテクストにおける自分の居場所なのである」と著者が表現していることに、なるほどと思います。これから連想すれば、リケンの工場復旧に他社がこぞって人を投入することができる背景にも合点がいくような気がします。

■一見非合理な流通システムも
概して日本の流通システムは、中間に入る卸業者が多く複雑で、そのために経済的な無駄があると信じられてきました。卸売市場の形態は、一見まさにその代表例です。生鮮食品の流通をぼんやりとしか認識していないと、卸売市場の非合理性は「悪の巣窟」のように映るかもしれません。

おそらく江戸時代から明治期までの卸売市場は、垂直統合の色合いも濃く、株仲間に代表される同業者組合としての掟ももっと厳しかったことでしょう。市場という限られた空間と権利を関係者が“ギルド”的に分け合い、その利権を上流(生産者)から下流(小売店)まで垂直につなぎ合わせる“ケイレツ”があったのでしょう。

しかしそれはにわかに捨ててよいものではなく、中長期的に見た合理性も内部に隠されていたわけです。さまざまな市場関係者が苦心して積み上げたり、壊したりしてきたことでしょう。その歴史の上に成り立っている現代築地の魅力的な姿を、当事者ではない我々読者が本書を通じて少しでも垣間見ることができることに、幸運を感じずにはいられません。

あえてそんな本書に少しだけ注文をつけるなら、築地システムの「功」と「罪」のうち、「罪」についてはほんの少ししか触れていない点でしょうか。背景にある文化や歴史や特性のプラスの部分は全編にわたって書かれていますが、本当に非合理なところとか、醜い悪習とかマイナス面についての記述はわずかです。このあたりもう少し分析してくれないかな、などと思うのは贅沢な注文でしょうか。

テオドル・ベスター著「築地」

築地魚河岸のことを一般の人が理解するために適した書籍といえるでしょう。公式の資料や説明書では埋もれてしまって見えない、中央卸売市場の日常やシステムについて、実に読みやすく書かれています。

つきじ
「築地」
【テオドル・ベスター(著)、2007年刊、木楽舎】

■著者の情報整理力
今年になって発刊された話題の本の一冊で、本当に興味深い本です。内容もそうですが、何といっても著者の情報整理能力に驚嘆します。

築地もしくは卸売市場システムというものは、喩えてみればジグソウパズルのようなもので、あれこれ関連資料を読んでみても複雑で今ひとつピンとこない場合が多いものです。特に公式の資料は、読み手におもねるほど平易な書き方をしていてさえも、結局わかったようなわからないような、隔靴掻痒の説明しかなかったりします。一方日常的に市場内で生きている人たちの言葉は、実感がこもって生き生きしているとはいえ、どうしても部分的なものになりやすく、ジグソウパズル全体のなかのどこに当てはまるピースを言っているのか、すぐにわかるとは限りません。

築地をはじめ日本の卸売市場システムについての説明は、「説明のしようがない」のではなくて、「説明のしようがありすぎて」かえって理解しがたい対象になってしまっているのではないかと思っています。ヒトやモノや土地や制度や法律や慣習…、などがそれぞれ関係性を持ちすぎているから、丁寧に説明しようとすればするほど、テーマがこんがらがってしまってわからなくなる。混沌とした説明を繰り返し浴び続けることで、やっとようやくぼやっとした全体像が見えてくる。そんな印象を持ちます。

ところがこの本の著者は、その“複雑すぎる関係性”を実にスマートに、かつ本質的な要素をわかりやすく説明しているような気がします。章単位で「軸」があり、その軸に沿って見事な解説をすることに成功していると思うのです。

〔目次〕
第1章 東京の台所
第2章 掘られた溝
第3章 埋立地が築地市場に変わるまで
第4章 生ものと火を通したものと
第5章 見える手
第6章 家族企業
第7章 取引の舞台
第8章 丸

■文化人類学者としての興味深い視点
たとえば「築地の1日は誰がどのように活動しているのか」を手っ取り早く、かつ的確に理解するためには、おそらく他のどの書よりも本書第2章を読むのがよさそうです。

「築地の過去、その前身である日本橋魚河岸、卸売市場の歴史」を江戸時代初期にさかのぼって手っ取り早く、かつ的確に理解するためには、他のどの書よりも本書第3章を読むのがよいかもしれません。

第4章では、魚をはじめとした動物に対する文化的な違いについて言及しています。鯨やイルカを擬人化する米国人の感覚に対する、鯉が食用にも高価な観賞用にもなる日本人の感覚など、生物の本質的性格とは関係のない「動物たちを想像しカテゴリー分けする方法」が国により違うのだということには納得させられます。そしてそれが日本の魚河岸の性格にもはっきり影響していることなど、著者の(経済学者でない)文化人類学者らしい記述がもっとも顕著に記されている章かもしれません。

そして卸売市場の主役の一人である「卸売業者」の話が第5章。もう一人の主役で同じ流通業でありながら卸売業者と相当に異なる「中卸業者」の話が第6章。制度の話が第7章。このあたりが本書で中心となる章でしょうか。そして“筆者なりの民族学的結論”が第8章、という具合です。

卸売市場、なかでも特に魚市場という非常に限られた範囲に対象を絞って解説された本ではありますが、読んでいくと他業界の仕組みや特質にも当てはまる事情が浮かんできます。日本経済に関連して永らく疑問だったことが、本書から突然納得できてしまうなんてこともありました。「文化」に根ざした視点からの説明があるからでしょうか。

本書の書評は他に多数あると思います。本サイトでは書評というより、少し本書に関連する話題について話を続けたいと思っています。

▽追加記事:
日本的企業関係の生きた見本(「築地」その2)
非関税障壁か、守るべき制度か(「築地」その3)

かつての市場移転~失敗編

移転問題がくすぶる築地中央卸売市場ですが、築地移転は昭和30年代からすでに画策されていました。移転を阻止した立役者は、東京湾に棲みついた“野鳥たち”です。不思議なめぐり合わせがあったようです。

大田市場地図a
〔大田市場が計画された当初の予定地の簡略図。広い大井埠頭埋立地の最南端部分のみの地図(※1)〕

(※1 予定地北側の「国鉄用地」は、後の鉄道貨物ターミナルおよび新幹線車庫。運河をはさんで南側の「京浜島」や東側の「城南島」という名前は後に付けられたもので、当時は「○号埋立地」と呼ばれていたはず)

■移転予定だった築地市場
卸売市場の形成と移転について、「神田市場史」という資料をもとに2本の記事を書きました(「かつての市場移転」「官営化する卸売市場」)。この中で、神田青果市場および日本橋魚市場が市中から“隔離された官営市場用地”へ移転するのに60年近い長い年月がかかったことを説明しました。そしてせっかく移転した先の神田市場はそのまた60年後に大田市場に移転となり、神田市場は廃止されたことにも触れました。

大田市場(※2)には、神田市場だけでなく築地市場を含めた都内の主要な市場の多くを移転させることが想定されていました。整備計画は昭和30年代にすでに立案が開始されていたようで、昭和36年(1961年)の卸売市場10カ年計画に「10カ年計画中に造成埋立地に60万m2の用地買収を予定。可能な限り集中させる」といった内容の記述があります。昭和41年(1966年)に、大井埠頭の市場予定地の位置と面積がほぼ決定。昭和46年(1971年)に埋め立てが完了します。冒頭の地図(a)が、その概略地図です。

時間軸に沿って大まかに整理してみると、次のようになります。

・青果市場
明治初期:多町からの移転計画
→約60年後:神田市場へ移転(「市場法」統治下に入る)
→約30年後:埋立地への新たな移転計画
→約30年後:大田市場への移転

・魚市場
明治初期:日本橋からの移転計画
→約60年後:築地市場へ移転(「市場法」統治下に入る)
→約30年後:埋立地への新たな移転計画 …移転失敗★
→約30年後:またしても新たな移転計画
→約20年後:豊洲市場への移転?

(※2 当時は「大井市場(仮)」と呼ばれていた。埋立地が「大井埠頭」と呼ばれていたため。該当する埋立地が当時はまだ品川区と大田区のどちらが所有する土地か定まっていなかった。後に大田区の所有地と決まり、品川区の地名である「大井」より「大田」が適当ということになった)

■野鳥が住み着いた埋立地
築地市場の広さは20万m2強。移転前の神田市場の広さはわずか6万m2しかありませんでした。その他、江東、荏原、大森といった都内の市場(分場)を1個所に集中させることで、きっと便利になるだろう…。そのためには50~60万m2の土地が必要だ…。なんとしても大井埠頭埋立地に土地を確保すべし…。

流通の合理化が必要なことはよくわかりますが、卸売市場法という官営化意識の強い法律の影響下で、移転計画が半ば強行されようとした様子が窺われます。神田や築地の市場関係者の多くは、やはり移転に否定的だったようです。ほんの30年ばかり前に大騒ぎして移転した市場からまた動けというのも、考えてみると理不尽な感があります。

またしても移転派、非移転派の鍔競り合いが繰り返される間、埋立地は放置されていました。放置が長引いたのは1967年から12年続いた美濃部革新都政の影響もあるのでしょう。美濃部知事がこの市場移転や大規模土地開発に消極的だったかどうかはっきり把握していませんが、一説によると美濃部知事は卸売市場そのものにあまり関心がなかったともいわれます。

その“空白期”に人知れず埋立地に住み着いたのが野鳥たちです。放置されていた埋立地はきれいに整地されるでもなく、土砂が積まれかなり高低差のある状態のままになっていました。不思議なものでそこに雨水がたまって自然の淡水池ができ、野草が繁茂します。鳥たちにとってすごしやすい場所になっていました。

「せっかく住み着いた野鳥の生息地を、人間の都合でまたぶちこわすのか!」

自然保護を訴える地元住民などが長期間熱心に働きかけをした結果、北西の一角、わずかに3万m2くらいの土地が「野鳥公園」として開園したのは昭和53年(1978年)のことでした…地図(b)。

大田市場地図b
〔昭和50年代の市場予定地の様子。市場予定地には池や沼、ちょっとした山があり、さまざまな野鳥が飛来していた(※3)〕

(※3 北側から用地内に伸びている灰色の線は現在のJR貨物線で、北は田町・浜松町、南は鶴見方面へとつながっている。当時、地下化や高架化する計画からすべて地上を平面に走り用地を真っ二つに分断する計画まであって、市場計画に影響を及ぼした。結果的に市場予定地途中から地下化(点線部分)された。地下化直前で線路は単線になってしまう)

■「決して予定地を手放さない」
この時の小さな野鳥公園は、後にはっきりと野鳥公園が成立する第一歩となったことは間違いないのですが、この時点で当局(東京都)は野鳥のために土地を手放す気はまったくなかったようです。この頃になっても築地市場全面移転構想を崩さず、「最低で50万m2なければ話にならない」などといった発言を繰り返します。時には妥協点を探る人たちを裏切るような強行発言が市場関係者幹部の口から飛び出すなど、野鳥の棲み処を守ろうとする人たちを落胆させたとされています(※4)。

一方、築地市場移転を絶対反対とする勢力も強く、いつまで経っても確たる市場計画が整備できません。そうこうするうちに鉄道線の中央部縦断による用地分断問題、北東側の船たまり新設問題などいろいろな条件が加わっていき、「50万m2」から「44万m2」「42万m2」へと徐々に市場面積が削られるはめになってしまいます。さらに青果、鮮魚のほかに花卉市場を取り込むという話も加わります。

野鳥の件だけでなく、さまざまな思惑が当初のような“市場の集中・統一化”を阻むこととなります。さすがに狭い神田市場や周辺の分場は移転したものの、築地の移転はついに失敗することとなりました(※5)。

結果として、野鳥公園と卸売市場はほぼ半々の痛み分け。野鳥の棲み処(野鳥公園、および市場用地内ではあるが野鳥の生息地として保全されている部分)は約26万m2。卸売市場は、西側の花卉棟や(図には描きませんでしたが)南側の関連用地などを含めたうえで約40万m2として落ち着きました。

大田市場地図c
〔現在の大田市場と野鳥公園周辺。野鳥公園は鉄道線で少し分断されている。市場の花卉棟は、当初予定されていた用地から国道・高速湾岸線をはさんだ西側に作られた〕

(※4 野鳥生息地の環境維持に尽力した当事者である加藤幸子氏の著書「野鳥の公園奮闘記」(1986年、三省堂)に詳しい経過が説明されている)
(※5 大田市場に青果部だけでなく鮮魚部もあるのは、当時大森にあった魚市場が大田に移転したことなどがその理由)

■開発が進んだ埋立地
個人的な話になってしまいますが、この記事を書いている私(松山)は品川区内で生まれ育ったこともあり、大井埠頭が開発されていく過程を結構リアルタイムで経験しています。東京モノレールに初めて乗った頃、モノレールより海側(東側)は、埋立地があるとはいえほとんど海の一部だったような感覚がありました。

昭和50年前後、友人とともにまだ何もない埋立地の道路を行けるところまで自転車で走り、埠頭の先端(今の京浜島、城南島)で釣りをしたことがたびたびあります。6車線くらいの広い国道(今の湾岸線部分)を、車がほとんど走らないことをいいことに、ど真ん中をジグザク走行してみたり。途中で道路の舗装が途切れ、ダートを走っていたら溝にはまったりと、懐かしい思い出があります。

地図(b)の野鳥公園ができたときにも訪れてみました。人が出入りできるのは本当に狭い一角だけで、正直あまり面白みがなかったことを記憶しています。当時、卸売市場移転と狭い三角形の野鳥公園にさまざまな背景があることなどはまったく意識していませんでした。50年代半ばから後半の頃「野鳥の棲み処が卸売市場のために潰される」といった新聞記事を目にして、「あの埋立地にそんな問題があったのか」と再認識することになります。

それからかなり時を置いて訪れた野鳥公園は、大田市場の建物に分断されているものの、多数の野鳥が飛来していることに気がつきます。カワセミを目の前で見たのも、この野鳥公園が初めてでした。今の野鳥公園は、本当に良いところです。

■野鳥 Good Job!
以前の記事でも書きましたが、「国家100年の計」とかいいながら、新しい市場ができても30年も経つとまた新たな市場移転計画を作り出すという、なんだかちぐはぐな政策になってしまっていたことは否めません。高度経済成長があったから、計画が後追いになるのは仕方がないことかもしれませんが…。

昭和後期の築地市場移転失敗は、今となっては間違いでなかったような気がします。100年維持できるかわからない市場設備より、明らかにもっと長い期間、人々を和ませ、自然を保全するであろう野鳥の棲み処のほうが、長い目で見て社会に利益をもたらしていると思うわけです。埋立地が野鳥に占拠されたのは、想定外の僥倖だったのではないでしょうか。

新たに計画されている豊洲新市場の予定地は、もともと民間の土地だったこともあり、きちんと整備している様子が窺われます。例の土壌汚染問題のこともありますし、移転するにせよ移転しないにせよ放置しておくわけはないでしょう。しかし、ゆりかもめなどから俯瞰して見たとき、「今度こそ、予定地を野鳥には渡さないぞ」といった当局の意思があるかのように感じてしまうのは、私だけでしょうか…。

最後は、雑談になってしまいましたか。

▽関連情報
東京湾野鳥公園

▽追加記事:
変貌する東京湾の埋立地

官営化する卸売市場(「神田市場史」より)

江戸時代の昔から、お上は卸売市場の管理に腐心していました。商人は渋々と管理を受けながらも、お墨付きを得るがゆえのメリットを享受していたようです。

神田市場発祥の碑 「神田市場史」(上・下)
[「神田青果市場発祥の地 記念碑」があった場所]

…神田多町市場があった場所にその後「記念碑」が立てられました。昨年(2006年)、その記念碑は取り外されています。左の赤破線枠は記念碑があった位置。今はその写真説明が脇に貼られています(緑破線枠)。

■卸売市場法の功罪
「神田市場史」(上・下)に書かれている議論を読むと、実に複雑な利害関係があったことがわかります。神田多町の青果市場が秋葉原に移るまで長い時間がかかった(記事「かつての市場移転」)わけですが、市場が移転しようがしまいが、卸売市場が本質的に持っている問題点はあまり変わっていないようです。だからこそ、昔も今も同じ議論が繰り返されているのかもしれません。

本書ではいろいろなテーマが採り上げられていますが、非常に単純化してしまえば、次のようなせめぎあいが議論の本質部分にあると考えられます。

・政府(または業界リーダー)は、
天候などで供給量が左右されやすい生鮮食料品の流通システムを公的な責任感から確実に管理したいと考える。管理することにより価格統制、流通量統制などを行いやすくしたい

・商人は、
商売に制限を受けるのは窮屈だが、緩めの管理下に入る代わりに、過当競争の排除、ある範囲での商売の独占権が期待できればよしと考える。システムに組み込まれることで安定した経営環境と地歩を得たい

これらから、例えば次のような策がたびたび講じられようとします。
・取引手数料の一律設定、または料率の制限
・卸売業者の“1品1社”独占、または少数限定(単複問題)
・市場の周辺などで本体と競合する「類似市場」の排除
・相対取引の制限(せり取引原則の強化)

政府と商人(市場関係者)とで利害が共通する要素も多々あり、徐々に市場ルールとして制度化されていった様子が窺われます。方向としては概ね「過当競争を防ぐ」向きにあったといえるでしょう。それが法律として結実したのが「中央卸売市場法」(1923年)です。

■統制経済は今も続いている?
中央卸売市場法は、もともと街中にあった(神田多町や日本橋の)市場をクローズドな区域の中に押し込める法的根拠となりました。「それまで私営だった市場を官営に衣替えした」とともに「区域内での取引独占」をさせることに成功したことになります。

大正から昭和初期は戦争(第一次、第二次世界大戦)の影響が強かった時代で、それが中央卸売市場法のような統制経済的システムと関係しているのは間違いないでしょう。しかしながら、中央卸売市場法は戦後も継続され、1949年など何度かの改訂を経ながら長い期間生き残っていきました。しかも改訂内容といえば、「類似市場の制限」「卸売人の員数制限」「市場開設者の権限強化」「仲買人条項の規定」「過当競争の制限」など。方向性はまったく変わっていないばかりか、部分的には戦前よりかえって統制色が強くなっているような気もします。

実現はしませんでしたが「市場法を、特定の該当する卸売業を管理する“特別法”の位置づけにとどめず、原則としてすべての地域・商売を対象とした“一般法”へと拡大させよう」という考え方もあったようです。案まで出され真剣に検討されたことが本書で克明に説明されています。

本書が編纂された後、1971年(昭和46年)になってやっと大改訂があり、新しい「卸売市場法」ができました。でもこのときもまた、それまで私営だった市場を「地方卸売市場」へと組み込んでいるなど、官営化を進めた側面があります。日本型官営卸売市場のシステムは、戦前から(明治時代から? 江戸時代から?)脈々と引き継がれて今に至っていることがわかります。

■移転は小さな問題かも
神田多町の青果市場が秋葉原に移転するのに約60年かかったことは、前回の記事でまとめました。しかし移った先の神田市場はそのまた約60年後に廃止され、機能は大田市場に移転しました。同じく日本橋の魚市場60年以上かけて築地市場に移転しましたが、ご存知のように豊洲移転が一応決定しています。仮に計画通り豊洲に移転するとしたら、築地市場は約85年の歴史だったということになります。

神田にしても築地にしても「国家100年の大計」とかいって計画されていながら、結局はさほど長期間はもたなかったことになります。移転より前に、例えば築地市場にあった鉄道の引込み線などはとうの昔に撤去されていました。神田市場を引き継いだ大田市場についても、開場後まだ20年も経っていないのに、設備(コールド・チェーン)の不十分さなどが話題に上ったりしています。

と考えると、新しく豊洲中央卸売市場ができたとしても、そもそも100年以上機能し続けると期待するべきものではないのかもしれません。どんなに綿密に計画を練ってもきっと10~20年も経てば設備や機能に足りないところがどんどん出てくるのでしょう。そしてきっと100年持たずにまたしても移転または廃止に…(以下略)。

悲観的な予測をしているというのではなく、経済活動というのはそういうものなのでしょう。とすれば、築地市場が豊洲に移っても移らなくても、長い目で見ればどうでもよい話かもしれません(なんて言うと、関係者には怒られてしまいそうですが)。

■独特な流通システムが変わるとき
日本の「卸売市場法」システムは世界でも独特な制度のようです。以前大田市場の関係者から聞いた話ですが、市場を見学(勉強)しにきた中国の方から「商品をさばくのにどうしてそんな細かいルールや統制が必要なのだ」と言われたことがあるそうです。どちらが社会主義経済の国でどちらが自由主義経済の国なのかわからなくなるような話です。

今後も官営の卸売市場は必要なのでしょうか。生鮮食料品の売買を多かれ少なかれ管理する必要性はあると思いますが、20世紀初頭の仕組みを前提としたまま新しい卸売市場の姿を想像するのは、やはり不自然な感があります。

卸売市場が官営のままで存続しうるのか。「卸売市場法」を今後も継続させるのか。市場移転の話は、問題をもっと掘り下げて考えてみなければわからないのかもしれません。

p.s.
冒頭の写真。神田市場の記念碑があった場所には、
・記念碑は現在千代田区が保管している
・今後、道路整備に合わせて路上での保存方法などを検討していく
と説明(平成18年8月付)がありました。