「上蛇窪ムラばなし百話 米屋トモヱ・聴き書き」

現在の(東京都品川区)東急下神明駅~戸越公園駅~JR西大井駅あたりは、昔「蛇窪」という地名でした。そこに住む90歳になった方の証言集。牧歌的な昭和初期の話から、戦争前後の過酷な描写…。地元に関わりのある方なら強い興味を持つかもしれません。

上蛇窪ムラばなし百話
〔米屋陽一(編著)、2011年〕

■鉄ちゃんなら知っている?「蛇窪」の地名
相当にローカルな話題をお許し下さい。本書は一般に流通している本ではないようですが、品川区の図書館に行けば読めます。「蛇窪」とは今の東京都品川区豊町、二葉、戸越あたりの古い地名で、長くお住まいの地元の方の聴き書きを、ご子息である民俗学者の方がまとめられた本です。出版はつい昨年(2011年)とのこと。

かつて町名として「上蛇窪」「下蛇窪」と2つありましたが、「蛇」という名が一般に好かれるものでないことから、昭和初期に町名を変更することになりました。それぞれの地域に「神明」神社があったことから、「上神明」「下神明」という名に落ち着いたようです。東急大井町線が開業した昭和2年当時は、今の戸越公園駅が「蛇窪駅」、下神明駅が「戸越駅」という駅名でした。

現在でも「蛇窪」という名はわずかに残っていて、JR横須賀線(品鶴線)と湘南新宿ライン(山手貨物線)が平面で合流・分岐するところ(下神明駅近く)を「蛇窪信号所」と呼びます。そのため、鉄道マニアの間では少しだけ知られた地名のようです。

■フクロウも河童もヒトダマも出る田舎
聴き書きの内容は、関東大震災の頃から戦後の混乱期あたりまで。語り部は、蛇窪駅が開業した昭和2年に小学1年生で、前年にできたばかりの地元の小学校に入学されたそうです。その頃の牧歌的な風景が記されています。

・蛇窪駅ができてから拓けてきたけど、周囲は竹やぶと畑ばかり。その中を小学校まで通って行った
・この辺には田んぼはなく畑。ほうれん草とか小松菜が多く、出荷は大八車でやっちゃ場(今の京急線・青物横丁)まで引いていった
・夏は子どもたちだけで大森海水浴場(今の京急線・大森海岸駅近く)まで歩いて海水浴に行った。大森海岸に「海の家」があった
・夜になるとフクロウが鳴いていた。日が暮れるまで遊んでは「フクロウが鳴くから帰ろう」と言っていた
・今の西大井駅のところは崖で、下は小川(立会川)が流れていた
・大雨が降ると立会川があふれて、三間道路までびしゃびしゃになる。見に行こうとすると、「河童が出るから川を見に行っちゃいけない」と叱られた。実際、水に落ちて死んだ人が何人もいる
・中延の八幡さま(荏原町の旗岡八幡神社)あたりには墓が多く、雨が降るとリンが燃える(ヒトダマが出る)ので面白がって見に行った

こうして箇条書きにしてしまっては面白くもないかもしれません。「今」どころか、昭和40年代ごろにはすでに完全に都市化した地域でしたが、そのほんの少し前はほとんど田舎の風景だったことに驚かされます。こんな地域、蛇窪に限らず、都内でもあちこちにあったことでしょう。

■昭和20年5月24日の荏原大空襲
一方、戦中と戦後すぐあたりは、やはり過酷な描写がたくさんあります。終戦の約3カ月前に荏原地区に空襲があり、このあたりも相当焼けたこと、語り部本人が焼夷弾の火から命からがら逃げ惑ったことなどが、繰り返し語られています。

・5月24日の空襲では、あたり一面焼け野原。防空壕へ避難した人たちが蒸し焼きになって死んだ
・全滅した防空壕の中から荷物を盗んだり、死者の着物まで持っていった人がいた
・翌日になってもまだ燃えていて、土が火でポカポカしていた。そして竜巻がきた。焼けトタンが巻き上げられていた
・亡くなった人を桐ケ谷火葬場までリヤカーで運んでいった。でも、白米のおにぎりを持って行かないと焼いてくれなかった
・武蔵小山商店街の人は、そこに留まっても商売にならないので、満州開拓に行ったひとがたくさんいた
・荏原区役所が火事で焼けて、戸籍が丸焼け。その後あらためて戸籍を作ったけれど、その時点で死んでしまった子の戸籍は抜かされてしまった人がいる

昭和20年戸越公園駅
〔昭和20年の戸越公園(旧「蛇窪」)駅〕

上は本書にも掲載されている写真。焼け野原の中の戸越公園駅の様子が写しだされています。同駅をご存知の方は、今の駅イメージと位置関係を想像してみることができるかもしれません。

※この写真は、web上しながわWEB写真館からも見ることができます

実はこの評を書いている私(松山)がまさにこの地区出身で、語り部の話は私の子ども時代の活動範囲とかなり重なるところがあります。個人的にはかなり身近な内容もあって、つい感想を書き残したくなりました。個人的な興味が先行した話で失礼しました。